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第9話:涼風

「まま、参りましたぁ~……やっぱり『剣聖』さんは強いです……」


 生返事もできない。血が体内で暴れて熱い。夏の気温だけではないだろう。激闘を経て頭が少し呆けている。


 先ほどの結ちゃんはまるで鬼だった。


 とてもじゃないが、今、俺の眼前で面を取り、正座して稽古の総評を聞こうとしている子犬と同一人物とは思えない。……耳を立てて尻尾をフリフリしている。


 俺が一本を取ったのは体格差と間合いの違いでしかない。もしもこれが同じ条件だったら。もっと身長が伸びて、竹刀も俺と同じく三尺八寸高校生用だったら、勝敗は覆っていたかもしれない。


「結ちゃん、どうして急に速くなった? これまでの稽古は手を抜いていたのか?」

「い、いえいえっ! 手を抜いていたワケじゃないです!」


 慌てるように手を振るう結ちゃん。焦った感じは子どものままだ。

 あの雰囲気が変わった様子は少しも窺えないな……。


「ただ……その、調子が良くなるというか、体が軽くなる感じが、その……稽古してからしばらく経ってからなんです。準備運動が足りないんですかね……」


 心当たりはある。例えば野球選手で肩を温めるのに十球だけでいいという人もいれば、三十球を必要とする人もいる。この子はそれが極端に遅いスロースターター体質ということか。


「なるほどなぁ……びっくりしたよ。最後の技もな。誰から教えてもらったんだ?」

「? 教えてもらっていません。せんせーの試合を見て、覚えました」


 なんだって? 


 あの技は、相手に何も考えさせずに小手打ちを引っ張り出す高速フェイントだ。打たれた連中はみんな「何故自分が小手を打ったのか分からない」と言うほどだ。


 子どもが見て理解できる速度じゃない……。


「嘘だろ……見えてたの……?」


「はい。魁星旗の準決での大将戦、そして決勝で優勝を決めたのもこの技ですよね? あとこの前の個人戦でも、ここぞという時の決め技はこれでした。千虎さんは上段でしたが、それでも応用して一本取りかけてましたよね。審判の旗は一本しか上がりませんでしたが……上段からの小手打ちを迎撃するなんてさすがですっ!」


 全部合ってる。ホントに見えてるんだこの子には。

 なんという動体視力。スロースターターのエンジンが十分に温まり、凄まじい稽古で掴み取った後天的な剣道としての身体能力にこの視力も加われば……。


「……せんせー?」

「え、あ……ごめんごめん、ちょっと考え事してた……」


 未来を想像して、体が震えた。これは恐怖ではない。全国に出られるどころか全国を制覇できるだけの可能性を秘めた才能に、武者震いを起こしたのだ。


 同時に、羨ましくもある。そんな動体視力は俺にはないから。この前の大会で決勝まで勝ち上がれたのも、人より多く稽古を積み重ねた恩恵に過ぎないから……。


「……あの、ところで……どうでしたか? ゆいの剣道……」


 おずおず、と下から覗き込みながら尋ねてくる。思わず頬が緩んだ。


「うん。文句無しだ。素晴らしい才能だよ。これからも道場に来れるなら来るといい」

「っ……あ、ありがとうございます!」


 結ちゃんが安堵して満面の笑みを浮かべた。


「ただ、君は剣道がまっすぐすぎる。良いことだけどね。でも勝負ってなると裏を出し抜かれやすい。剣道は駆け引きが肝だ。気で圧倒して相手から打突を引きずり出すように……」

「ふんふんっ。出るぞ、出るぞ~って見せかける感じですか?」


「それもいいな。でも最も重要なのは相手と心を通わせている感覚だ」

「心を……?」


 こてん、と結ちゃんが可愛らしく小首を傾げる。


「ああ。剣道はスポーツじゃなく、武道だから。勝ち負けももちろん大事だが……それ以上に、対話して通じ合うのが大事なんだ。竹刀を通じて相手の心を感じ取る。相手がどういう気持ちか、何を狙っているか……そういうのを理解することが重要になる」


「ほえ~……む、難しいですね……」


 難しい。俺も十分に理解できているとは思えないしな。


 でも、理解は未だできずとも、大事なことを意識しながら稽古するかしないかでは大きな差を生むと思っている。……一瞬脳裏を過ったあの天才は置いといて。


 さて、ところで今何時だろうか。稽古の夢中になって時間を見ていなかった。そろそろ先生を始め、道場の子たちも来るだろう──そう思っていたら、




 がらり、と道場の戸が開いた。

 一人の少女が立っていた。

 涼風が吹いた──そんな錯覚を覚えた。




 息を呑んだ。背丈や顔のつくりから小学生くらいだというのは分かる。たぶん結ちゃんと同じくらいの歳だ。顎と同じ位置で切り揃えられたボブカットに、赤い縁の眼鏡。白の襟付きシャツと黒の夏用カーディガンを重ね、下も同じく黒のロングスカート。


