夜。
明かりが消えた自室。
ノックの音を聞いて、私はその時が来たことを悟った。
「監視役、離れたぞ」
扉越しの報告で私は腰かけてたベッドから立ち上がり、扉の外にいるヤトへ呼びかける。
「うん、いつもどおりの時間だね。交代の人が来る前に出よ」
「ああ」
「……あ、ちょっと待って」
「どうした?」
月明かりを頼りに机の引き出しを探り、手のひらサイズの小箱を取り出す。
蓋を開けると、敷き詰められた綿の上に桃色の石がはめ込まれた髪飾りが収まってた。
少しの間それを眺めた後、身に着けてる稽古着の胸元、内側に縫いつけられた衣嚢にしまいこむ。
扉を開けるとやや呆れ気味で腕を組むヤトに出迎えられた。
「何をしていた。もたもたしている時間はないぞ」
「ごめん、忘れ物。行こっか」
暗闇に包まれた居間を、記憶を頼りに抜けて裏口から出る。
この村で生まれ育って早十六年になるけど扉を開けた先、真っ暗闇の中へ飛び込むなんて経験、ほとんど初めてのことだった。
「こっち」
人目を嫌っていつもの道を避けて、むしろ垂直方向へと全力駆ける。
周囲を警戒しながら走って、走って。
枝縁の近くまで来てようやく一息吐いた。
「はぁ、はぁ……誰も、いなかった、よね?」
「ああ」
ほっと胸を撫で下ろす。
少し呼吸を整えてから私とヤトは再び歩き出した。
向かう先は言うまでもなく、貿易家系の豪邸。
「ヤタロウに相談してから十日か。時間がかかったな」
「こればっかりは仕方ないよ。向こうからヤタロウさんに依頼してくれないと動けないもん。十日程度で済んでよかったくらい」
「綱渡りだな」
「一応設備点検の時期が近い、って聞いてたからあてもなく待ってたわけじゃないし、急な計画にしては十分でしょ」
ヤタロウさんから聞いた時間まで、まだ余裕がある。
逸った気をいったん静めながら、私たちは努めてのんびりとした歩幅で村の方へ進む。
「夜だと、やっぱり雰囲気変わるね」
「ああ。夜だからな」
月明かりを頼りに歩く夜道は新鮮だ。
同じ人がいないってシチュエーションでも、朝のそれとは印象が全然違う。
見慣れた風景の輪郭がどれも黒と濃紺で曖昧になって、別の世界に来たみたい。
ワクワクと怖さが半分半分で同居してる。
枝葉のざわめきもなんだか威圧的に感じて、一つ一つの音で大げさに反応しちゃう。
「怖いなら手でもつないでやろうか?」
「結構です~っ。まったく、常識ないくせに変なからかい方ばっかり知ってるんだから」
「文句なら恋愛小説を読み聞かせしてきた自分の母親に言うんだな」
「お母さん、何してんの……」
キョロキョロしてる私と違って、隣のヤトはいつもどおりスカしてる。
後ろから「わっ」ってしたら悲鳴上げたりしないかな……。
「別に驚かんぞ」
「あれ、声に出てた?」
「ああ、意地の悪い笑みとともにな。仮に俺が悲鳴を上げたとして、人に見つかったらまずいだろうが」
「別にほんとにやる気なんかなかったし……多分」
そうこうしてるうちに村へと辿り着く。
中心部へ来ても、話し声どころか人の気配もない。
まるで突然人だけが溶けて消えちゃったみたいで、ちょっとした清々しさがある。
「せっかくだからいろいろ歩き回りたいんだけどなぁ」
「そうしたいなら止めないが」
「止めてよ~」
極力人目を避けるルートでまっすぐに進んでくと、まもなくそれは見えてくる。
暗闇に包まれた村の中でも、貿易家系の豪邸は少しも存在感を薄れさせることなくそこにあった。
「パーティでもしてるのかってくらい明るいね」
「本当にしていたら計画倒れだな」
「怖いこと言わないでくれる……?」
そこかしこの窓から煌々と光が漏れて周辺を照らしてる。
特に明るいのは玄関、エントランス辺り。
多分前来た時にも見たあの派手なシャンデリアかな。
白色系の光ってところを見るに燭台とかじゃなくて、光鉱石がふんだんに使われてるらしい。
贅沢で羨ましい限りだけど、ちょっと困ったな。
