「ダメ───────────────────────────────────ッッッ!」
道場全体──いや、周辺のご近所さんも飛び起きるほどの声量で結ちゃんが叫んだ。間近で聞いた俺の耳にはジェット機が通り過ぎたような高音が残っている。
「ダメったらダメッ! 絶対ヤダ! ヤダヤダヤダッ! ゆいは反対ッ! せんせーはゆいのだもん! ゆいだけのせんせーだもん! 絶対絶対渡さないッ!」
沈黙していた結ちゃんが怒涛の勢いで喚き出した。俺の手を引っ張って胸に抱きかかえる。
「ちょ、結ちゃん……? どうしたってんだよ。別に結ちゃんの指導を止めるとか言ってないだろ? 同年代の稽古相手はいた方がいいぞ」
「ヤダぁッ! いらない、いらない、いらないッ! ゆいはせんせーだけでいい!」
参った。全く聞く耳を持たない。ものすごい力で腕を抱きかかえたまま、ちっとも離そうとはしない結ちゃん。どうしたものかと本気で困っていると──、
「みっともない……そんな恥ずかしい姿を見せているから……私に負けたんでしょう?」
奏ちゃんが、氷柱を思わせる声色でそう言った。
「──え?」
声が漏れた。素っ頓狂という言葉はこういう時に使うのだろう。
結ちゃんが負けた……? 千虎の妹に?
まさか、この子が言っていた負けたくない相手って……。
「あんなの負けじゃない! 汗で滑っただけだもんッ! 奏ちゃんだってあんな軽い手打ちで一本になったのおかしい! 千虎 刀治さんの妹だからって贔屓にされてるんだ!」
千虎 刀治の妹。そう言われた瞬間、奏ちゃんの表情に怒りに歪んだ。
「兄は関係ない! 私は私だッ! 千虎 奏だ! 『千虎 刀治の妹』じゃない! 私の力で優勝したんだ! 負けたくせに吠えるなッ!」
凄まじい迫力だ。道場に豪風が吹いたかと思った。
兄の名前を出した瞬間にこれか……。
「……ッ! 後からしゃしゃり出てきて、せんせーに剣道を教えてもらおうなんて図々しいよッ! ゆいはあなたと一緒に稽古をするなんて絶対嫌ッ!」
結ちゃんが外した面を投げようとしだしたので、俺は必死に結ちゃんを羽交い絞めにする。
「落ち着けッ! 暴力はダメだ!」
「出てけ出てけ出てけ─────────ッッ!」
なおも暴れる結ちゃん。すごい力だ。拳が顎に入って視界が揺れた。
「奏ちゃん、ごめんっ! せっかく来てくれたけど、ちょっとこの状況は……っ! 本当に申し訳ないけど、また後日来てくれ……!」
先ほどまでは明らかに怒っていた奏ちゃんも、あからさまに大きなため息を吐いて俺の言うことに従おうとしていた。しかし、道場から出ていこうとしたその時だった。
「……だけど、このまま引き下がるのも納得いきませんね」
ぼそりと。小さな声だったが明らかに敵意を含んでいた。
「秋嶺 結」
「……何よ。話すことなんかないんだけど」
「私と勝負しましょう」
一瞬、空気が張り詰めたのを感じた。
「確かにあの決勝は偶然私が勝ったとも見える……だったら、完膚なきまでにあなたを叩きのめせば、負けを認めるということね?」
「やれるもんならやってみてよ……ゆいが勝つもん!」
「言ったわね。じゃあ負けたら──」
すぅ、と奏ちゃんが短く息を吸う。
火花散る二人の睨み合いをどうすることもできない。
「──『剣聖』さんの弟子になることを認めてもらうから」
「……ッ」
結ちゃんが息を呑んだ。だけどそれも一瞬。すぐに眉間に皺を寄せて敵意を見せた。
「じょーとーだよっ! じゃあゆいが勝ったら二度とせんせーに近付かないでよねッ!」
中指でも立てそうな勢いで結ちゃんが俺の腕の中で暴れる。
その姿を見た奏ちゃんが道場を出て行く。失礼しました、と丁寧なお辞儀を添えて。
結ちゃんの荒い呼吸だけが木霊する。嵐のような一幕に全くついていけなかった。
どうやって声を掛けようか……。こんな喚き散らす子どもの適切な対応なんて知っているはずがない。まるで未知の生物を抱えているような気分になり、思わず覗き込むと……、
「──ぅ……ぐすっ……あぅ……うぅう……ッ」
ガチ泣きだった。両目から大きな雫がボロボロと溢れて俺の腕を濡らした。
「ちょ、結ちゃんっ……?」
さらにどうしたらいいのか分からなくなる。もう参ったと言いたい気分だが、結ちゃんが俺の腕をしっかりと握り締めて、
「……せんせー……ゆい以外の女の子に剣道教えちゃ、や……」
集中しなければ聞き逃してしまいそうなか細い声で、そう言った。