「初めまして。雨宮 剣晴選手──通称『剣聖』さん。突然の訪問、誠に申し訳ございません。私は千虎ちとら かなでと申します。この度は、私の剣道を指導していただきたく、お訪ねしました」


 道場に一礼し、こちらにやってくる。小学生とは思えないほど丁寧に挨拶をする眼鏡子ちゃんだが、その綺麗な仕草も頭から吹っ飛ぶほどの衝撃が俺を襲っていた。


「千、虎……? 君は、まさか……千虎の妹? それがなんで俺のところに──」

「兄よりも、あなたの剣風が好きだからです」


 千虎の妹は一瞬で俺の疑問を吹き飛ばした。

 黒い氷で出来たような瞳が、まっすぐに俺を見上げる。


「私の兄……千虎 刀治は周りが言うように確かに天才です。ですが……あの人は、才能のない人間の気持ちが微塵も理解できない」


 目を細めて兄について語る妹。その目にはどこか暗い怒りが透けて見えた。


「私は常に、兄と比べられて生きてきました。兄と同じ時期に剣道を始め、兄と同じ道を辿ることを期待されました」


 ああ、そうだ。嫌なこと思い出した。

 千虎の野郎は、俺よりも遅い時期に剣道を始めたんだ。


 確か小学四年生だったか。俺は物心ついた時から剣道を始めたというのに、アイツはたったの一年ちょいで俺と互角か──それ以上まで伸びやがったんだ。


「兄が私と同じ年齢の小学生五年生の時には……全国の少年剣道大会で優勝したそうです。しかし、私にはできなかった。その時に兄から軽蔑の目を向けられました……」


 絶句する。千虎が電話で言った残酷な言葉を思い出す。


 千虎、おまえ。妹に対してもそんな態度だったのかよ。大事な家族だろうが。

 おまえは家族にすら、焼き殺す太陽の光線を向けるのか。

 剣道を初めて一年で全国優勝だなんて、おまえにしかできねぇよ馬鹿。


「私は兄が嫌いなんです」


 ずばりと、目に力を込めて妹さん──奏ちゃんは告げた。


「だからというワケではありませんが……あなたの剣は好きなんです。『剣聖』さん」


 だが、すぐさま目元を柔らかくして俺の剣を絶賛した。


「あなたの剣は暖かい。人を思い遣る気持ちがある。あなた自身が血反吐を撒くような努力を積み重ねてきたのだと……伝わってきました」


 ぎゅ、と溢れ出す想いを堪えるように、胸の前で拳に手を重ねる。


「魁星旗は先月の剣道日本に付録されていたDVDで拝見しました。素晴らしかったです。あなたは自分のためだけではなく、自分を支えてくれる全てのために戦っているのですね」


 そう言われるとむず痒い。

 でも、確かにあの試合で頭にあったのはとにかくこれまでの剣道を支えてくれた恩人たちだった気がする。


 五連戦という極限状態で、冬場といえども脱水症状になりかけた時、走馬灯のように仲間のことを思い出していた。


 確かにそれが力になった。この子……奏ちゃんは、俺の剣道でそれが伝わったのだという。


「冷たい兄とは違う、暖かい剣道。あの兄を延長まで追い詰めたあなたに私は憧れました」


 ゆっくりと胸の前で握った手を伸ばしてくる。

 結ちゃんとは違い……そこまでボロボロではなかった。剣道歴がまだ浅いからだろう。

 だが、漲る魂は、決して結ちゃんにも劣るものではなかった。


「あなたに指導していただくために、私は二学期から東京へ転校する予定です」

「ええっ!?」

「家は少し離れますが、十分通える距離に祖父母の家があります。そこに住んでいます。話はすでに決着しており、あとはあなたの承諾を得られるかどうかだけです」


 ガチじゃねぇか。とんでもない家出に呆然とせざるを得ない。

 ここまでで十分この子が本気だと伝わって来る。


「『剣聖』さん……どうか私に、剣道を教えていただけませんか?」


 純粋な俺への憧れ。ただその一心でこの子は大阪からここまで来たという。


 ……参ったな。これほどの熱意を向けられたら、ちゃんと応えなくては恥さらしもいいところである。突然の訪問には本気で驚かされたが、ある意味では好都合だ。


 結ちゃんにとってもいいライバルになるだろう。


 話した感じ、性格は二人とも真逆だ。

 結ちゃんがまっすぐに向かってくる熱血系小学生なら、この子は読書でも嗜んでそうな冷静沈着な小学生、といったところか。タイプの違う相手との稽古から学べることは多いはずだ。


 そう考えて差し出された手を受け入れようとした、瞬間だった。



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