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第3話:その子は突然

 圧倒的な孤独が蹂躙する。

 仲間も先生も道場の人もいない控室で呆然とする。


 電気も点けずに体をロッカーにぶつけてずり落ちる。

 防具はそこらへんに放り投げた。

 腰から伝わる床の冷たさで試合の余韻が霧散していく。


 会場では表彰式の準備が進められているのだろう。

 正直言って行きたくない。

 このまま誰も見ていない内にひっそり帰ってやりたい。


 おめでとう、負けて表彰台に上がる気分はいかがですか?


「…………クソが」


 頭に巻いてあった手ぬぐいを乱暴に剥ぎ取る。

 顔に浮かぶ汗を拭い、どこへとも狙いを定めずに放り投げる。


 緩やかに落下する様を見ながら、足を投げ出してロッカーに背を預ける。

 シン、と深海のように静まり返っている控室では、どんなに行儀悪くても何も言われない。


 ──俺は天才に勝てなかった。


 どれだけ努力しただろう。血反吐を撒き散らし、面の中を嘔吐で汚したことなど数え切れない。

 剣道人生でかいた汗だけで、五十メートルプールを満杯にできるんじゃないか。


「誰よりも……誰よりも、頑張ってきたはずなのに……」


 朝が来たら、太陽が昇るより早く竹刀を振った。

 昼が来たら、飯が喉を通る間も剣を思い描いた。

 夕が来たら、精根尽きるまで稽古に取り組んだ。

 夜が来たら、限界を超えた先へと手を伸ばした。


 それでも──頂点で胡坐かく太陽を斬ることはできなかった。


「……ふざけんな、クソッタレがよ」


 顔を両手で覆い、振り下ろして腿を叩く。

 自分の皮膚を擦った感触が気になり、掌を見つめた。


「こんなボロボロになってまでよ……」


 俺の左手は、傷とマメと水膨れで埋まっていた。

 一つは破裂していて手を汚していた。


 それと、確認していないから分からないが、たぶん左足の裏に血マメが出来ている。

 この脈打つ心臓に少し遅れて響く鈍痛は、残念ながら馴染んだ痛みだ。


 ──剣道の鍛練は痛みとの戦いだ。

 竹刀を振れば手に水膨れ、酷い時で血マメまで出来る。


 足だってそうだ。蹴り足である左足の裏側は目を逸らしたくなるほど皮が捲れる。

 中の肉が見えている状態で床を踏み締めることなど日常茶飯事だ。


 夏は暑い。ゆだるような熱気の中、冷房もない密室で道着と防具を身に纏い、熱中症と脱水症状に手を握られながら剣道をしなければならない。


 冬は寒い。寒いだけなら動くことで解消されるが、問題は床に素足で踏み込まなければならないというところだ。


 自ら激痛に飛び込むような真似を、何度も繰り返さなければならない。


 それが剣道だ。誰もが日本一の剣士を目指して、体と心を削って剣を鍛え上げる。


 まぁ、そんな努力も結果が伴わなければ何の意味もないのだが。

 いくら団体戦で伝説じみた結果を出そうが、『剣聖』などという大仰な名前を付けられようが、圧倒的な才能の前には無力なのだから──。


「もういいや、帰ろ……」


 もう全てがどうでもいい。

 己の惨めさを突き付けてくる現実から、一刻も早く逃げたい。


 明日からどうしようとか、そんなことを考えている余裕はなかった。

 黒い布で出来た防具袋に、乱暴に防具を突っ込む。竹刀を掴む。


 汗と手垢と小手の藍染であおぐろくなった柄を見て少しだけ動きが止まる。

 昔はボロボロになっていく竹刀が誇らしかったが、今となってはその青黒さが自分の不甲斐なさを押し付けてくるようだった。


 顔の中心に眉が寄る。どんな醜い表情をしているか見たくもない。

 自棄になるように大きな音を立てながら竹刀を袋に入れて、忘れ物があるかどうかも確認することもなく控室を出る。


 早く。早く。早く。

 表彰などどうでもいい。この悪夢の舞台から早く逃げろ。


 通り過ぎる人間が怯えたように飛び退く。


「『剣聖』……?」「あれ、雨宮?」と俺のことを知る人物が名前を呼ぶが、追うようなことはしてこない。


 準優勝おめでとう──そんな残酷な誉め言葉が手を伸ばし、背中を捉えるよりも早く俺は会場を後にする。

 そこの曲がり角だ。そこを曲がったらあとは一直線で出口だ──。


「きゃあっ」


 角から体を出した瞬間だった。俺の腰辺りに、なにか柔らかいものがぶつかった。

 同時に聞こえて来たのは、可愛らしい声の鋭い悲鳴。


「──あっ……と」


 しまった。完全な不注意だ。

 ぶつかった位置と声からして、幼い女の子だろう。

 怪我をさせてしまったかもしれない。もしもそうなら大変だ。


「ご、ごめん……大丈夫か?」


 防具と竹刀を下ろして、鼻の頭を押さえながら尻もちをつく女の子に手を差し伸べる。小さい。

 百四十あるかどうかだ。小学四、五年生くらいの子どもだった。


 どうしてこんなところに子どもが? と思ったが今の時期は夏休みだ。

 ならば家族連れで兄弟の応援とかは普通にあり得る話だ。


 ハーフアップという髪型だろうか? 烏の濡れ羽色をした、全く傷みのない髪。

 猫のような大きな瞳に、長い睫毛が上品に反り返っている。

 血色のいい頬に小さな口。

 シミ一つない肌は強い日差しを跳ね返す雪の眩しさを思い出させた。


「は、はぃ~……ごめんなさい、ゆいの不注意で……」


 少し鼻が赤くなっている。鼻血とかは出ていないようだが、痛そうに目を閉じている姿がとても心苦しい。

 俺が百パーセント悪いのにこの子は謝罪してくれる。


 俺の手に気付いたのだろう。お礼を言いながら掴み、片目だけ開けて俺の顔を見る──。


「え……『剣聖』、さん……?」


 俺を認識するやいなや、ぱちくりと両目を皿にして見つめてくる。

 ……ああ、俺を知っていたか。

 今すぐ逃げたくなるが、子どもにぶつかっておいてそんな酷い真似はできない。

 自棄になって周囲が見えていなかった罰として受け入れよう。


「本物……本物だ……魁星旗の決勝で五人抜きを果たした、伝説の……」


 しかし、この子は口をぱくぱくとさせながら、憧れのヒーローと握手をした少年のような瞳で、ずっと俺を見つめている。


「あ、あのっ! 秋嶺あきみね ゆいって言います! 小学五年生です! 今日の試合全部見てました! もうすっごいカッコよかったです! さすが『剣聖』さんでした!」


 俺の頭突きする勢いで立ち上がり、胸元で拳を固く握りながらまくし立ててくる。


 圧倒されて何も言えず、ただこの子が早口で喋り倒すのを見ていることしかできない。


 剣筋を褒められるのは悪い気はしないが、今は逆効果だ。

 すべての褒め言葉の後に、『でも結局勝てなかった』が付属してしまうから。


「ありがとう……でも──」


 優勝はできなかった。

 腰を下ろして目線を合わせ、情けない言葉を言おうとした時だった。




「『剣聖』さん! ゆいに……剣道を教えてくださいっ!」




 この子が、そんなことを、言い出した。



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