「せんせー、頭のケガどうしたんですか?」
「……転んだんだよ」
翌朝、楓先生と共にやってきた結ちゃんが挨拶の次に聞いてきた。
昨夜、千虎にやられたなんて口が裂けても言いたくない。
頭に巻いた包帯を軽く掻く。
「……それじゃあ今日の稽古の課題だ」
──時刻は九時手前。早くに道場へやって来た俺と結ちゃんは正座で向かい合っていた。道場稽古が始まる前に素振りをしたから、俺たちはすでに道着姿で額には汗が浮かんでいる。
「はいっ! なんでしょうか!」
敬礼しながら、例のごとく元気のいい返事をする結ちゃん。
「今日も課題は、五人──」
「──倒せってことですか?」
ずい、と結ちゃんが前のめりになる。目に星を浮かべて尻尾を振っている。
「いいや、勝ち負けは今回考えなくていい。君がするべきは──仲良くなること」
「……へ?」
「君と同級生くらいの子たちも稽古に来る。最低でもその子たちの五人と仲良くなりなさい」
呆気に取られた表情で結ちゃんが固まった。
「ど、どうしてですか……?」
「言っただろ、君には同年代くらいの稽古相手も必要だ。俺とだけ稽古してても体格差が大きすぎて変なクセがついてしまう。それに──道場で友達も欲しいだろう」
奏ちゃんと共に稽古することが現状で難しいなら、他の子たちと稽古するしかない。
それに、結ちゃんはこれからもこの道場に通うことになるのだろうから、中で友達を作っておいて損はないはずだ。
剣道は人と人をつなぐ。それが礼に繋がる。そのことを理解してほしい。
「……ゆいには、──……がいれば……もん……」
どこか不満げに俯いて呟く結ちゃん。よく聞き取れなかった。
「だから今日は俺との稽古は一旦なし。基本打ちとかは付き合うけど、地稽古は同年代の子どもたちとやるように」
「……分かりました」
思いっきり口を尖らせている。露骨に不機嫌になったな。
ゆいにはせんせーがいればいい。奏ちゃんとの邂逅の時にそう言っていたのを思い出す。
それじゃあマズいから、今回はわざと引き離したんだけどな……なかなかに意図が伝わってないみたいだ。どうしたもんか。
うーんと内心で首を傾げていると、ぞろぞろと黒神道場の門下生たちが挨拶をしながら入ってきた。幼稚園くらいの子たちを始め、親御さんやお腹の出たお父さんお爺さんまで。
世間話をしながら、俺と結ちゃんを見つけては声を掛けてくれる。
「おはよう、雨宮君。先週惜しかったね~。頭のケガどうしたの?」「この隣にいる小さい子は、入門希望の子かい? 可愛いな~」「年はいくつ?」「剣道はやったことあるかい?」
剣道をやっている大人からしたら、道場の子どもはみんな息子や孫みたいなもんだ。膝に手を付いて微笑みながら、結ちゃんに柔らかな声で話しかけていく。
「え、えと……あの……」
いきなりの質問攻めに、結ちゃんは目を回していた。
そりゃたくさんの大人に囲われたら混乱もする。仕方ない、助け船を出そう。
「あー……この子は僕に指導をお願いしてきた、入門希望の子です。名前は秋嶺 結と言います。みなさん、どうぞ面倒を見てやってください」
俺が結ちゃんの両肩に手を置いて紹介する。そして背中をそっと押してやり、自分から挨拶するように促した。
「あ、あ、秋嶺 結です! 小学五年生です! よろしくお願いします!」
ぺこーっ! と膝におでこをぶつけるのではないかと思うほど勢いよくお辞儀する。
その姿を見た大人たちから拍手が湧いた。口々に「よろしくね」と言って歓迎してくれた。
周りには子どもたちも集まってきていて、いつの間にか大きな輪が出来ていた。その中心で結ちゃんはあちこちに体を向けて質問に答えている。
……掴みは悪くないんじゃないか? この調子なら友達ができるのもあっという間だろう。
「剣晴、ちょっと来い」
そんな時だった。道着姿の楓先生が俺を呼んだ。
「なんでしょうか」
「結ちゃんの家を見てきた」
息を呑む。小学五年生にして一人暮らしを強いられている結ちゃん。
果たしてどんな生活を送っていたのか──。
「ハッキリ言って……酷い有様だった」
反射的に、顔と拳に力が入った。
「部屋も酷かったが、それよりも食生活の方がヤバい。あの子はおそらく夏休みに入ってから……、いや、お母さんを亡くしてからずっと──まともな料理をしていない」
