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第6話:二人きりの稽古

 素振りはすでに終わっているということで、すぐに面と小手を装着する。


 窓際から聞こえてくる雀の鳴き声と、窓から差し込む朝日を背に、俺と結ちゃんは向き合って一礼する。


 三歩、すり足で近付きながら竹刀を左腰から抜く。

 上から切っ先を相手に向けるのに合わせて蹲踞──呼吸を合わせる。


「──」


 結ちゃんの一連の動作が小学生にしては完成され過ぎていて、思わず息を呑んだ。

 強い剣士は、礼から抜刀するまでの所作でその強さが分かる。


 俺は今まで道場で何人も子どもを見てきた。

 だが、結ちゃんの所作から感じ取った強さに勝る子は一人もいないと断言できる。


 これは……相当できるな。どこか期待めいた予感を覚え、同時に立ち上がる。


「さて、稽古するに当たってだが、俺なりに大事にしてほしいことがある」


 中段で構えながら、結ちゃんの目を見つめて話しかける。


「……? なんでしょうか?」

「打って反省、打たれて感謝──という言葉だ」


 結ちゃんの目が、小さく見開かれた。


「剣道は一人じゃできない。一緒に稽古をつけてくれる人……多くは自分より目上の相手、つまり先生だな。そういった人たちがいるからこそ剣道ができる」


 結ちゃんは黙って俺の言葉を聞いている。


「打った時、常に自分の打突に改善点はないかを考える、それが反省だ。そして、打たれたということは、自分の構えや気にどこか綻びがあるからだ。先生に打たれることはその綻びを教えていただいていることに他ならない。故に感謝だ」


「……なるほど、です」


「そういう心を持つことが最終的には礼儀に繋がってくるんだ。自分と稽古をしてくれてありがとう、勉強になりました、ってね。俺の先生はそう教えてくれたよ」


「打って反省……」

「打たれて感謝」


 言葉を反芻する。結ちゃんは噛み締めるように何度も呟いていた。


「そういった気持ちが、礼なんだ。剣道で一番大事なことだ。覚えておいてくれ」

「分かりましたっ! 打って反省、打たれて感謝ですねっ! 頑張りますっ!」


 びしっ、と元気良く返事をする結ちゃん。うんうん、良い返事だ。


「よし、まずは切り返しからだ。俺が受ける側……元立ちをやろう」

「はいっ!」


 力のこもった返事と共に、結ちゃんが気勢の声を上げる。


「やぁ────────────ッ! メェ──────ンッッ!」


 大きく振りかぶって、俺の面を打つ。身長差があるのでもちろん頭は低めにしている。踏み込みと同時に面に炸裂した打突は重い音を道場に響かせた。


 うん、良い打突だ。振りかぶってから振り下ろす動作をしっかり足捌き──下半身で運んでいる。手打ちになっていない。今の打突音は力の抜き具合と力の入れる瞬間がよく分かっていなければ出せない、気持ちのいい音だ。


 結ちゃんが打突の勢いそのまま体当たり──ではなく、拳をぶつけるような気当たりを仕掛ける。ほう、これを知っているか。確かに体当たりは打突後の伸びが無くなるという点から、警察の特課などでは採用しないことが多い。


 結ちゃんを指導していた人は、しっかりとした剣士なのだろうな。誰なんだろう。

 切り返しができる間合いまで俺が下がり、再び結ちゃんが振りかぶる。


「メンッ!」


 左側面に立てた俺の竹刀に、結ちゃんの斜めから振られた打突が当たる。

 振り下ろしながら、一歩すり足で寄って来る。


「メンッ! メンッ! メンッ!」


 次は右に立てて打突を受ける。そのまま左右交互に切り返しながら打突を放つ。

一回受ける度に一歩下がり、間合いを調節する。五回目の打突から今度は結ちゃんが後ろへ足を捌きながら切り返しを行う。


 九回の打突を終えたら結ちゃんが大きく後退した。

 そして、間髪入れずに大きく跳び込み──、


「メェェ──────ンッ!」


 パァンッ! としっかり俺の面を捉えて素早く足を捌き、残心を取る。

 見事。最初の打突から最後の打突まで、子どもとは思えないほど洗練された太刀筋だ。そこんじょそこらの高校生よりよっぽど上手い。


 ──切り返しとは、まず間違いなくすべての剣道人が行うであろう、基礎の全てが詰まった稽古である。ただのアップと思って手を抜くことなかれ……というのは俺の先生の言だ。


