「や、止めッッ!」
両手の旗を上に突き上げて制止を掛ける。
危ねぇ。審判としての役割を忘れて見入ってしまっていた。
「結ちゃん、ケガはないか?」
「は、はい……大丈夫です」
良かった。ケガなんかしたら試合どころじゃなくなるからな。
安堵の息を吐いていると、試合が中断されたことで、周囲の大人たちがざわつき出した。
「……本当に小学生の試合か?」「しかも女の子同士だぞ」「下手な中学生よりよっぽど立ち回れるじゃないか」「一人は結ちゃんだろう? もう一人は誰だ?」
大人たちは、竹刀の中結の張りを確かめながら戻る奏ちゃんの垂れネームに注目した。そこには千虎──彼女の忌み嫌う兄と同じ苗字が刻まれている。
「千虎? 千虎って、あの? 雨宮君を倒して優勝した、あの千虎 刀治の妹か?」
一瞬、奏ちゃんの目つきが鋭くなったのを俺は見逃さなかった。
やはり天才の妹は天才か。そんな絶賛の声が聞こえてくる。
千虎 奏という少女を、天才の妹というフィルター越しに眺めてくる。
……ああ、辛いよな奏ちゃん。分かるよ。俺も千虎と比べられてきたからよく分かる。
剣道で何を為そうと、全ては千虎 刀治という存在の陰に隠れるのが俺たちなんだ。
じゃあ剣道を辞めるか? いいや、君はきっとこう言うだろう。
逃げてたまるか──と。剣道で因縁を打倒するまで、辞めてたまるかと。
奏ちゃんの心境が……痛いほど理解できてしまう。
どこか悲壮感を漂わせる姿を眺めていると、視界の隅で小さな影が床を踏みしめて立ち上がった。結ちゃんだ。肩で呼吸を繰り返し、口は開きっぱなしだった。
「……体力ないね。あの時もそうやって荒い呼吸になって読みやすかった」
「うる、さい……。こんなので勝った気にならないでよね」
確かにまだ一本にはなっていない。スコア的には互角だが……このままでは、試合巧者である奏ちゃんの方が一枚上手だと言わざるを得ない。
「嫌だ……負けたくない。せんせーまで……失いたくないよぉ……」
ぎゅ、と結ちゃんが竹刀を強く握りしめる。皺の寄った目元には涙が見えるようだ。
「……別に、──……を独り占……ない……ど」
奏ちゃんがぼそりと呟いた言葉は、俺に耳にはよく聞こえなかった。
「勝てば認めてくれるというのなら、勝つだけ」
冷たく言い放ち、中段に構える。漲る闘気に隙はない。何をしてこようが一歩先を行くという自信を切っ先に装填し、結ちゃんに突きつける。
「負けたくない……負けたくない……負けたく──……な……、……」
うわ言のように同じ言葉を繰り返しながら、結ちゃんが竹刀を構える。
顔を上げる。
瞬間、俺の背筋が凍った。
「──」
結ちゃんの表情から感情が消えている。
先ほどまで滲ませていた焦燥や怒りは彼方まで吹き飛び、あるのはただ……無。
己の体を──剣を振るためだけに特化させ、それ以外の余計な機能を排除したかのような。
まさか、と思って目を見張ると。
とん、と小さく跳ねた。まるで車のエンジンに火を入れるようだった。
来た。子どもたち相手では十分に体が温まらなかったのか。
奏ちゃんという強敵と剣を交わし、追い詰められることでこの子の本能が覚醒を促した。
ねじ伏せろ。それ以外の望みなどない──そう言わんばかりに。
とんとんとんとんとんとんとんとん。
徐々に加速する結ちゃんのリズム。心臓から巡る血液が沸騰し始めているのではないか。
彼女の本領──スロースターターのエンジンが唸りを上げる。
「来たか……」
そして、奏ちゃんも結ちゃんのこの性能を知っていたようだ。
加速に踏み込めば二度と減速しない、暴走ともいえる風が奔る。それはもはや鎌鼬を超えて
