私の母は、一言で表すなら天然だった。
『キリノ~! 疲れた~! お母さんのこと癒して~!』
とか。
『うえ~んキリノ~、暇だから龍神様にご本読んであげたら怒って鼻息で吹き飛ばされちゃった~。キリノがまだちっちゃい頃に好きだったおとぎ話のやつ~。どうしてだろうね~?』
とか。
『今日交易品見てたらね……ほら、可愛いでしょこのピンクの石! キリノ、こういうの好きだもんね! 今度お母さんが髪飾り作ってあげるね~! ……え、ひび? あ、あれ~、真っ二つになっちゃったねぇ~……ああ、ため息吐かないでキリノ~!』
とか。
まあそんな感じで、家で私と接してるときはぽわぽわ~っとしてちょっと天然入ってる人だったんだけど。
私はそんなお母さんのことが大好きだった。
そんなお母さんが一度だけ。
私に対して怖いくらい真剣な顔をしてきたことがある。
それはなんでもない日の……少なくとも当時の私はそうだと思ってた日の朝のこと。
『キリノ。私がいない間はあなたが巫女だから。龍神様のことをよろしくね。……あのお方は、きっと寂しがりだから』
その言葉を最期に。
お母さんは私の前から姿を消した。
あの日からずっと。
私はお母さんの代わりに巫女を続けてる。
◇ ◇ ◇
家、家、薬屋、家、鍛冶屋、畜産小屋……。
案内するはずだった村の中をライヒ様とヤト、そして後ろに私という並びで横断してく。
相変わらずの針のむしろっぷりは今さらいいとして、本当だったら今日でそれもいくらかマシになる予定だったんだけどなぁ。
「あれは井戸か?」
「ええ。そうですわ。見たことないんですの?」
「聞いたことはあったが、見たことはない。地下といってもここは枝の上だろう。水脈などあるのか? どうやって水を汲んでいる?」
「えー……どうでしょう? 庶民の暮らしはよくわかりませんわ」
「……そうか」
「……」
あの井戸の水は枝の中を通る道管から汲んでるんだよ。
落ちたら一生かけて世界樹の中を旅することになるから気をつけてね。
二人の会話に口を挟んでもよかったけど、今はそういう気分じゃなかった。
顔を上げて、だんだんと近づきつつある目的の建物を見た。
他の家々を押しのけるように居座る、乳白色の大層ご立派な豪邸。
枝震に備えて低めに造られがちな周囲の家屋を嘲笑うかのように巨大な建造物は、言うまでもなくライヒ様のご自宅だ。
「……はぁ」
じっくり見たことはないけど、使ってる石材って絶対大理石だろうな。地上から採掘される貴重な石材の中でも特に価値の高い素材で、まさに贅沢極まれり。
なんて。
大好きな鉱物のことを考えながら気を紛らわしてみるけど、なかなかうまくいかない。
「憂鬱だぁ……」
消えたお母さんの手がかりがあるかも。
なんてことは今さら期待してない。
なぜなら、もう何度か理由をつけて中に入ってるから。
で、毎回まともな成果はなく、嫌な思いだけを手土産にして帰宅する羽目になった。
……監視付きで手がかりを探すっていったって、都合よく見つかるわけないんだよね。
だから私にとって、このお宅訪問は百害あって一利なし。
ほんと、ヤトってば余計なことをしてくれたなぁ。
「キリノ」
噂をすれば、下手人が歩を緩めて私の方にやって来た。
「あの女、全然使えないぞ。自分で案内すると言っておきながら何も知らなくて話にならん」
「仕方ないですよ。ライヒ様はお嬢様ですし、まだ本格的に仕事に携わっていないんですから」
「そうなのか? おまえより年上ではなかったか?」
「いろいろ向こうにも考えがあるのでしょう。貿易はこの村において特に重要ですから」
しきりにこっちを気にして振り返るライヒ様を眺めながら言う。
自分のやったことがヤトにハマってない自覚はあるらしい。
「そもそもうちの村って案内されて楽しいものでもなくないです?」
「おい巫女? おまえが提案してきたんだろうが」
「私の目的はあくまで顔見せですから。案内が必ずしも楽しい必要はないかと」
「……」
ライヒ様をフォローしてあげてると、ヤトが私の顔を覗き込んできた。
ちょっと? 近いんだけど。
「ヤト様、なんですか?」
「おまえ――」
「到着しましたわよ!」
何か言われかけたけど、声を張り上げるライヒ様によって遮られた。
両開きの大きな玄関扉の前で立つ彼女の鋭い視線が私に突き刺さる。
「さあヤト様。遠慮せず入ってくださいまし」
「ああ」
「そういえば聞いていませんでしたけど……巫女様はどうされますの? 一緒にいらっしゃるのなら、歓迎しますわよ?」
はいはい、わかってるよ。
余計な奴は来るなってね。
含んだみたいな言い方しなくてもちゃんと理解してる。
私としても行かないで済むんならそれに越したことはない。
「ええ、ぜひご一緒させてください。巫女として、今はこのお方についていなくてはなりませんので」
「……そう。歓迎しますわ」
でもそういうわけにもいかないんだ。
ごめんね、ライヒ様。