「うーん、下手に近づくと見つかっちゃいそう。……ていうか、私たちのことに気づいててわざと明るくしてるわけじゃないよね?」
「考えすぎだろう。疑い出すとキリがないぞ」
「だよね。ごめん、変なこと言った」
後ろめたいことをしてるって自覚がある分どうしても過剰に気にしちゃう。
窓を人影が横切るたびにいちいちビクッと反応しちゃう。
今の私にはどれもこれも家主の警戒心の表れに思えて仕方ない。
「ヤタロウの言った部屋は裏の方だろう? 気を病むのはそっちを見てからでも遅くはない」
「そうだね。行こっか」
念のため正面玄関に施しておいた保険がちゃんとまだ残ってるのは遠目から確認したし、もうここに用はない。
より一層声と足音を潜めつつ、ちょっと離れた位置を保ちながらぐるっと回る。
玄関側にいるときは明かりが邪魔でわかりづらかったけど、ヤトの言ったとおり裏の方へ行くにつれてどんどん夜闇が戻ってきた。
「よかった。これなら大丈夫そう。……あ、その家窓開いてる。気をつけて」
「ああ」
窓の明かりの歯抜けが増えてきた辺りで、私たちは豪邸の壁に張りつく。
「で、奴の言っていた窓はどれだ?」
「えーと、表から数えて十四個めだから……そこだね」
私が指した先の窓には明かりがついてた。
「誰かいるようだが」
「ヤタロウさん、だと思うけど……」
彼からは「時間になったら引き入れる。待ってろ」としか言われてない。
とりあえず二人で窓の近くにしゃがみ込む。
懐から取り出した小さな時鉱石の収まった懐中時計は青く染まり、内側には結晶が一つ。
深夜の一時だ。
もうそろそろだと思うんだけど。
耳を澄ませて様子を窺う。
何か重い物音と、何かを話す男女の声。
くぐもってて会話の内容まではわからないけど、片方の声には聞き覚えがある。
「うん、ヤタロウさんだ。もう一人誰かいるみたいだけど」
「そいつを追い出すのに苦戦している、といったところか」
「かもね。待つしかなさそうだけど……ここで長居するのはちょっと怖いな」
「このまま誰にも見つからんという保証はないな」
「……長引きそうだったら他の場所を探した方が――」
ガタン。
「ッ!」
ビッ……クリしたぁ! 心臓飛び出るかと思ったぁ!
咄嗟に口を押さえて悲鳴を噛み殺す。
ヤタロウさんの指定した窓が断続的に音を立ててる。鍵を開けようとしてるのかな。
どうやら無事に話してた相手を追い払うことに成功したみたい。
――そう、だよね?
音はすぐに止んだ。
固唾をのんで見守るなか、両開きの窓が静かに開け放たれた。
次いで現れたのは――
「待たせたな。入れ」
「ヤタロウさん……」
白い髭に覆われた顔を見て、胸を撫で下ろす。
伸ばされた筋骨隆々な腕を少し緊張と安堵に震える手で掴む。
力強く引き入れられながら、窓を跨いで部屋の中へ。
「も~、心配したんですよ?」
柔らかな絨毯を履物越しに踏む独特の感触を感じながらも、ちょっとしたお小言が口を突く。
「説明してくれないので、どうしたらいいのか全然わからなかったんですから」
「苦手だからな」
ヤタロウさんがヤトを軽々と引き入れるのを見届けて、私はあらためて部屋の中を見回した。
どうやら物置として代用してる客間らしい。
壁紙とかは煌びやかだけど少し埃っぽくて、壺や家具らしきものが布を被せられて乱雑に置かれてた。
「いくら説明が苦手っていっても、せめてもうちょっとやり方が――」
観察しながらなおも安堵を潤滑油によく回る私の舌は、とあるものを見て固まった。
窓際、部屋の隅。
ちょうど外からは見えないような場所に、それはあった。
いや、いたというべきか。
「お待ちしておりました。巫女様、ヤト様」
私たちに一礼する給仕服を纏った一人の女。
その衣装は言うまでもなく、貿易家系に代々仕える使用人の証。
「え」
振り返る。
ヤタロウさんは、見慣れた仏頂面で私たちがたった今入ってきた窓の前に立ち塞がっていた。
「下手に話すと逃げちまうと思ってな」
組まれた太い腕は、抵抗の気すら起きないほど力強く見えた。