「うああああああああああああああああッッ!」
鼓膜を引き裂く咆哮を上げるのと同時、結ちゃんの体が一気に弾ける。
俺でさえも圧倒されて後手に回された結ちゃんの本領。奏ちゃんが如何に流麗な足捌きを繰り出そうと、迫る乱舞を捌き切れるとは思えない。
「ぐ、ぅ──……」
結ちゃんの打突が奏ちゃんの面を何度も狙う。
奏ちゃんは皮一枚で躱してはいるものの、徐々に対応し切れなくなっていた。
「──ッッ!」
しかし、怒涛ともいえる打突の間隙を縫い、結ちゃんに少しでも隙があれば斬り穿つ。後ろに足を捌きながら小手を打ち抜いた。
おおっ! と大人たちから一本を予感させる声が上がるが──惜しい。今のは拳だ。音は確かに小手に炸裂したように聞こえたが。奏ちゃん特有の淀みない足捌きから繰り出される精密な打突でも、結ちゃんの猛獣じみた速度は捉え切れない。
俄かには信じがたい。結ちゃんは駆け引きを度外視して身体能力だけでねじ伏せる気だ。
堪える奏ちゃん。攻める結ちゃん。
堅牢に構築された城塞を破らんと畳み掛ける波状攻撃は、一層激しさを増すが──、
「ぜひゅー……ぜぁ、あああッ!」
結ちゃんの息が切れてきた。当然だ。剣道における連続攻撃というのは、百メートル走を休み無しで何本も走っている感覚に近い。小学生の体で長く持つはずがない。
「こ、のぉおおおおおおおッ!」
されど、奏ちゃんの我慢も限界に近い。
どっちだ。どっちの集中が綻び、決壊を迎えるか……。
しかし、その最中で俺は見た。
今、踏み込んだ結ちゃんの膝が一瞬だけカクリと折れた。
まるで、突如走った痛みに体から力が抜けたみたいに。
「結ちゃん?」
咄嗟に声を掛けるも、聞こえるはずがない。
二人の超小学生級の戦いは苛烈を極め──、
「「はぁああああああああああああああああああああああああッッ!」」
距離が開き、まっすぐに突っ込む。奏ちゃんは竹刀での攪乱を混ぜながら。結ちゃんは張り巡らされる陽動を無視して。最後の衝突が──。
「──あ」
瞬間、踏み込んだ結ちゃんの体が、いや、膝が折れ曲がる。
「う……」
自分の視界から外れかけた相手の姿に戸惑い、奏ちゃんの打突も乱れる。
「危ないッッ!」
俺が叫ぶが、遅かった。二人の小学生は真正面から衝突して道場の床に転がった。
周囲の親御さんたちから小さな悲鳴が聞こえた。
「結ちゃん、奏ちゃんッ!」
防具を纏った体は当たり前だが硬い。それが全力で正面衝突したらどれほどの衝撃になるか分かったものじゃない。いくら体重の軽い小学生とはいえ、大怪我も予想される。
急いで二人の状態を確認するが──……、
「いたたた……」
「もう……何なの……」
何か重大な怪我を負った……というワケではなさそうだ。良かった。無事を確認できてホッとしていると、背後から声を掛ける人物がいた。
「──そこまで。この勝負はアタシが預かろう」
楓先生だ。いつの間にか俺たちに近付いて、腕を組んだままそう言った。
「えっ……そんなっ!」
「待ってください、黒神選手。私はまだやれます」
結ちゃんと奏ちゃんの二人同時に抗議するが、先生は毅然としたまま、
「もうこれ以上勝負はできないだろう──奏ちゃんじゃなくて、結ちゃんがな」
結ちゃんに向けて、そう言った。
「そ、そんなことないですっ! ゆいだってまだ戦えます!」
立ち上がって先生に詰め寄ろうとするが、今度は俺が結ちゃんの肩を掴んだ。
俺も先生と同じ意見だからだ。
「結ちゃん……無理すんな。右足の……おそらくは踵か。痛めたな?」
「うっ……そ、それは……」
