「んじゃっ、ちょっくら結ちゃんを預からせてもらうぜ~♪」
「預からせてもらうぜぇ、せんせーっ!」
楓先生が結ちゃんを小脇に抱え、俺にウインクを残して去ってから数時間。今思えば、なんで結ちゃんまで抱えられながら敬礼してたんだろうな。明らかに拉致される側だったんだが。
ドタバタしてたから、いざ静かな部屋に一人というのはちょっと落ち着かない。
「ちょっと走りに行ってくるか」
夜の稽古ができなかったしな。その埋め合わせと言ってはなんだが、軽くランニングでもしようかね。遅くならないように注意しよう。
ジャージに着替え、外に出る。天には三日月が懸かっていた。南の方角から生温い風が吹いている。やっぱ夏真っ盛りなせいもあって、やや熱帯夜だ。蒸した匂いが鼻につく。
でも昼よりは涼しい。外から聞こえる鈴虫の鳴き声を背景に俺は走り出す。
「ふっ……」
行き先は決まってる。駅にして三つくらい離れた場所にある。普段から走り込んでいる俺からしたら物足りない距離だが、夜を堪能するにはちょうどいいだろう。
「ふっ……ふっ……ふっ……」
地面を蹴る感触、鼓膜を過ぎる空気の音、早くなっていく鼓動、流れていく景色、上昇する体温、コンクリートの匂い──すべてが俺の思考を研ぎ澄ませてくれる。
「そういえば、ガキの頃、千虎と、よく、走った、っけな……ッ」
へらへらしたムカつく笑顔が思い出される。
──そうなれば連想されるのは、妹の奏ちゃんのことだ。
「まさか……千虎の妹が、指導を願ってくるとはな……」
奏ちゃんは境遇が俺と似ている。幼い頃から千虎 刀治という天才が近くにいて、常に比較されて苦しい思いをしてきた。家を出て転校を決意するほどの覚悟で俺のところへきた。
まだ剣風を見てないからなんとも言えないが……結ちゃんを直接倒しているという時点で才能の大きさは窺える。手マメはあまり見られないが、それでもやはり天才の妹か。
こう言うとあの子は激怒する。それも無理はない……。あの子自身を見られる、評価されることは兄がいる限りありえないのかもしれないのだから。
剣道で結果を出そうが、『千虎 刀治の妹だから』で全て片付けられる。
それがどれだけ苦しいか。兄のことを嫌うのも当然だ。
言ってしまえば彼女は、兄という呪いに生涯囚われているようなものなのだから。
俺もそうだ。千虎 刀治という天才が常に隣に、いや──上にいるからこそ、俺は自分の剣道に自信を持てたことがない。
兄の存在が常に付き纏い、自分を覆い隠すフィルターになっている奏ちゃん。
『天照』という存在が常に俺より上にいるせいで、自分に自信を持てない俺。
きっと奏ちゃんもそこにシンパシーを感じているのだろう。だから俺を師事したいと言ってくれた。そりゃあ、そんな熱意を向けられたら教えたくもなるよ。
でも、結ちゃんと絶望的に仲が悪いせいで、二人に教えることは一旦無くなってしまった。
二人は勝負して決めるようだが……それしか方法はないのか。
でも、あの様子を見てたら和解なんてできなさそうだしなぁ。となると、俺は結ちゃんに指導する立場だが、それもどうなんだ?
「っぷはぁ……ッ」
どーしたもんかなと考えているうちに、一気に駆け抜けてしまっていたらしい。乱れる息を何とか抑えようと深呼吸していたら、目的の場所に到着していた。
「やっぱでけぇな、ここ」
──日本武道館。千代田区にある皇居の外苑の一部。武道を嗜む人間なら誰もが憧れる聖地だ。ガキの頃、先生に連れられて全日本を見に来た時の衝撃は忘れない。
荘厳を体現したかのような屋根づくりを見上げる。夜でも赤と金で出来た武道館の文字が輝いている。すり鉢状になった内装は、中心に否応なく注目を集める。たったの一面しか用意されない試合場では、日本の頂点を決める戦いが毎年繰り広げられているのだ。
自分も将来、この場に立つのだろうか──そう考えるだけで、心が奮える。
俺がこの場所に来たのは、自分自身に発破をかけるためである。
呼吸を落ち着かせ、近くの自販機でスポーツドリンクを買い、一口飲んだ時だった。
「──ん?」
少し遠くに人影が。時刻はもう九時を回っているのに。誰だろうか。
向こうもこっちに気付いたのか、ゴロゴロとスーツケースを転がして歩いてくる。
背が高い。百九十は超えているだろうか。何かを背負っている。あれは……、
「竹刀袋……?」
街灯に照らされる長い影は、竹刀袋に違いない。
転がしているのは、スーツケースではなく防具袋か。剣道人だ。いったい誰だ──、
「かっかっか。なんか覚えのある覇気やなと思って近づいたら、ホンマに正解やったわ」
関西弁。甲高い笑い声。このどこまでも透き通って見下す感じ……覚えがある。
「……千虎?」
「おう、決勝以来やのう、剣晴。元気しとったか?」
俺にとっての最大の壁、千虎 刀治。
大阪にいるはずのコイツが、何故か東京の日本武道館の前にいた。