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第5話:道場

 一週間後。ようやく決勝の余韻も薄れてきたこの頃。


 朝八時。高校に入るまでずっと通っていた黒神道場の敷地内に足を踏み入れる。


 手入れされた芝生の中心に、道案内するように石畳が敷かれている。一歩一歩を踏みしめながら、喧しい蝉時雨の下を通り抜ける。まだまだ陽射しは強くなる一方だ。


 剣士に休みはない。日々鍛錬あるのみだ。剣道の稽古は一日休めば感覚と勘を取り戻すのに三日はかかるという。俺はその考えを信条に今日も剣を振る。


 そもそも大会の悔しさがあるのだから、一日だって休養日なぞ設けない。


 あの決勝で俺は部活動を引退したため、この一週間は楓先生にお願いして稽古をつけてもらっていた。


 しかし、今日来たのはそういった特別稽古をするためではなく、子どもたちも集まって来る黒神道場が開かれる日だからだ。


 ……たぶん、「勉強は大丈夫なのか」とか大人や子どもに言われそうだが、生憎俺に受験勉強は必要ない。最低限のペーパーテストはさせられたが、大学は剣道推薦での入学が決まっているので、卒業までずっと剣道をしまくる日々になる……、


 ──と、思っていたら。


「おはよーございますっ! せんせー!」


 いつも通りじゃない光景が目の前に鎮座していた。


 俺が道場の扉まで歩み寄ると、そこには真っ黒な道着と袴に身を包んだ少女がいた。

 ……ああ、この前の決勝で会った子か。確か結ちゃん。道場の子どもたちにはいない顔だったから思い出すのに少し手間取ってしまった。


 すでに汗をかいていた。脇に防具袋と竹刀を置き、扉の前で正座をしている。大きな声で挨拶すると同時に、三つ指を付いて頭を下げた。


「おはよう。……来たんだね」

「はいっ! せんせーより遅れてはいけませんので! 七時から待って素振りしてました!」


 ああ、なるほど。だから汗をかいていたのか。確かに今日は朝から暑いが、それにしては汗の量が多いなと思っていたんだ。


 しかし、朝七時から待っていたのか……。早い。俺より来るのが早い子は初めて見た。やる気は十分ってところだ。見込みあるな。


「しかし、よく分かったね。あの時……俺、道場の名前しか言わなかったと思うけど」

「最近はねっとになんでも載ってます! 黒神どーじょーって検索したら出ました!」


 へぇ、ホームページとかに稽古の時間とか日にちとか載ってるのか。知らなかった。


「うん、良い心掛けだ。親御さんが送ってくれたのか?」


 楓先生から預かっている鍵を差し込みながら疑問を投げかける。

 何気ない質問だったはずだが、俺の問いに結ちゃんはなぜか沈黙してしまった。


「……………、………そうです。お母さんが送ってくれて」


 数秒の間を挟んで、目線を下げながらそう言った。

 なんだ? 妙な違和感があるな。

 だが下手に首を突っ込むのもどうかと思ったので、「そうか」の一言で流した。


「家はここから近いのか?」

「車で二十分くらい……ですかね」


 ほぉ。ならそんなに遠くもないのか。この前の大会も、親御さんに連れてきてもらったのだろう。熱心な子だ。こういう子にこそ剣道を教えていきたいよな。


「早速稽古をしようか。先生たちが来るのは九時あたり。それまでなら一通りの稽古はできる」

「分かりましたっ!」


 手を挙げて目をキラキラとさせる結ちゃん。この子はどうしても強くなりたいらしい。


 ならば、倒したい相手や優勝したい大会でもあるのだろうか? もしもそうならやはり腕前は気になるところ。


 手の傷の感じから、剣道歴は長いと見えるから期待できそうだ。

 考えながら道場に上がるところで礼をする。結ちゃんも俺に倣って礼をした。


 靴を脱いで上がる。そこから先は別世界。

 ──針葉樹で出来た床板から、木の優しい香りが仄かに漂う。硬くなった足の裏で踏みしめれば、程よく滑りそうな感触が伝わって来る。


 道場の床は豆を撒いてでも滑りやすくしろ、と言われる。これは正確な体重のコントロールを身に着けるためだ。


 楓先生も本来ならもっと滑りやすくしたいと言っていたが、あまりにも滑らかだと打ち込む際に転倒する子が増える。滑りすぎるかどうかのギリギリを狙った材質だろう。子どもに対して指導する先生のこだわりが伝わって来る。


 上の端には神棚。下には試合場を表す白線テープ。左端には高い位置に窓。五十人程度は楽に稽古できそうな、街でも最大の道場だ。


 十分な柔軟を済ませてから、俺が上座、結ちゃんが下座に着いて防具を身に着ける。

 一人で出来るかな、と思ったがいらぬ心配だったようで、一切滞ることなくテキパキと胴および垂れを装着した。慣れている。やはり剣道歴は相当長いだろう。


 防具を着用できたのを確認し、一つ大きく息を吸う。


「黙想ォォォ────────────ッ!」


 道場に響き渡る俺の声。ビリビリと窓が震えるほどだったが、それでも結ちゃんは静謐(せいひつ)を保ったまま目を閉じて集中している。


 黙想をする理由は諸説あるが、日常から剣道に没頭する切り替えるため、というのが主だ。他にも集中力を高めたり、今日の剣道での課題を思い浮かべたり様々だが、最も大事なのは心を落ち着かせる、ということだろう。


 常に冷静でなくてはならない剣道において、心が浮つくと打突も歪む。相手に技の起こりを読まれ、たちまちに返し技を喰らってしまう。


 そうならないためには落ち着いて集中しなければならない。そのために黙想はある。

 数秒ほどの沈黙を挟み、俺が「止めっ!」と声を掛ける。


 目を開けた結ちゃんの貌はきりりと引き締まっていた。


「それじゃあ言った通り……君の剣道を見せてくれ」

「はいっ! よろしくお願いします!」



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