 切り返しにおいて大事なことは、焦らないこと。速度を重視しないこと。強豪校の切り返しは高速で行うところもあるが、まずは確実に、丁寧に打突を繰り出すことが重要だ。


 次に脱力。肩から無駄な力を抜いて、大きく柔軟に左右の打ちを放つこと。手首だけ回して打つような手抜きをする者もいるが、論外である。


 あとは左拳が常に正中線──体の中心を通っていること。


 剣道の打突は左手で打つ。なぜなら左手が柄頭……つまり最も長く竹刀を握る箇所に当たるからだ。なので、左手が体の中心から外れないようにするのが大事になる。


 あとは呼吸か。打突の瞬間に息を吐き──気勢の声がこれに当たる──振りかぶる瞬間に吸うことだ。息を吸う瞬間は打突が放てないので、その感覚を理解しなければならない。


 まぁざっと切り返しで気を付ける点は大まかに言えばこれくらい。厳密に言えばもっとあるが、結ちゃんの切り返しは以上の注意すべき点をすべてクリアしている。


 もう一セット切り返しを行い、構えながら言う。


「いいね。それじゃあ次はかかり稽古だ。おいで」

「はいっ! お願いします!」


 再び気勢の声を上げ、結ちゃんが鋭く足を捌いて俺に詰め寄る。

 小学五年生用の竹刀の長さは三尺五寸。高校生用の竹刀である三尺八寸より短いため、そういった点も留意しながら間合いを測る。


 ちょうど一足一刀の間合い──一歩踏み込めばすぐに打突を繰り出せる間合い──に入った瞬間、俺は竹刀を微かに退けて面を空ける、


「メェェェェェェンッッ!」


 鋭く跳び込み、俺の面を打つ。手首で竹刀を大きく振っている。いい一本だ。

 すぐに思考は次の打突に向かう。脇を抜けた結ちゃんが止まることなく振り返り、すぐに小さな足を細かく捌いて詰め寄って来る。


 よし、なら次は小手と面の二連撃を──。


「コテ、メェェンッッ!」


 体捌きもいい。一度の打突が洗練されているのは分かっていたが、続けざまに放つには足を確実に捌くことと、何より腰の入れ具合が重要になる。


 気勢もバッチシ、剣も見事、残心も完璧と来た。


 『気剣体の一致』は本当に文句の付けどころがないな。


「いいぞ、次だ!」

「はいッッ!」

 ──『気剣体の一致』とは、剣道における一本の基準を示している。


 竹刀が当たれば一本、という単純な話ではないのだ。

一本と認められる要素のまず一つ目、気。これは気勢が十二分に籠っている打突かどうか。ものすごく簡潔に言うと、『打突を打とうと思って全力で打っているか』ということだ。


 打突後の残心、これも気に含まれる。残心というのは相手から一本を取っても油断せず次に備えているという気構え、もしくは動作である。


 悪い例を挙げると、小学生とかの試合だとありがちなのだが、一本を取った後に思わずガッツポーズをしてしまうというもの。アレをやると気が欠如していると見做されて一本が取り消しになるのだ。


「ドォオオオオオオオッ!」


 俺が竹刀を振りかぶり、ほぼ同時に結ちゃんの体が斜めに迸った。

 バァンッ! と強烈な手応えが腸に伝わってくる。


「そうだ! 相手の有効部位を切り落とすつもりで。骨まで斬るイメージだ!」


 素晴らしい剣の芽を目の当たりにし、思わず受ける俺に熱が入ってしまう。


 次に二つ、剣。これは打突がしっかりと相手の有効部位を切り落としているかどうか。一本とはつまり面なら頭を割り、胴なら腹を裂き、小手なら手首を落とし、突きなら喉を貫く。と言ったように真剣なら確実に致命傷を与えられる打突が一本となる。


「もっと腰を突き出せ! 腕ではなく腰を動かすんだ!」

「はいッ! やぁああああああああッ!」


 パパァンッ! と連続で音が炸裂する。空けられた右手首と面を続けざまに打つ。


 最後の要素、体。これは打突の際にしっかりと体全体で斬っているかどうかだ。簡単に言えば腰が入っているかどうかである。


 真剣を以ってしても、人体に致命傷を与えるのは難しい。だから正しい姿勢、正しい体重や力の掛け方をしているかどうかが見られる。つまりへっぴり腰で小手に当てたとしても、骨まで切り落とせないので一本とは見做されない、ということだ。


 これらが揃っていることを『気剣体の一致』と呼ぶ。

 まぁぶっちゃけ言うと、打突が一本かどうかは人間の目で判断しているので曖昧になっている部分はあるが、それでも結ちゃんの打突すべては間違いなく一本になると断言できる。


「ラストォ!」


 空いた面に結ちゃんが盛大な一撃を叩き込む。

 勢いよく足を捌く姿は見ていて気持ちがいい。


「うん、それじゃあ最後は地稽古をしようか」



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