書斎を出て私たちが一階まで戻ってきたのとほぼ同時。
耳障りな開閉音が台車の布越しに聞こえて、たくさんの足音がそこかしこへ散っていった。
ちょうど定例とやらが終わったらしい。
もう少し遅れてたら危なかった。
「定例の後は各々仕上げ作業に入るので当分は手薄です。かといって誰一人いないというわけではありませんが、今ならば先へ行くことも可能かと」
今回のもう一つの目的である鉄扉の前まで台車をつけるとユリさんが言った。
「この先はご自分でどうにかしてください。この先が階段というのもありますが、これは愛するヤタロウさんの願いだから不承不承協力したのです。最低限のことはしますが、私たちを巻き込ませるつもりなど毛頭ありませんので」
愛する感、まるでないけどなぁ。
相変わらず、発する言葉に対して態度や口調は凍えそうなくらい冷たい。
案外、ヤタロウさんと似た者同士なのかもしれない。
「はい、わかってます。ありがとうございます」
「そうですか。お帰りの際は侵入経路を逆順になぞればよいでしょう。ヤタロウは帰らせましたが、今日はもうあの部屋に人が来ることはありませんので」
「はい」
「では、ご武運を」
別れの挨拶をする間もなく、私たちは台車の下からユリさんが開けてくれた鉄扉の向こうへと滑り込んだ。
湿っぽい空気を感じると同時、重々しい音とともに後ろで扉が閉じられる。
内部は飾り気のない石レンガが積まれた狭い通路になってて、粗末な燭台が下へと続く階段を照らしてた。
「急ご。ここで誰かと鉢合わせたらどうしようもないから」
「ああ。……ところでおまえは大丈夫なのか? さっき書斎で見つけた本が父親の日記だと言っていたが」
「……言わないで。いったん考えないようにしてるから」
「わかった」
足早に下ってくと、次第に灰色の景観に見慣れた暖色が絡み始める。
扉が一階にあったのに下る階段って時点で予感はしてたけど、やっぱりそうだ。
「……ここ、絶対枝の中を掘って造ってるよね」
「まずいのか?」
「うん。脆くなって枝震が起きやすくなるし、最悪の場合、枝自体折れちゃうかもだから村の掟で禁止されてる」
「ふん、重苦しい扉を使ってるわけだ。さっそく弱みを握ったな」
「……まあ天下の貿易家系ご一行様だから、特権で許可されてんのかもしれないけどね」
「ずいぶんな皮肉を言う。さっき見つけた日記のせいか」
「……。ヤト、下見えてきたよ」
お腹が鳴りそうないい匂いが鼻腔をくすぐって間もなく、視界が開ける。
厨房だ。
通路に沿う形で配置されてる。
石レンガでできた仕切りに張りついて様子を窺うと、背中を向けた使用人が鍋を前に手を動かしてるのが見えた。
「ふむ、地下は使用人の作業場か」
「……。先、進んでみよう」
中の様子を横目に屈みながら、樹木と石材が半々に混ざり合う薄暗い通路を進む。
その後もいくつか部屋は見つかったけど、どこも似たようなものだった。
食料貯蔵庫、服飾室、洗濯室とか使用人の仕事に関連するような部屋が続く。
どこも部屋の大きさは一辺倒で、ただ入ってる中身が違うだけ。
武器庫とかは物騒な感じで気になったけど、魔物襲撃の備えとかを考えれば違和感があるってほどの規模じゃなかった。
「おい、前方から人間の気配が近づいてくるぞ」
「……っ、こっち」
一番近くの部屋に入ってやり過ごす。
寝具を保管してる場所だ。
上階の鉄扉と比べてやたら貧相な木製の扉越しに耳をそばだてる。扉と枠のサイズが合ってないのか、やたら隙間が多いから影で気取られないように気をつけないと。
駆けてくる足音と、遠くで大量の水が流れるような音と、わずかな振動で扉が震える音。
水の方はきっと枝の道管を通る水の音だろう。
それがわかるくらい、ここは深い。
広さも上の建物と同じくらいあるんじゃないかな。
「しかし物々しいわりには、今のところただの使用人の仕事場といった印象だな。何か重大な秘匿があるという雰囲気ではなさそうだが」
ヤトが呟いた。
私は扉に四角く開けられた小窓から通路の様子を窺いながら、首を横に振る。
「……まだ全部見てない。絶対何かある」
「ずいぶんと頑なだが、何か根拠でもあるのか?」
「わざわざ枝の中を掘るなんて掟を破るようなことをしたのに、使用人の作業区画としてしか使ってないなんて割に合わない」
後は巻き込まれることを嫌ってたユリさんが「何もないから行っても無駄だ」とは言わなかったのも気になる。
まあこっちの方は『言ったところで止まらないだろう』って最初から諦めてたのかもしれないけど。
「なるほどな」
「もう大丈夫そうだよ。行こう」
「ああ」
再び通路を進みながら、でも、と思考を再開する。
それにしたって潜入の手引きなんて面倒なことをするより、ユリさんが自ら書斎に行って件の日記だけを回収して私に寄越した方がはるかに楽だったはず。
書斎の前まで同行してくれてる時点でリスクはほとんど変わらないし、手がかりとともに「もう片方の扉には何もない」と説明されたら、さすがの私もこの豪邸に潜入なんて危ない手段を強行しなかったと思う。
ユリさんと話すのは今日が初めてだけど、それに思い至らないほどバカな人じゃないってことくらいはわかる。
じゃあなんであの人は、わざわざ面倒な方を選択したのか。
『私に見せたい何かが、ユリさんにはあった』
そう考えるのは飛躍し過ぎだろうか。
「キリノ、顔が険しいぞ。考え事か?」
「そうかも。ごめん」
「今は集中しろ」
「うん。ありがと」
ヤトの忠告で気を引き締め直し。
隠れ。やり過ごし。黙々と進んでどのくらい経っただろう。
長く感じたけど実際のところ、時間も進んだ道のりも、ほんとは思うほどじゃないかもしれないけど。
とにかくいくら進んでもお母さんにつながる何かがありそうな部屋はなく、もう何もないんじゃないかと思い始めた頃。
「……ねえこれ」
「一階にあったものと同じだな」
仄暗い通路の最奥で私たちを待ち構えてたのは。
部外者を拒絶するような、重厚な鋼鉄の扉だった。