「いやっ、泥が飛んだじゃない。汚らしい……」
髪飾りを見せつけた時に勢いよく腕を上げたせいか、付着してたヘドロが飛ぶ。
それが頬についた目の前の女は、大げさに顔を引きつらせた。
その態度が私の神経を逆撫でした。
「何よそれ?」
「……私のお母さんの髪飾り。ここに落ちてた」
「ふん、何かと思えば髪飾り? 同じ物なんていくつもあるでしょう?」
「シラを切ろうとしたって無駄。これはお母さんの手作り。同じ物なんて私が持ってるお揃いのやつしかない」
「……へえ、そう」
『今日交易品見てたらね……ほら、可愛いでしょこのピンクの石! キリノ、こういうの好きだもんね! 今度お母さんが髪飾り作ってあげるね~! ……え、ひび? あ、あれ~、真っ二つになっちゃったねぇ~……ああ、ため息吐かないでキリノ~!』
お母さんが鉱物好きな私のためにお土産として買ってきた、淡い色彩のルベライト。
二つに割れてしまったそれを上手く利用して作ってくれた、世界に二つだけの髪飾りだ。
片割れは私の胸元に今もある。
苦し紛れの言い逃れなんて、通用しない。
「……もう一度だけ聞く。私のお母さんをどこへやった?」
「……偉そうに」
「いいから答えてッ!」
巫女の仮面も状況もかなぐり捨てて睨みつける。
ドロテアは忌々しげに私を見返すと、首を横に振った。
「知らないわ。あれが死んだのは事故。いくら独りぼっちのあなたでもそのくらいは聞いているでしょ」
「くだらない嘘を言うな! こんなところに閉じ込められてたのに、枝縁で滑落事故だなんて絶対におかしいでしょ! しかもご丁寧にあんなわかりやすい証拠だけ残してなんて!」
「……」
「殺したな? 私のお母さんを……!」
「……。人聞きの悪いこと言わないでくれる?」
ドロテアは悪びれもせず、面倒だと言わんばかりの顔で宣った。
「私に歯向かった罰としてちょっとここで折檻してるうちに、勝手に抜け出そうとして落ちちゃっただけの話よ」
「――」
「まあもっとも……実際に落ちたのは雲海じゃなくて世界樹の道管だけど」
「どういう、こと……?」
血の気が引く。
世界樹の道管は枝の中を駆け巡る水路で、うちの村では井戸を掘りそこから水を汲んでる。
巨大な樹木なだけあって水の勢いはすさまじく……落ちてしまえば、助かることなんてまず不可能で……。
「ここは水の音がよく聞こえるでしょう? 当然よねぇ。うちの洗濯場は道管につながっているんだもの。」
「じゃ、じゃあお母さんは――っ」
「気づいたかしら? あれは、“なぜか”勝手にそこへ飛び込んだのよ」
血の気が引いた。
どこかで大量の水が流れる音と足から伝う振動。
愉悦で奴の目が曲線を描く。
「ふ……いつ思い出しても笑える。何をしても飄々としていたあの女が、落ちる瞬間に浮かべた慌てふためく顔。散々問い詰めてきた私に助けてもらおうと手を伸ばす、情けなくて無様な最期」
「ッ!」
「あれからもう何年も経ったけど、今もあなたの母親は体を腐敗させながら世界樹のどこかを流れているのかしら? ……ねえ巫女家系の現当主として、ぶふっ、先代に関する見解を教えていただけます?」
「…………」
向けられた侮蔑と嘲りは、ここに塗れる泥よりも臭い立つ。
「そう。そうなんだ」
頭の中は煮えたぎってるのに。
口から出た言葉は、自分でも驚くほど乾いてた。
「そういうこと」
一周回って冷静になるってこういうことなのかな。
とか考えるけど、泥に塗れて冷え切ってたはずの体はどんどん熱くなってく。
「そうだよね。納得した」
「何をかしら?」
