両親が健在だった頃の記憶は、実のところ、お父さんと一緒の思い出の方が多かったりする。
巫女家系の性質上、他の家とは違って女が仕事をして男が家を守るのが代々の慣習だからだ。
仕事を終えて帰ってきたお母さんと出迎えるお父さんは、熱い抱擁によって日常を再開する。
特にお母さんの方がべた惚れで、飛び交うハートすら見えそうなくらいにイチャイチャする光景は、子どもながらに呆れてしまうくらいだった。
一方のお父さんは物静かな性格で、お母さんの台風みたいなスキンシップをいつも控えめに受け止める側だった。
もともとお父さんの体が弱いのもあるとはいえ、それがなんとなく不満だった私は、ある日食器を洗う背中に問いかけたことがある。
わざわざ手を拭ってから視線を合わせてくれたお父さんに、ちゃんとお母さんのことが好きなのかって。
「ん、どうしたんだい? いきなり」
「どーなのっ⁉」
「……ああ、もちろん。僕は世界で一番お母さん――サチカさんのことを愛しているよ」
「ええ、いちばんなの⁉ じゃあキリノは?」
「え? ああ、そっか。……うん、ごめんね。キリノは世界で二番目」
「ぶうぅ~」
「しょうがないよ。お母さんだからね」
「……むぅ、しょーがないな! じゃあゆるしたげる!」
「あはは、ありがと」
たったそれだけの会話。
こんな些細なやり取りを今でも覚えてるのはなんでか、と問われれば。
子ども心に引っかかったからだ。
妻への愛を問われたあの時。
お父さんが一瞬、答えることを躊躇したように見えて。
◇ ◇ ◇
私がライヒ様の嫌がらせをあまり気にしてないのは、主にこのドロテア様の存在が大きかった。
簡単にいえば。
もっと嫌な奴を知ってるから、小物なんか気にならないってことで。
その、もっと嫌な奴ってのがドロテア様だ。
「何を生意気そうな目で私を見ているの。さっさとその手を下ろしなさい。指先から汚れが移ったらどうするつもり?」
「そんなつもりは……。申し訳ございません」
「謝るくらいなら、最初からしなければいいのではなくて? それとも自分が汚物だという自覚がないのかしら」
相変わらずの怒涛の口撃に息つく暇もない。
よくもまあそんなにぽんぽん出てくるよね。
とりあえずは満足したのか、彼女の視線が私からヤトへと移る。
「あなた、例の侵入者ね。龍神を自称してるとかいう」
「ああ。今はヤトと名乗っている」
彼の名乗りには応えず。
ドロテア様はつかつかとヤトに歩み寄り、ジロジロとその顔を観察する。
「なんだ? 不愉快だ」
「へぇ、ライヒが言うだけあって顔は整っているわね。美しいものは好きよ」
妙な色香を漂わせながらドロテア様が言う。
ヤトはいつもみたいに、ふん、と鼻を鳴らした。
「礼儀すら弁えられない人間に褒められたところで、なんの価値も感じないな」
「あら、礼儀がなってないのはお互い様のようだけど」
「強者たる龍が弱者たる人間ごときに礼を弁える必要がどこにある?」
「ふ、過去の栄光に縋るなんて、情けない男」
「……なんの話だ?」
「夫から聞いたわよ。龍だった前までならともかく、今のあなたは力を失ったか弱い人間なのでしょう? ……もっとも、犯罪者の話が本当だったらなんて、ありもしない前提を受け入れるのなら、だけど」
「……」
「役にも立たない守り神崩れの魔物を、今さら誰が敬うというのかしら」
「……チッ」
あの傲岸不遜なヤトが黙らされるなんて。
……ちょっと面白い。なんて。
「それにしてもライヒ。いくらこれがお気に入りだからって、上階まで上げるなんて駄目じゃない。巫女まで連れてきて……あまり使用人の仕事を増やすものではないわ」
「違いますお母さま! キリノの方は勝手についてきて――」
「止められてないのなら同じことでしょう?」