背中に冷や汗を感じた。
「冷蔵庫は飲み物以外、調味料しかなかった。ほぼ全部カップ麺の類だ。栄養バランスもクソもあったもんじゃねぇ。あんな生活を続けていたら……間違いなく体を壊す」
「そうさせないように、僕が面倒を見るんですね」
「そうだ。おまえんとこの寮長さんに話はつけた。食費は特別に無料でいいらしい。あの子の生活費はアタシの方で援助する。おまえはあの子のメンタルや体の心配をしてくれ」
「分かりました。二学期からはどうするんです?」
「まだ具体的に決まってはないけど、結ちゃんの家に顔を出してのサポートになるだろうな。頼れる祖父母もいないようだし。あの子、本格的に天涯孤独なんだ」
天涯孤独。頼れる血縁が誰もいない、身寄りのない人を指す。
僅か小学四年生の時にそんな状況を強いられた結ちゃんは、これまで誰にも頼らずに生きて来たのだろう。小学校がどのような対応を取っているかは現状では不明のようだが、さすがにずっとかかりっきりではないはずだ。
つまり、俺が親代わりのような存在になるしかない。
「……キッツイっすね……」
それは結ちゃんの境遇に対してか。それとものしかかる責任の重さに対してか。
「分かってる。だからおまえ一人に全部背負わせるつもりはない。ややこしい話はアタシの方でどうにかするから、おまえはあの子が体を壊さないように、寂しがらないようにしてやれ」
先ほど告げた言葉を繰り返す先生。念を押す目は真剣そのものだ。
「……分かりました。何かあったら、連絡します」
「ああ。すぐに相談に乗る」
そう言って背を向けながら手を振る先生。
ふと、湧いた疑問をぶつけてみた。
「ところで先生……どうして結ちゃんの世話を僕に任せようと思ったんです?」
結ちゃんの指導は道場でできる。極論を言えば、私生活まで俺に預けなくてもいいのでは。
「そうか──おまえ自身、自覚していなかったんだな」
……どういうことだ?
「おまえも結ちゃんと同じく……大きな穴が開いてんだよ」
「──」
なんだって? 咄嗟に理解ができない。
「同じ傷を持つ者同士……きっといい方向に向かうと思って提案したんだ」
いつものいじりかと思ったが、どうやらそんな様子ではない。道場の門下生に囲まれる結ちゃんを眺めながら、先生は目を細めて感慨深そうに呟いていた。
……何が言いたいのかさっぱりだ。
「さて、それは置いといて。今日は結ちゃんにどういう指導をするつもりだ?」
パン、と手を叩いて、思考が混乱する俺の意識を自分に向けさせる先生。
「あ、えっと……道場に馴染んでもらおうかと。稽古を通して五人と仲良くなりなさいって」
「ほう、いいじゃないか。そうだな。まずは人とのつながりを作ること……剣道は相手がいなければ稽古が難しいもんだ。そういう輪を意識させるのは大事だ」
先生は口角を上げてそう言った。良かった。セーフみたいだ。
「それじゃあ基本的に結ちゃんはおまえに任せる。何かあったら伝えろ」
「分かりました」
さっきの言葉といい、いじるでも何でもなく、普通に良い先生としての姿を見せてくれた。ちょっと調子狂うな。アレって、他に目がない場合にぶちかましてくるんだろうか。
「そんじゃあ集まったことだし、稽古を始めましょうか」
俺との会話を切り上げた先生は、未だに結ちゃん歓迎会(?)をやっている門下生たちに向けて声を張った。
先生が上座で着座し、手で俺たちに着座していいと合図をする。それを確認し、俺を含めた全員が下座で正座する。結ちゃんも俺の動きに合わせていた。
「黙想ォォォ──────ッ!」
先日俺が結ちゃんと共に行った、精神を落ち着かせる動作。
この時に吹き込んでくる、朝の涼し気な風が好きだ。聞こえてくる小鳥の鳴き声が好きだ。
ただ己の心に没入する。壁際で見ている親御さんたちも倣って静かにしてくれている。この瞬間──道場のみんなの心は一つになっている。
息を吸った鼻から、爽やかな熱気が突き抜けてくる。
意識が切り替わる。日常から剣道へと──。
その瞬間だった。
「あいや、頼もぉうッ! 黒神道場とやらはここで合っているだろうか!」
やたらと野太い、どこかの時代劇を想起させる口調で誰かがやってきた。