まず間違いなく、結ちゃんが倒したい相手というのは奏ちゃんで確定だ。どこかの大会で二人は対決し──奏ちゃんが勝利した。だから結ちゃんはリベンジを誓って俺に指導を願った。
それはいい。問題は……どうして結ちゃんがそこまで勝敗に執着するかだ。
もはや負けず嫌いの領域を超えて、勝たなければならないという強迫観念だ。
いったい何がこの子をここまで駆り立てるのか。
尋ねなければならないだろう。これからもこの子に剣道を教えるというのなら。
「結ちゃん……奏ちゃんと何があったんだ」
結ちゃんは鼻を啜りながら、ぐしぐしと目を擦って、
「……ゆいには、お父さんもお母さんもいません」
そんなとんでもないことを告白した。思わず言葉を失う。
「お父さんは……ゆいが生まれて、蒸発、してしまったらしく……ずっとお母さんと二人で暮らしてきました……」
呼吸は乱れ、言葉はところどころでつっかえた。だけど、それでも結ちゃんはゆっくりと自分のことを話し始めた。
「お母さんは遅くまで仕事していて……ずっとずっと、頑張ってました。好きな剣道も続けさせてくれた。でも、ゆいのためなら辛くないって言いながら、無理していたんです」
力の抜けた腕から結ちゃんの小さな体がすり抜ける。
それでも結ちゃんは俺の腕を離さないように掴んでいた。
「ある日……そんな無理が祟ったのか、お母さんが病気で倒れちゃったんです」
「……ッ」
「大きな手術をすることになりました。その日が……大きな大会の日でした」
ああ、なるほど。分かった。こっちに祖父母の家があると奏ちゃんは言っていた。それを使えば……こっちの大会に出ることも可能だ。
「その決勝で、ゆいは──優勝できなかったんです」
決して、負けたとは口にしなかった。この子の中で、奏ちゃんに負けたことは絶対に認めたくないことなのだろう。
「そして……ちょうど決勝が終わった時、お母、さんの……手術は……、……」
言葉は嗚咽に塗りつぶされ、理解できる範疇を超えていた。
それでも、この子の母親に何があったかは──痛いほど理解できてしまった。
だからか。この子がここまで勝利と強さにこだわる理由。
秋嶺 結は──自分が負けたら大事な人がいなくなると、本気で思っているんだ。
ならばその最たる原因である奏ちゃんをあれほど拒絶するのは当然か。
……しかし、俺はどうしたらいいのか。
結ちゃんの事情を知った今、どうしても感情移入してしまう。
だが、同時に奏ちゃんの事情も理解できてしまうのだ。千虎という天才が身近にいて、常に比べられて──劣等感を強いられてきたから。
どっちも俺でいいのなら、剣道を教えてあげたくなる。
だが、この二人は仲良く稽古するのが絶望的だ。
「はぁ……仕方ない」
板挟みになっている現状に項垂れそうになるが、今しなければならないことを判断する。
奏ちゃんの話と照らし合わせると、結ちゃんは去年から一人暮らしをしていたことになる。こんな小学五年生の小さな子が、一人暮らしだなんて。
学校はどうしていたんだ。学校側はそれを理解していたのか。給食費とかそういうお金関係は母親のお金でどうにかしているのだろうか。
「結ちゃん、君が良ければ──一度俺の部屋においで。学校の寮だけど」
言っておくが、やましい気持ちなどない。それが現状の最善策だからだ。俺の先生に連絡を入れて、どうすればいいかの判断を仰ぐ。それまでの保護といった感じだ。
ぐずっていた結ちゃんが俺の言葉を聞いて顔を上げた。
「……せんせーの、おうち? ゆい、行っていいの?」
見上げる結ちゃん。泣きそうなハムスターみたいだ。
……しょうがない。寮の方にも事情を説明したら認めてくれるはずだ。なにより緊急事態なワケだし。俺の体裁よりもこの子の安全を優先するべきだ。
「ああ。事情を知った以上、結ちゃんを一人で放置するワケにはいかないしな」
もちろん、結ちゃんが望めば──だが。しかし、その心配は杞憂だったようで、俺の家に上がれると知った結ちゃんはごしごしと涙やら鼻水やらを拭いて、
「行きたい……せんせー、連れてって」
くしゃくしゃな顔のまま俺を見上げた。
「分かった。とりあえず一旦な。それ以降はまた考えよう」
元気を取り戻してきた結ちゃんの頭を撫でる。
まだ瞼はひどく腫れていたが、それでもなんとか笑おうとしていた。
その痛々しい姿を見て、思わず抱き締めたくなる衝動に駆られる。しかし、分かってる。それはどう考えてもアウトだ。絶対やらない。『