図星だったようだ。ぎこちなく目を逸らすが分かりやすすぎる。
剣道でよくある怪我の一つに踵の打撲がある。踏み込む際に体重が後ろに残っているか、足を伸ばし過ぎるとこのような症状がよく出る。
おそらくは勝気の逸った結ちゃんが、いつも以上に足を遠くに伸ばしながら試合をしていたんだろう。そうすると足が手前に落下して、踵から床に踏み込むことになるため、痛めやすい。
アイシングやサポーターで解決する話ではあるので、今は稽古をさせないことが重要だ。
「師匠命令だ、奏ちゃんとの勝負は中断しなさい」
「うぅぅ~~……」
犬が呻くような声を上げるが、俺は決して譲らない。
結ちゃんから視線を外し、今度は奏ちゃんの方に向く。
「奏ちゃん」
「……はい、剣晴さん」
上目づかいで俺を見つめてくる。汗に濡れた髪が額に貼り付いてどこか色っぽく見えた。
「素晴らしい剣道だった。君の兄がどうとかそういうのは関係なく……一剣士として俺は君を称賛したい。小学生離れしているよ」
「ありがとうございます……」
素直に誉め言葉を受け取るが、内心は燻ぶっているんだろう。
それも分かる。つけるべき決着をつけられなかったから。一本も奪えなかったから。結ちゃんとは正反対に決して表には出さないが、中断という結果を不満に思っているに違いない。
「勝負は楓先生の言う通り、後日に持ち越しだ。いいね」
「……あなた方がそうおっしゃるのならば、私は従うまでです」
良い子だ。良い子過ぎる。自分を押し殺すなんて真似、小学生にできるとは思えない。
でも、この子はそうせざるを得なかった。そうやって良い子にしなければ、誰にも見てもらえない人生を背負わされているから。
「決まったな。八月三十一日に然るべき場を設ける。場所は日本武道館。そこで白黒つけろ」
「え、武道館? そんなの可能なんすか?」
「アタシなら可能だ。何故なら全日本二連覇──最強の女剣士。女子剣道の発展に貢献してきた実績がある。アタシの手にかかればそれくらい造作もない」
……全日本二連覇という実績がどれほど偉業か今の俺には分からないが、この先生は冗談を言ったとしても嘘は吐かない。本当に実現させる気だろう。
終わりだ。そう言って楓先生は手を叩きながら周囲に解散を促す。気付けば時刻はもう正午に差し掛かろうとしていた。これで今日の稽古は終了ということか。
先生の言葉に大人たちもようやく緊張が解けたのか、二人の健闘に拍手を送っていた。
「……結ちゃん、稽古してくれてありがとう。また大会で勝負しましょう」
そう言って、未だ尻もちをついている結ちゃんに手を差し出す奏ちゃん。
結ちゃんはしばらくその手を見つめていたが、
「…………なんで、あなたが……ッ」
パン、と冷たく弾いた。
「おい、結ちゃんッ!」
その態度にさすがにカチンときて怒鳴るが、結ちゃんは無視した。
奏ちゃんはしばらく弾かれたまま固まっていた。
「……やっぱりあなたには負ける気しない」
俺にしか聞こえない声量で呟き、ゆっくりと手を下ろした。
踵を返して歩き去っていく奏ちゃん。その背を見送り、俺は結ちゃんに体を向ける。
「結ちゃん、さすがに今のは──」
強く注意しようとしたが、手を叩きながら近付いてきた大人に遮られた。
「いやぁ~すごかったね。この子たちは一体何者だい、雨宮君」
「……え、あ……そ、そうですね、僕が見ている子どもたち……って感じですかね」
「ほほ~……あんなに強い子たちが弟子で、君も鼻が高いんじゃないか?」
「ま、まぁ……」
めちゃくちゃ仲悪いけどな。
大人との会話の横目で結ちゃんを見る。
どこか寂しそうに、肩を落としたまま立っていた。