「稽古会に招待されたんや。旅費も宿泊費も向こうが持ってくれてん。贅沢やろ?」
ぷしゅ、と空気の抜ける音が響く。千虎がコーラの缶を開けた音だった。
獅子のように逆立った茶髪。つり上がった目。八の字を逆さまにした力強い眉の下に太陽を宿した瞳が浮かんでいる。爛々と輝く双眸に見抜かれた者は心を委縮させてしまうだろう。
端的に言って自信に満ち溢れていやがる。俺も昔からの付き合いで慣れてなければ、目を合わせることも難しかったと思う。
「なるほどな。なんで大阪にいるはずのおまえが東京にいんのかと思ったら」
「ガキんちょは分かりやすくてええのう。ワイが全国最強っていうだけで目を輝かせて教えを乞うてくる。囲まれてるのは気分良かったで」
「お勤めご苦労さんだな」
「ワイとしてはプチ旅行みたいな感じでおもろかったけどな」
一気に飲み干した千虎は空き缶を三メートルくらい先にあるゴミ箱に向かって投げた。放物線を描いた缶はほぼ同じ直径しかないはずの穴にすっぽり入ってしまった。
「ちょうど良かったわ。おまえに確認しておきたいことがあったんよ」
確認? 何だってんだ。
「ワイの妹……奏や。おまえんとこおるやろ」
ドキリ、と心臓が持ち上がった。
「──……知ってたのか」
「いや、予想や。やっぱそうか。ワイのじいちゃんばあちゃんが東京におるから、奏はちょいちょいそっちに行って稽古会や大会に参加しとったからな。さらにおまえは全国で唯一、ワイと延長にまでもつれ込んだヤツや。向かった可能性が一番高いのはおまえんとこやなって」
聞きながら、スポーツドリンクのボトルを握る力が強くなった。
どこまでも上から目線なところと、妹の行動を咎めないこの放任主義が癪に障る。
「おまえよぉ……なんで妹が家出したのか、その理由について考えねぇのか?」
「ん、別に? 自分で武者修行する言うなら止める道理はあらへんわ」
かかか、と高笑いする兄の声で、悲痛な表情を浮かべる妹の姿が脳裏に浮かぶ。
「まぁ一応兄としてよ、妹の行方は確認しとかななぁって」
こいつ、この野郎。どうして妹が家出をしてまで俺のところに来たのか、その理由をちっとも考えやがらねぇ。それどころか、心配の声も上げない。
「……悪いが、今は奏ちゃんを見ていない」
「あ、そうなん?」
「実はもう一人──秋嶺 結って子が俺に指導してほしいと言ってきてな、その子を見てる」
「マジか。おまえ、子どもからモテとんなぁ」
周囲に配慮しない大笑いを炸裂させる千虎。聞いてるこっちは膝が勝手に動いてしまう。
「かっかっかっか……いやぁ、クソ笑ったわ。小っちゃい子どもを両側に置いとるおまえを想像したら……ぶふぅっ! 我慢できんわ……っ!」
自分の膝を叩きながらまた笑い転げる。どんだけツボに入ってんだよ。
「あれ? でもよ、奏を見ぃひん理由にはならんくないか?」
「……それなんだが──」
結ちゃんと奏ちゃんの因縁を話した。
ただし、結ちゃんの親のことは伏せておいた。アレは人にべらべら喋るものではない。
「ほーん……まぁ、しゃーないわな。誰かと稽古したぁないって話はよくあることや。ワイと稽古したぁないって雑魚は全国にゴロゴロおるからよ」
コイツには勝てないから。俺の同世代の連中はみんなコイツに辛酸を舐めさせられてる。
確か……千虎に負けて剣を置いてしまったヤツもいたっけ。
何十、いや何百という屍の上にコイツは立っている。俺を見下ろして。
「話を戻すわ。先に指導を願い出た結ちゃんと奏はどっかでケリ着けるつもりなんやろ?」
「そうらしいな……」
「んで、おまえはどないするん?」
「一応は結ちゃんの指導役を買ったワケだから、真剣に稽古には付き合う、けどよ……」
奏ちゃんも俺の指導を願っているが、今はできない状況だ。
それはつまり、結ちゃんに勝ってもらうため──ひいては、遠回しに奏ちゃんの頼みを断るということだ。そこのところを奏ちゃんはどう思っているのか。
「奏ちゃんからしたら、贔屓に見えるんじゃないかって」
「かっ。下らん」
しかし、千虎は俺の悩みを一蹴した。
「な……くだらないだと? ここはちゃんと考えるべきだろうが」
「らしくないのぉ、おまえ、そんなウジウジ悩むタイプやったか?」
「あぁ?」
「奏が一度でもそんなこと言うたか、って聞いとんねん」
言葉に詰まる。そう言えば……言ってない。
「黙ったいうことはそういうことやろ? なのにおまえは足りん頭を余計に回すせいで変に踏み出そうとせん。そんなんじゃ結ちゃんいう子への指導も身が入らんやろ」
そんな予感はある。指導の最中、頭の中には奏ちゃんへの罪悪感が湧いてきそうで。
「もしもああなら、万が一こうなら。そんな言い訳して立ち止まる雑魚なんざ数え切れんくらいおる。今のおまえはそれと一緒や」
何も言い返せない。
「余計なこと考える前に目の前のことに集中せぇや。たらればを考えたところでキリないやろ」
「だ、だけどよ──」
相手は未来ある子どもだ。幼い頃に感じたことが一生残るかもしれない。
慎重になるべきだ。失敗しないためにも。間違えないためにも。
「だけどもクソもあらへんわ。やってみたらええねん。やって問題が出たらそん時に解決したらええやろ。失敗を怖がったらなんもできんやろが」
