寮には食堂もある。一食五百円だが、寮生は親が払ってくれている家賃の中に組み込まれているらしい。月初めに食券をもらい、それとご飯を交換するシステムだ。
ハッキリ言ってめちゃくちゃ贅沢だ。
だからこそ俺たち練兵館の運動部に所属する生徒は全力で部活に打ち込めるのだろう。
しかし、今回は食堂ではなく隣の自炊場に足を運んだ。そこは食堂が閉まってご飯が食べられないという人に向けて用意された、共用のキッチンだ。
楓先生が米をレンジに、鍋をコンロに掛けている最中だった。結ちゃんが裾を引っ張り、
「せんせー。せんせーとせんせーのせんせーはどうやって知り合ったんですかぁ?」
……ああ。俺と楓先生はどうやって知り合ったのか、か。一瞬分からなかった。
なんか瞳孔が開いてるように見えるのは気のせいだと思いたい。後ろめたいことなんか何もないんだけど、発言を間違えたらそこで何かが終わる気がする。何かは分からん。
「まぁ、大したことないよ。俺が子どもの頃に近くの道場をいろいろ巡ってたんだ」
「おお、どーじょー破りってヤツですか?」
光の消えた瞳から一転、目をキラキラと輝かせて言ってくる。
「いやいや……、普通に出稽古だよ。特に楓先生は当時から大物高校生として注目を集めていたからな。ちょうど近くだから稽古に混ぜてもらったんだ」
当時の記憶が思い出される。通っていた道場の同い年の子どもたちでは相手にならなかったので、より年上に勝負を挑んで回ってたっけ。
「そこで先生にコテンパンにされてなぁ」
「ほえ~……『剣聖』さんが……」
今でも覚えている。先生に向かって俺は『誰だこのチビ女』って言ったんだよな。
それを聞いて浮かべた楓先生の笑顔はたぶん一生忘れない。
「知ってるか? 笑顔って本来……攻撃性を表しているんだぜ……」
「え? どういうことですか?」
いかん、恐怖を思い出して膝が笑い始めてきた。
「まぁ、生意気少年の雨宮くんはものの見事にボコボコにされたワケだが……先生が俺の負けん気を気に入ってくれてな。今度からはウチに来なさいって。そこから先生の元で剣道を習ってここまできた。つまり……俺の恩人だよ」
性格は最悪だけどな。
おぉ~、とどこに感動したのか、結ちゃんは拍手してくる。
「黒神先生が『剣聖』さんを育てたんですね! じゃあ結にとってはせんせーのせんせー、つまりは大せんせーですね!」
ふんす、と鼻息を荒くしてまくし立ててくる。そこは好きにしたらいいさ。
と、思ったら、急に結ちゃんはぴたりと動きを止め、
「……ふむ、せんせーの恩人なら……手に掛けるわけにはいかないですね……」
表情が一瞬で無に切り替わる。
今、すっごい不穏なこと言わなかった?
顔に翳りを作りながらスプーンを磨く結ちゃん。そのスプーンは何の代わりだい?
「何話してんだ? シチュー温まったぞ」
楓先生が呆れながら、皿に盛り付けてくれる。
「「おおお…………」」
俺と結ちゃんが揃って唸る。白く輝くシチューには具材がたっぷり入っていた。細かく切られており、小さな子でも食べやすく配慮がされている。
「おいおい、トランペットを眺める少年か? 早く食べるぞ」
「「はいっ!」」
先生の手伝いをしながら、三人で食堂の長テーブルに座る。
「早く、早く食べましょう!」
「そんな慌てんなって。別に飯は逃げやしねぇよ」
食堂の方から冷たい麦茶を淹れて持ってくる。椅子の上で正座する結ちゃんは待てをされている犬のようだった。
「ほら、手を合わせな、結ちゃん」
「はいっ!」
先生に言われて、結ちゃんが力強く手を合わせる。
ちゃんといただきますを言って、結ちゃんは顔の大きさほどある皿にスプーンを突っ込んだ。持ち方のぎこちなさがまた……心に深く突き刺さる。
「お、美味しいです~っ!」
米粒を口の周りに貼りつけたまま、結ちゃんが頬いっぱいにシチューを詰め込んでいた。
「おぉ、そりゃ良かった」
ニカ、と男らしく笑う先生。どれ、俺も一口……。
「美味ぇ……」
舌に蕩けるルー。微かなしょっぱさが米を進めるアクセントになっている。野菜も甘く、スプーンを動かす手が止まらない。
「先生、めちゃ美味いっす。料理上手っすね」
「そりゃあな。花嫁修業の一通りは終えている。いつでも嫁げる準備はできているのさ」
「でも肝心の相手いませんよね」
「おう剣晴。後で殺す」
しまった。地雷を踏み抜いた。先生の目に光はなかった。
次の稽古で殺されるかもしれない……そう思うとシチューの味が分からなくなった。
「ぷはぁっ! おかわりはありますか!」
冷や汗をかいていると、結ちゃんがもう食べ終わっていた。
「んー、すまないな結ちゃん。持ってきたシチューはもう打ち止めだ」
「あ、そうなんですね……」
ぱく、とスプーンを咥えて、付着しているルーの残りを名残惜しそうに舐める。
そんな結ちゃんの姿を見て、楓先生は狙い通りと言わんばかりに笑った。
「さて、今後の方針だ。とりあえずだが……一晩だけ、アタシが結ちゃんを預かろう」