不服ですって眉で知らせてくる彼女に促されながら、私はヤトとともに丁寧に塗装を施された木製の扉を押し開けた。
◇ ◇ ◇
「いつ来ても天井高いですね」
この家には数回訪れてるけど、毎回同じ感想が最初に浮かぶ。
外観とおおよそ同じ色合いの白を基調とした玄関ホール――っていうのかな――を赤いカーペットが縦断してる。
真正面に配置された階段は途中からその身を左右に分かれさせて、各階の通路へと伸ばしてた。
さらに上を見ればシャンデリア越しに、天井から陽光が差し込んできてるのが見えた。まさか開けっ放しってことはないだろうしからガラスでも使われてるのかな。
ガラスなんて、この村で他に使ってるとこないんじゃないだろうか。
そんな感じで、目を引くものはいくつもあるけど。
私がここに来ていつも気になってしまうのは、とある扉だった。
隅の暗がりの方、目立たないところ。
他とは明らかに装いの異なるやけに重たそうな鉄扉。
あれ、なんなんだろうなぁ。
「人の身で住むには十分以上に広いな。キリノの家に帰るのが怖くなる」
「……こことうちを比べられても困ります」
「ふふん」
私たちの反応を横で聞いてるライヒ様が腰に手を当てて口をムズムズさせてる。
どうやら自尊心が存分に満たされたみたいで何よりだ。
「ではさっそく中を案内して差し上げますわ」
ご機嫌なライヒ様に促されて、私たちの観光ツアーは始まった。
まずは社交場としての意味合いが強い一階から始まり、上階へと順番に通される。
どの部屋も共通してそこだけで暮らせそうなくらい広かったし、見るからにお高い煌びやかな家具とかがたくさん置いてあって、本当に同じ村にある家なんだろうかと疑っちゃうくらいの別世界だった。
大人何人寝そべることができるんだろうってくらい長いテーブルとか、天蓋つきの豪奢なベッドとか、物語でしか見たことないようなものも次から次へと出てくる。
以前来た時は、いずれも一階しか通してもらえなかったから、確かに最初はちょっと楽しかったし、羨ましいなって思ったりしなくもなかったんだけど……。
「……うぅ」
「どうしたキリノ?」
「いえ、なんでも……」
「きっと羨ましくて仕方ないのでしょう?」
「ええ、そうですね……」
こうまで派手派手キラキラが続くと、正直途中から目がチカチカしてきちゃって疲れの方が勝ってくる。
丁寧に部屋をかたっぱしから――お手洗いまでなんかキラキラしてた――を案内してくれるもんだから、情報過多で疲労困憊しちゃってた。
今もちゃんと返事できてたか自信ない。
「続きまして、ここは父自慢の書斎ですわ!」
「ほう」
「ああ、ここ、いいですね……」
内心ひぃひぃ言ってたから、ようやく落ち着いた内装の部屋に通された時は思わずほっと息を吐いてしまった。
「貿易家系の特権で珍しいものは優先的に購入しておりますから、ここの蔵書は村の書庫よりも多いはずですわ」
どうやらそれを自慢したかったらしい。
あんまり声高に言うことじゃない気がするけど、なんにしても助かった。目を休憩させる意味で。
壁に隙間なく並ぶ本棚とそれを支える床の見慣れた木目調のおかげで、ふわふわしてた頭が落ち着いてくのを感じる。
「確かに大量だな。ブルクハルトといったか、奴は読書好きなのか?」
「ええ。ここにある本はすべて乱読家の父が読み終えたものです。気になるものがあれば軽く手に取ってもよろしくてよ」
「ほう」
ヤトとライヒ様の会話を聞きながら、ぎゅうぎゅうに詰まる背表紙を眺める。
えーと。
『世界樹の歴史』、『空想枝間旅行記』、『実録! 謎多き龍信仰の村に迫る』、……『初めての料理』? 本当になんでも見境なく読むんだなぁ。
他には『最新版類別魔物図解』なんてのもある。最新版って書いてあるけど、こういうのって実際本当に最新か怪しいよね。すぐ次の最新版が出るし。……って、あれ。
「これ、なんだろ」
仰々しいタイトルが並ぶなかに、他よりも少し薄くて何も書かれてない革張りの本を見つけた。
なんだか無性にそれが気になって、私は半分無意識で手を伸ばす。
「それはおまえごときが気安く触れていいものではないわ。巫女」
「っ!」
振り返る。
そこにいたのはライヒ様、ではなかった。
「たかが本一冊でも。いえ、たとえ落ちてる髪の毛一本でも触れることは許さない」
「……」
接する機会こそ多くないけど。
使用人を背後に従え、できうる限りの侮蔑を視線に込めてくるその女を。
私は知っている。
「お母さま! いらしたのですね」
「ええ、ライヒ。話題の二人が我が家の敷居を跨いだと聞いたものだから、いてもたってもいられなくなったの」
「……ドロテア様」
貿易家系のドロテア。
娘と同じ金色の髪と、娘と違う翠色の眼を持つその人は。
現当主ブルクハルト様の妻にして――
「だって、巫女が通った場所をしっかり確認して、すぐに足跡を掃除させないとまともに息もできないもの」
村一番の巫女嫌いだった。