「奏ちゃん……」
稽古の喧騒を縫うように、奏ちゃんはスタスタと歩いてくる。まっすぐ──こちらへ。
「おはようございます、剣晴さん」
「あ、ああ……おはよう」
呆気に取られる俺を他所に、奏ちゃんは礼儀正しく一礼すると荷物を置きに行こうとする。
「待って。なんであなたがいるの」
その背に鋭い声色で尋ねるのは結ちゃんだ。眉間に皺が寄っている。
「なんでって……昨日、私が言ったことを忘れたの?」
──勝負をしましょう。
結ちゃんを倒して、俺の指導を受けることを認めさせる。
奏ちゃんは、今日その決着をつけようというのか。
「ちょ、ちょっと待て。やるにしてもいきなりか? 準備運動は……」
「もう既にしています。剣晴さんが涼んでいる近くで素振りをしていたので」
マジか。気付かなかった。
「せんせー……見ててよ。ゆい、絶対勝つから」
結ちゃんの五人目の相手は、奏ちゃんで決定か。
確かに奏ちゃんの剣風は気になる。結ちゃんを倒したという腕前はぜひ拝見したい。
しかし、よりにもよってこんな形で見ることになるなんて。
どうにかして止めることはできないのか。そう考えていると、横からもう一人やって来た。
「……君が、奏ちゃんか」
楓先生だ。険しい表情で声を掛けてくる。
「初めまして、黒神 楓選手。お会いできて光栄です。私は千虎 奏と申します。稽古中の突然の訪問、誠に申し訳ございません」
「初めまして。来訪自体は歓迎する。しかし、今日来たってことは……」
「ええ。秋嶺 結さんとの勝負──その決着をつけにきました」
ハッキリと。間違えようもない言葉でそう告げた。
轟、と奏ちゃんを中心に暴風が吹き荒れたような気がした。
その様子を見ていた楓先生が、一つため息を吐いて、
「分かった……こちらとしても止める道理はない」
「先生、やらせるんですか」
「仕方ねぇだろ。そうでもしなければ、この二人は納得しねぇ。別に喧嘩するって言ってんじゃないしよ。正々堂々、決着をつけたいならそうするべきだ」
いや、もはや喧嘩だろこれは。剣道の皮を被った喧嘩だよ。
抗議するつもりで先生を見るが、
「……なら、審判はおまえがやれ。危険だと思ったら止めろ。アタシも見ているから、自分で判断できない場合はアタシに振れ」
「──……分かりました」
すぐに止めることになるかもしれないな。
昨夜、俺は千虎に結ちゃんに稽古をつけることは、贔屓になるんじゃないかと言った。しかし、千虎はそれを理解した上で奏ちゃんは勝負を吹っ掛けたと言っていた。
つまり、こういうことだったのか。結ちゃんのアドバンテージを極力つぶすために、この子は最速で勝負を挑むつもりだったんだ。なんて子だ……。
「剣晴さん」
ずい、と俺の足元まで来た奏ちゃん。後ろで手を組んで体をもじもじとさせている。上目遣いの瞳はどこか潤んでいて、少し緩んだ頬は赤く染まっていた。
「見ていてくださいね。あなたの弟子として認めてもらいますから」
なんと声を掛けたらいいのか。この子の境遇と立場は知っている。だからこそ応援したい気持ちもあるが、結ちゃんのこともある。板挟みになっている俺には適切な言葉が選べない。
「せんせー、ゆいが勝つから」
棘のある声で奏ちゃんを威嚇する結ちゃん。
ただならぬ雰囲気に、稽古をしていた大人たちもなんだなんだと再びやってくる。
立場上、奏ちゃんが結ちゃんに挑む形となる。なので、結ちゃんが上座から入って来る。
三歩、近付くと同時に抜刀。蹲踞を行って呼吸を合わせる。
以前結ちゃんと稽古をした時に、剣士は蹲踞までの振る舞いでその実力が分かると言った。
結ちゃんの動作は小学生にしては完成されていると感じたが、
奏ちゃんの動作はもはや、小学生とは思えないほど洗練されていた。
生唾を飲み込む。
小学生の中でも間違いなくずば抜けた実力を持つ二人。どちらが強いのか──直接関係している以上、不謹慎であると分かっているが、どうしても興味が湧いた。
「──ぶっつぶす」
「やってみろ。泣き虫が」
感じる。空気が。
「……始めッ!」
──爆発した。
「ハァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッッ!」
「ッサァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッッ!」
立ち上がって気勢の声を上げる二人。相手を威圧しようと全開の気迫をぶちまけ、微塵も躊躇せずまっすぐに飛び込んだ。
ガコォンッ! とおよそ体重の軽い小学生同士がぶつかった音とは思えないほど大きな衝撃が道場を震撼させた。間近で見ている俺の鼓膜も震えた。