それはおまえが天才だから──、
ギッ、と歯を食いしばった音が聞こえたのか、千虎は盛大にため息を吐き。
「こら重症やな。がっかりやぞ。かつてワイを脅かした男がこんななよなよなってたか」
「んだと……?」
「なんや、いっちょ前に刃向かう気力はあんのけ。ほんなら示してみぃや」
千虎が自分の竹刀袋から二本の竹刀を取り出す。
そのまま無造作に俺めがけて放り投げる。慌てて受け取った。
「おまっ……竹刀を放り投げるなよ!」
「ええから構えろや」
「──は?」
「構えろ言うてんねん。そのヘタレた根性、ワイが叩き直したるわ」
何言ってんだコイツ。
しかし、千虎の吊り上がった大きな両目は、自信を漲らせながら爛々と輝いていて。
「おまえ馬鹿か? 防具も付けずに竹刀で打ち合うなんで、喧嘩だろうが!」
「おお、その通りや。喧嘩しよ言うてるねん。言いたいことあるなら剣で示せや」
頭がくらくらしてくる。コイツはまっすぐな目で何を言っているのか。
「逆に聞くが、なんで構えへんねん」
「そんなもん、怪我するからに決まってるだろ」
「誰がや?」
ぐにゃ、と千虎の片目が俺を馬鹿にするように歪んだ。
「──……おまえがだよ」
「ハッ、笑わせんな。これまで何度もおまえと戦ったが、一本でも取れたかいな」
頭に血が上る。しかし、何も言い返せない。その通りだからだ。
「ワイはおまえを相手にして怪我を負うことはあらへん。やから防具なしでも構える。おまえはワイを怪我させる心配はあらへん。ほならほれ。構えん理由はないやろがい」
無茶苦茶な理屈だ。その調子乗った頭蓋を叩き割ってやろうかと思ったが、
「……、ぐ」
構えられない。当然だ。構えれば戦闘の意思を示すことになる。そうなれば千虎は容赦なく打ち込んでくるだろう。受け損ねたりでもしたら、俺が──……、
「ほらな。ビビっとる。おまえは痛みを負うことを恐れとる。今考えたやろ。俺はコイツより弱い。勝負したら負ける。打ち込まれる。やから防具なしは怖い──てな」
「喧しいんだよ……いつまでも見下してんじゃねぇぞ」
心が止めろと叫ぶが、怒りを燃料にした本能が俺に竹刀を構えさせた。
瞬間──猛獣が飛び掛かってきた。
頼れる明かりは街灯だけ。俺が構えた一瞬後には千虎も竹刀を上段に構え、迷いなく俺の脳天めがけて振り下ろしてくる。
「ぐぁ……っ!」
頭を守ってくれる面はない。上段に構えた一撃は防具越しでも目から火花を散らせる。もしも直撃なんてしたら──そんな恐怖心が全身を駆け巡り、反射神経を動かした。
竹刀に直撃する。腕が痺れる。肩まで伝わる重みがコイツの打突の威力を物語る。
「この……後悔すんじゃねぇぞ!」
恐怖に震える足に鞭を打ち、一歩左に捌いてがら空きの面を狙い打つ。
されど空を切る。百九十を超える身長を持つとは思えないほど軽やかな体捌きで千虎が俺の打突を躱してみせた。鍔迫り合いに移行する。
百獣の王を想起させる迫力が、一切の遠慮なく振りかざされる。
「恐れとる恐れとる。打たれたらどうしよう、痛い思いは嫌だ。そんな心が透けて見えるで」
「あ、当たり前だろ! 誰でもそうなるっつーの!」
「傷付くのを恐れとる──身も心もな。おまえもワイも背負っとるモンは既に大きなってもーて、後戻りはもうできんからや。負けたら失うものは自分一人の話やない」
……そうだ。俺たちは共に全国優勝の経験者。コイツは個人で、俺は団体で。
であるならば、この両肩にのしかかる重さは孤独の証で──、
「ならどうする? 簡単や。開き直れや。自分は最強、自分は無敵、そう宣言して貫けばええ。有言実行ほど周りを黙らせる実績はないで」
「誰もが、テメェと同じ様にできると思ってんじゃねぇよ!」
そのおまえの常識を、妹の奏ちゃんにも向けたから、あの子は。
「ほなそれがおまえとワイの差やッ!」
ぐん、と体が弾き飛ばされる。嘘だろ。俺はダンプカーに押されたのか? そう錯覚するほどの膂力に、抵抗できず体が反り返る。
次に飛来する稲妻を、避けることはできなかった。
視界が弾ける。かつて俺の頭蓋を叩き割った一撃が、容赦なく俺の額を割った。
「がぁ……ッ、あ、あぁぁ……ッ!」
視界が歪む。地面を正しく認識できない。自分が倒れたと気づいた時には、口の中に砂利が入りこんでいた。歪な夜空の中で、千虎は退屈そうに竹刀を肩に担いでいた。
「つまらんのぉ……。昔のおまえは恐れ知らず痛み知らずでどんどん殴りかかってきたで。大人になった『剣聖』は牙が抜けてもーたか?」
地面に倒れる俺から、竹刀を奪い取る。
「頼むで剣晴。おまえはワイを唯一延長まで追い詰めた男や。今回はこれで見逃したるが、次会った時もそんななよなよやったらホンマにぶっ飛ばすで」
竹刀をしまい、背を向ける。もう俺を見ることはなかった。
──蒸し暑い空気が纏わりつく。寄ってくる蚊の羽音が耳障りだった。
ズキ、と額が痛んだ。触ってみるとぬるりとした感触があった。夜のせいでよく見えないが、鉄のような匂いから出血しているのだろう。
「クソが……なんだってんだよ、あの野郎……」
俺の溢した愚痴に応えてくれる人は誰もいなかった。