「え、どゆことっすか?」
腹も膨れて話の本題に入るのはいいが、ちょっと予想外なことを言い出した。
「結ちゃん、明日から君は剣晴の部屋に泊まるといい。寮監にはアタシからも口添えする。だから必要な荷物などを運ぶために、今日だけアタシに付き合ってくれないか?」
「ふぇ?」と結ちゃんが首を傾げた。
「……今後、結ちゃんは俺が面倒を見るってことですか?」
「今夜はアタシが。夏休みの間はおまえが。夏休みが明けてからはこっちでまた考える」
「奏ちゃんは」
「そっちについては考えなくていい。この場にいないからな。目下の問題は結ちゃんの所在をどうするかだ。今夜泊まるだけの荷物は持ってきてないだろう。それを取りに行くのもあるが」
先生は結ちゃんに聞こえないようにしたいのか、俺の胸倉を掴んで耳元で囁く。
「……この子が現状、どういう生活を送っているかを見たい。アタシがおまえから連絡を受けてシチューを持ってきた意図は分かるな? そういうことが今後も必要になるかもしれない。それを見極めに一晩だけ預かる」
「……なるほど」
パ、と俺の胸から手を離し、先生が結ちゃんに向き直す。
「どうだろう、結ちゃん。今夜だけ君の家に泊めてくれないか?」
「え、えと……」
困惑する結ちゃん。無理もない。いくら俺の先生とはいえ、いきなり会った人を自宅に泊めるのは子どもなら抵抗があるだろう。
しかし、楓先生は「ふっ」と澄ました笑みを浮かべ、
「……このシチューより美味しいご飯を作ってやるぞ?」
「分かりました。ぜひ泊まっていってください」
結ちゃん、陥落。美味しいご飯には勝てなかったよ……。
なるほど。先生が結ちゃんにおかわりまで用意しなかったのはこれを見越していたからか。
さすが全日本二連覇、最強の女剣士。展開の予測が正確だ。
「美味しかったのもそうですけど、誰かとお料理を食べるのって結は嬉しくて……」
その返事に少しだけ目を見開いた。そうか。誰かの手料理を、誰かと食べる。そんなことすら、結ちゃんにとっては当たり前じゃないのだ。
家族──のように近しく感じられる人──の作るご飯が食べたい。
ただそれだけのことだった。
親に甘えたい時分だろうに、甘えることのできない境遇はどれだけ辛いか。
その心苦しさを結ちゃんは剣道にぶつけて来たのかもしれない。
スプーンを持つ結ちゃんの手は……やはり痛々しいほどの傷で埋まっていた。
それがこの子の境遇を表しているようで、俺は細く長い息を吐いた。
「なるほどな……」
この子は誰かに甘えたかったのだ。
奏ちゃんと邂逅した時に喚き散らしたのも、因縁の相手というだけではないだろう。おそらくは俺という甘えることのできる対象……つまりは家族のように思える存在が取られると思ったからだ。
小学五年生は俺から見たらすべて幼い。しかし、特に結ちゃんは幼く見える。小学五年生かもしれないが、どこかもう少し年下……小学三年生くらいに感じられるのだ。
きっと気のせいじゃない。最も身近な社会である家族との触れ合いが極端に少なかった結ちゃんは……体ではなく、心の成長が遅れているのかもしれない。
危ういのだ。
どうしようもなく。
どこまでも研ぎ澄ました刀のように。
切れ味は抜群だ。しかし、反面……脆いという欠点がある。
俺が少しでもこの子の心を安心させられるのなら、いくらでも剣道を教えたい。
シャワーの時に抱き着かれたやわこい感触と、この子の手を埋める硬いマメ。
このアンバランスさが、秋嶺 結という少女なのだ。
「なら今度、俺が親子丼でも作ってやるよ」
「え、せんせーも料理作ってくれるんですか!」
「大雑把でもよけりゃあな」
「わーいっ!」
家族のように思える人物の暖かさを享受する喜び。この子はそれを欠いたままここまできた。
きっと、お母さんがいなくても大丈夫と、強く自分に言い聞かせてきたんだろう。
──自分が剣道の試合で負けたら、大事な人はいなくなってしまう。
そんなことありえるはずがない。母親の死とこの子の敗戦が重なったのは単なる偶然に過ぎない。
しかし……その最悪の偶然は、この子の魂に呪いを掛けてしまった。
僅か十歳にして身を削り、己を追い込むことが宿命だと……強い観念に囚われてしまった。
強さと勝利のみを追求する──暴力の剣。
剣道の本元は殺し合いだ。命を奪うために剣は生み出された。それは否定しない。
でも、それが全てなのか?
ならば剣道はどうして生まれた? 現代で真剣を振り回すことなど、俺がロリコンかどうかよりよっぽど通報案件だ。
それは──殺し合い以上に大事なことを、剣に見出したからだろう。
即ち剣道の理念。剣の理法の修錬による人間形成の道であるという考えだ。
……ただ、俺は別にその道を究めているワケじゃない。
それでも、この子よりも先輩である俺が伝えられることはあるはずだ。
強さや勝利よりも、大事にしなければならないことを、俺は、教えなければならない。
それがこの子を呪縛から解き放つのだと信じて。