「……はい、すいません」
「まったく、仕方のない娘ね」
叱られたライヒ様がシュンとしてる。
夫のブルクハルト様みたいにデレデレとまではいかないけど、ドロテア様もたいがい娘には甘い。
「さあ、一刻も早くここを出て一階の客間にでも行きなさい。……特に巫女、歩くときはなるべく端を選んで」
「……はい」
よっぽど無視してやろうかと思ったけど。
どうにか口をこじ開け、短い返事とともに部屋を出る。
「……」
「どうした、キリノ」
「……いえ、なんでも」
去り際、あのタイトルのない本に目をやるけど、結局手に取ることは叶わなかった。
そんなことしたら、こっちをじっと睨む鬼婆に腕を千切られそうだもん。
◇ ◇ ◇
通された客間は他と比べると少しだけこじんまりとしてた。
といっても私ん家の居間くらいの大きさはあるけど。
今、部屋には私とヤトの二人だけだ。
ライヒ様は父親に呼ばれたらしく、いったん離席中。
ちょっと元気なかったけど、母親に叱られたのがそんなに効いたのかな。
あれに比べれば、私たちの方がよっぽどボロボロに言われてたけどなぁ。
ヤトは平気みたいだけど、私はもう精神的にくたくただ。
「キリノ」
「ん、なに?」
誰もいないのをいいことに、ちょっと椅子にだらけて座ってると、さっきから壁に掛けられた絵画を興味深そうに眺めてた隣のヤトに呼ばれた。
「ここに来るまでの間、おまえの後ろを使用人が二人ついてきていたな」
「……え~うん。そうだね……。ご丁寧に私の歩いた後を綺麗に拭き取りながらね……」
そこまで徹底されると、怒りを通り越してむしろ感心するよ。
ていうか今記憶から消そうとしてたんだから思い出させないでほしいんだけど。
からかうつもりなら趣味悪いよって言おうとしたけど、彼の顔を窺うとそういうわけではないらしい。
「顔立ちと髪色がおまえや村の者と同じだったことを考えると、使用人は貿易家系の一族ではないのか?」
「そりゃー使用人だからね。あの人たちは雇われの身で血のつながりはないよ」
「そういうものか」
「うん。まあ雇われっていっても家系の役割として代々仕えてるから、実質似たようなもんだけど」
「この家もそうだが、貿易家系の一族だけ他とは異質だ。それはなぜだ?」
「貿易家系の人って、もともとはこの枝の人じゃないからね」
「そうなのか?」
「うん。いつ頃かは知らないけど、昔違う枝の人たちがこっちに移り住んできたんだって。その人たちが貿易家系のご先祖様らしいよ」
ヤトの言うとおり、彼らは止まり木村でも少し特殊な立ち位置にいる。
見た目なんて些細な問題はともかく、彼らの周辺はいろいろ例外が多かったりする。
たとえば、貿易家系の人たちは止まり木村の者と婚姻関係を結ばず、結婚は他の枝……多分もとの故郷からやってきた許嫁とする、とか。
ドロテア様もその一人。
「枝間の交流は厳しく制限されているのではなかったか?」
「そこらへんは詳しく知らないけど、昔は緩かったんじゃない? それに今だって制限っていっても無理なわけじゃないし」
「……ふむ」
「ていうか昔の話ならヤトの方が詳しいんじゃないの? 本当に龍なんだったら相当長生きしてるはずでしょ」
「ふん、ずっとあの洞で眠っていた俺に妙な期待をするな」
「つまり?」
「何も知らん」
「う~ん、威張れることじゃないねぇ」
だんだんとぐだってきた会話をする私たちの耳にノックの音が飛び込んだ。
「入りますわよ」
「あっ、ど、どうぞ!」
慌てて居住まいを正すとライヒ様が入ってきた。
その後ろに誰かを連れて。
「昨日ぶりですな。龍神様、巫女様。我が家を満喫されているようで何よりです」
「……ブルクハルト様」
ボスラッシュ。
前に貿易品の娯楽小説で読んだ造語が頭に浮かんだ。