「“相手が抵抗したからやむなく起きた事故”。ソウタさんが私を殺そうとした時とおんなじだ」
ヤトと私を巡る会合で、衛兵家系のソウタさんが提案した内容。
あの人、そういう機転が利く性格じゃないからおかしいと思ってたんだ。
不思議。
全然面白くないのに笑えてくる。
「……そうだよね。普段からお上がそういうことしてるんだから、自分も同じことしようって考えるよね。……はは、私のお母さんにもやったんでしょ……?」
「」
「はは、あははっ! そうやって、抵抗したからって、難癖つけてぇっ! そうやって――、……っ」
私は叫ぶみたいに笑って、口の中に血だまりができたみたいに言葉に詰まって。
吐き気を呑み込んで目の前の女に突きつける。
「そうやってお母さんを殺したんだ!」
私の糾弾を、ドロテアは冷笑によって袖にする。
「へえ、名推理じゃない。でも娯楽小説の読み過ぎじゃないかしら? 巫女ってよっぽど暇なのねぇ」
「何を――」
「証拠はあるのかしら? 誰か見た人はいる? いないでしょう。だって当時あなたが必死に駆けずり回っても、何一つわからなかったんだものねえ」
にやぁ。
悪意の糸を引く粘ついた笑み。
「ああ、なんならちょうどここにいる使用人にでも聞いてみる? 今の話を聞いてどうだった? あなたが仕えている主は悪い奴だから、一緒に立ち向かいましょうって。どう?」
「いいえ。そのような事実はございませんので、謹んで遠慮いたします」
「ぶふ、やだ冗談よ。そうよねぇ、名実ともに汚らわしくなった巫女に味方する人間なんていないものねぇ」
「――ッ!」
どこまで。
人を。
バカにすれば……ッ!
「こ、の――ッ」
「キリノ、やめておけ」
頬を張ってやろうと振り上げた私の手を押さえたのは、いつのまにか後ろにいたヤトだった。
「放してっ!」
「落ち着け。得る物もない危険を冒すのはただの愚行だ。おまえならわかっているだろうが」
「だって――!」
「己の感情に負け、あっけなく破滅する。俺はそんなものを見るためにここまで付き合ったわけではない」
「――……」
揺らめく炎は消えない。
でも、握られた手から伝わるヤトの体温も感じる程度には自分を取り戻す。
「あら、自称魔物に諭されるなんて、やっぱり当代の巫女は愚鈍で野蛮なのね」
「っ!」
「安い挑発だ。押さえろ」
「…………。はぁ、わかってる」
どうせ強行したって、懐に手をやってる使用人たちに都合のいい理由を与えるのが関の山。
ため息とともに手を下ろすと、ドロテアも唇の端を下ろして不満そうにした。
「まあ、それならそれでいいわ。じゃあ、おとなしくこの檻の中に入ってもらおうかしら。大好きだった母親と同じところにしてあげる。感謝して?」
ドロテアに顎で示された使用人が私たちを囲む。
私とヤトは抵抗せず押しやられるまま、狭い牢屋の中に一人ずつ押し込められた。
格子越しにドロテアが見下ろしてくる。
満面の笑みは私への……巫女への侮蔑で満ちていた。
「まだ成人したばかりで遊びたい盛りの小娘をこんな場所に閉じ込めて悪いわねえ。……でも、村の奴らと娘に知られるのは困るのよ」
「……人殺し」
「……うふふ、息も絶え絶えの羽虫がした精一杯の抵抗だもの。このくらいの無礼は大目に見てあげるわ。……ぺっ」
「――ッ!」
頬にかかった唾は、私にまとわりつく泥よりも汚らわしい。
睨みつける私の視線も、ドロテアの愉悦の養分にされるばかり。
「それではごきげんよう。永いお家の歴史に終止符を打った最悪の出来損ない……巫女家系の末代当主、キリノ様ぁっ」
耳障りな音とともに鉄扉が閉じられて。
私とヤトの二人は、真っ暗闇の中に取り残された。