周囲の大人たちは度肝を抜かれて口を開いていた。
俺も思わず目を剝く。まず驚いたのは音よりも奏ちゃんの技術だ。あの結ちゃんと相面で互角とは……。
体の伸びは結ちゃんの方が上だったが、奏ちゃんは正確なタイミングと正中線を維持する手首の強さで対抗したのだ。
判定は相打ち。全く同時に互いの面を打っていたため一本にはならない。
残心は互いに譲らない。そこを退けと言わんばかりに意地を張り、面金が擦れ合う。
鍔迫り合いに移行した。二人とも竹刀を絡めて、相手の視界を自分から外しにかかる。しかし、互いに鋭く内側へ足を捌いて自由な打突を許さない。一進一退の攻防が続く。
「……やぁああああああああああああああああああっ!」
結ちゃんが自分の倒すべき相手を目の前にして、これまでで一番大きな咆哮を上げた。近くで聞いている俺の道着も震えるほどだ。
「シィィィィィィィィィィィィィアッッ!」
されど、奏ちゃんは一歩も退かなかった。
審判の位置にいる俺だからこそ気付いた。二人の目が──光を反射する刃のように煌めいた。
バッ! と二人が同時に飛び
──そして、胸倉の掴み合いに等しい打突の応酬が始まった。
「メンッッ!」結ちゃんが竹刀を振り下ろす。「ッ、胴ッ!」されど、一瞬だけ受けて威力を流した奏ちゃんが即座に引き胴を放つ。「コテ、メェェンッ!」後退する奏ちゃんを追い、結ちゃんが小手の動作を封じてから飛びかかる「──シッ」されど、木の葉が舞うような足捌きで柔軟に躱す奏ちゃん。打突が空を切る。振り返る結ちゃんの姿はまさに猛獣──。
「ふぅ、す──……」
結ちゃんの鎌鼬じみた斬撃に付き合ってられないと判断したのか、奏ちゃんは一度竹刀下ろして呼吸を入れた。
「んっ」
充填し終わった奏ちゃんが詰め寄る。小学生のレベルをはるかに超えた速度で接近してくる結ちゃんに微塵も怯えていない。氷上を滑るかの如き足捌きに淀みは存在しなかった。
鋭く踏み込んでくる結ちゃんの剣が風を想起させるなら、
柔軟な足捌きで躱す奏ちゃんの剣は水を連想させる。
「メ──」
飛び込もうと足を大きく出す結ちゃん。しかし、奏ちゃんがその動きに被せて竹刀の刃を天に向けながら頭上へ移動させた。
「……ッ」
結ちゃんの動きが止まる。上手い。視線を塞ぐように突き出したことで、まっすぐ突っ込もうとする意識に戸惑いを生じさせたのか。
「コテェアッッ!」
となれば、すかさず浮いた手元を斬り落とす。俺でもそうする。結ちゃんは持ち前の目の良さを活かして鍔で受けたが、体の勢いは殺されていた。
これが奏ちゃんの本当の狙いか。厄介な結ちゃんの身体能力を封じること。速度が乗っていると手が付けられないから、まず機動力から奪おうとしたんだ。
「くぅぅ……、邪魔ッ!」
バチン! と竹刀を弾いて飛び込もうとするが、先に足を捌いている奏ちゃんの方が早い。
「コテ、メェンッッ!」
さらには、結ちゃんの竹刀を封殺するために一度弾いてから打突するという徹底ぶり。結ちゃんに気持ちよく剣道をさせない──理詰めと策略の剣士がそこにいた。
まるで結ちゃんの心を掌握しているかのようだ。
しかし、反面……違和感がある。
「ああもう、鬱陶しいッ!」
自分の思い通りに動けないことで、結ちゃんにフラストレーションが溜まる。ただでさえ動きが愚直な結ちゃんがそうなれば、さらに単調になって読みやすくなる。
──奏ちゃんはこの勝負で、自ら攻撃を仕掛けていない。
すべて結ちゃんの動きに対応する形で戦っている。
驚異的な身体能力を持つ結ちゃんが先手を取るのは分かるが、それにしてもだ。
自分自身を主張する打突が見受けられない。どこか霧に撒かれているような……顔の見えない奏ちゃんの剣がハッキリ言って不気味だった。
「はぁぁあッッ!」
飛び出してきたところを小手打ちで脅す。微かに怯んだ結ちゃんの動きが一瞬止まった。
奏ちゃんの竹刀が蛇のようにうねる。そして、結ちゃんの竹刀を巻き落としにかかる。
──巻き技。竹刀で相手の竹刀を絡め取り、手元から吹き飛ばす高等技術。
「うっ……!」
握る中心となっている左手までは外せなかったものの、鍔元に添えられていた結ちゃんの右手が外れた。片手では操作性が落ちる。結ちゃんの面が晒される。
「めぇええええええええええええええええんッッ!」
その隙を逃す奏ちゃんではない。この瞬間を狙って勝負を組み立ててきたんだ。
勝利を決定づける一撃が振り下ろされる──。
「くぁあああッ!」
されど、結ちゃんも根性を見せた。
自分も持つ動体視力を限界まで動員し、猫のような柔軟性で打突から面を逃がした。
二人の体が衝突する。体勢が崩れていた結ちゃんはそのまま転倒した。