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第2話:孤独の決勝

 静寂が会場を支配していた。

 耳朶に響くのは自分の呼吸音と、心臓の高鳴り──そして、剣の鼓動。


 俺の竹刀がまるで一つの生命体になったような錯覚を覚える。


「……スゥ────……」


 相手に気取られないように息を吸う。肚に装填して、打突を爆発させる燃料に変える。

 それは上段を構える相手も同じだった。


 互いに大砲を担ぎ、必殺の一撃を繰り出す機会を虎視眈々と狙っている。


 一瞬で斬って落とすだけの剣があるから、睨み合いは長く続いた。


 真剣勝負のようだ。誰かがそう呟いた。


 ──第七十五回全国高等学校剣道大会。

 場所は大阪府立体育館。


 猛暑を超えた酷暑の八月中旬、全国の頂点を決める戦いが繰り広げられていた。


 舞台はいよいよ個人戦決勝。俺は東京代表として最後の舞台に立っていた。


 相対するは昔から一度も勝てなかった因縁の相手……千虎ちとら 刀治とうじ。小学生まで同じ道場で剣道をしていたが、中学から生まれの大阪に戻ってしまって以来、一度も会えなかった剣友だ。


 大会で勝った話や、レギュラーを取った話などをたまに電話で話す程度の関係だった。


 高校三年生になり、ようやく掴み取った全国への挑戦権。


 一戦一戦が死に物狂いだった。

 慣れない大阪の土地にして千虎のホーム。


 完全なアウェイでのしかかる重圧は、細胞に鉛が埋め込まれているのではないかと思うほどに体を重くした。


 それでも俺は勝ち上がった。生まれてこの方、剣道しかなかったから。


 部活の同期や仲間から引かれるほど稽古に打ち込み、クラスメートが話すブームなど一切触れずここまで来た。


 今この瞬間、俺は人生の意味を問われている。

 因縁の相手との世紀の一戦。


 俺が積み重ねてきた努力が花開くか。

 それとも、無力だと突き付けられてあえなく散るか。


「あぁあああああああッッ!」


 聳え立つ富士を想起させる千虎の上段に飛び込む。ぶつかる面金。眼光が火花を散らす。


 ──この前の三月に秋田で行われた魁星旗かいせいき剣道大会にて、俺は決勝で五人抜きを果たし、母校を優勝に導いた。


 その翌月に販売された剣道日本という雑誌を開いた時、俺は決勝の戦いっぷりから『剣聖けんせい』という異名を頂戴したことを知った。

 本名からもじったのだろう。


 決勝で大将が五人抜きを果たしたのは史上初だという。


 雨宮一人で全国を制した──みたいな風に書かれていたが、それは大きな間違いだ。


 俺は独りでここまで来たんじゃない。魁星旗の時はチームメイトがいた。俺の逆転勝利を信じて、一番近い位置で見守ってくれていたからこそ戦うことができた。


 剣道は独りではできない。


 一緒に稽古をしてくれた後輩や同期、指導してくれた先輩や先生、応援していると背中を押してくれた道場の大人と子どもたちがいたからこそ、戦うことが出来るのだ。


 しかし、今の俺は圧倒的なまでの孤独感に苛まれている。


 応援してくれる人たちがこの会場に来てくれていることは分かっている。敵地の中でも俺の勝利を願ってくれているのかもしれないが……虚しいことに微塵も感じられない。


 千虎という天才の存在が、全てを掻き消している。



 ──千虎 刀治。身長百九十六と非常に大柄な体格を持つ。

 身長が大きいということは、体重も増える。ならば必然速度は遅くなる。


 俺が千虎に勝つには、速度で圧倒するしかない。


 しかし、千虎という男は天才だった。


 俺の知る限りでコイツは無敗。全日本選手権ベスト8の剣士にも勝ったことがあるという。


 剣に愛され、剣道に見初められた、剣の申し子だった。

 この男には欠点も弱点もない。全てが完璧で完成されていた。


 力? 言うまでもない。恵まれた体格が持つ膂力は、猛獣ですらなぎ倒す。


 速度? これも規格外だった。まるで黒豹のように、鋭い体捌きで体を弾丸に変える。


 駆け引き? 読心術を疑った。俺が繰り出そうとする技を嘲笑うようにいなしていく。


 嘘と非現実、それと理不尽を少々。それが千虎という男を構成する骨格だった。


 剣道日本には、俺の次のページにでかでかとこう記載されていた。




『二年連続の全国個人戦覇者。三連覇なるか。

彼は高校剣道界の頂点。まさに太陽──天照あまてらすの名に相応しい剣士だ』




 会場は千虎が三連覇という前人未到の偉業を達成することを期待していた。


 決勝で戦う俺はさながら邪魔者。会場中から敗北を望まれている悪役だった。




 俺はこの試合において、孤独だった。




 クソ……クソ、辛い。


 まるでこの空間全てが俺に負けろと言っているようで、今にも心が折れそうだ……ッ!


「せぇあああああああああああああッ!」


 そんなのは悪い空想だと振り切って、猛火の如き連続攻撃を仕掛ける。

 上段相手では一撃の威力は負けている。


 だからこそ、この牙城を崩すために亀裂を入れなければならない。


 少しでも千虎の体に漲る気が乱れれば、即座に斬り落とすつもりだった。

 だが、それでも千虎の構えは不動だった。


 コイツの背後から立ち上る劫火は、俺の魂すら飲み込まんとしていた。


 『剣聖』と呼ばれようが俺は所詮人の領域。

 しかし、ヤツは人を超えた領域にいる。


 俺と千虎の決勝戦を、神への挑戦──そう揶揄する記者もいたらしい。


 誰もが千虎という天に浮かぶ光に憧れ、コイツのようになりたいと手を伸ばし……やがて焼け落ちていった。


 剣道は五分三本勝負。先に二本先取した方の勝ち。

 千虎は地区予選からすべての試合を二本ストレート勝ちしてきたらしい。


 誰も傷をつけることすら叶わない絶対強者。

 だが、俺は一本も許すことなく、勝負は延長戦に突入した。


 千虎は天才だ。だからこそ思う。この非の打ち所がない天才に打ち克つことが出来れば。


 俺がこれまで積み重ねてきた努力に意味はあったのだと──……。




 最後の勝負。千虎が巨躯を迸らせて飛び込んでくる。

 火山弾のような一撃が迫る。


 逃げてたまるか。ねじ伏せろ。

 ここで退いたら、俺は何のために稽古を重ねて来たんだ。


 視界が白くなる。打ち抜いた手応えと、撃たれた衝撃が同時に襲ってくる。


 どっちだ。自分では判断できない。

 狭い面の視界では、審判がどっちの旗を上げているかは見えない。


 残心を取り切り、振り返る。

 俺の背に付いている帯は赤色だ。赤が二本上がっていれば俺の勝ちだ──。




 白い旗が二本と、

 赤い旗が一本。

 俺は天から墜落した。




「面アリィッッ!」


 審判の裁決の声を合図に、会場が歓声で爆発した。延長五回という果てしない戦いの末……俺は敗北した。


 そこから先……控室にどうやって戻ったか、覚えていない。




 だから俺は気付けなかった。

 決勝の一部始終を、涙ぐみながら観ていた少女の存在に。




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