視界いっぱいに広がる青空と、眼下に広がる果てのない雲海。
私は何かあると世界樹の枝の先端を訪れ、この景色を眺めることが多かった。
「今日はいい天気だなぁ」
下を覗けば相変わらずくもっくもだけど、上を見れば世界樹の枝葉と青空しかない。
正に絶好の旅立ち日和って感じ。
たとえばこのまま大きな布とかを広げてここから飛び降りたら、いい感じに飛べたりしないかな。
いやまだ残暑残るとはいえ、さすがに早朝のこの時間とかはもう寒くなってきたし、飛べたとしても凍えちゃうかな。
やるなら厚着してから――……。
「なーんて、夢見過ぎだよね」
ふぅ、と我ながら枯れたため息を吐いて妄想を切り上げた。
そのまま後ろに振り返って、現実逃避から帰還する。
まず目に入るのは、こちらも遠目ながら視界いっぱいに広がる樹木の壁。
そこから大人何百人並べるだろうという太さの枝が行く先を分かちながらこっちまで伸びている。朝靄がかかる奥側……根本の方にはぼんやりと村が見える。
「戻りたくなー……」
『人間は魔物の脅威から逃げるべく、大地を捨てて世界樹の枝の上に安寧を得た』
誰もが知る昔話。
確かに枝の上に村を作って暮らすことで、魔物の脅威は格段に減ったのかもしれない。
でも私には、狭苦しい場所に縛りつけられてるようにしか思えなかった。
とにかく窮屈で仕方ない。
いや、私がいるこの枝自体は持て余すくらい広大なんだけど、これは気持ちの問題で。
変わり映えしない景色に嫌気がさしたというのもそうだけど、何より――
「あらキリノ」
不意に聞こえた高飛車な声に、げんなりとした気持ちで仕方なく目を向ける。
「……おはようございます、ライヒ様」
えんじ色の豪奢なドレスに身を包んだ、私よりも少し年上の女性が見下ろしていた。
私の長くて重ったるい黒髪とは正反対の、空気を含んでふわふわと柔らかそうなブロンドの巻き髪。
「龍巫女様ともあろうお方が、こんな辺鄙なところに何の用ですの?」
「……少し気分転換にお散歩しておりました」
「あら、あらあらあら。そうでしたの」
巫女の仮面を被り直して答えると、彼女は含みのある笑みとともに頷いた。
貿易商を担う家系の娘らしく念入りに施した化粧でも、裏側に透ける意地悪さは隠せてない。
「村の者はもう働いているというのに、さすが巫女様ともなれば違いますわね。これは今度の豊穣祭には期待していいということかしら」
「……」
「あら? ただでさえパッとしないお顔が苦くなってますわよ? どうしたのかしら。いなくなった龍神様を呼び戻すためにも、今度の舞はいつものような失敗なんて許されない。当然わかっていますわよね?」
「……はい、もちろんです」
「期待していますわよ。なんせ、村の存亡がかかっているのですから」
「わかっています」
「それでは精々頑張ってくださいな」
おほほほ、とでも笑いかねない勢いでライヒ様は優雅に去っていった。
「はぁ」
小さくなっていく彼女の背中を見つめながら、ため息を吐いた。
ライヒ様、何しに来たんだろ。
彼女の風に揺れるひらひらがたくさんついた美麗なドレスは、うちの村の中でも異彩を放っている。そのまま風に吹かれてどっか飛んでけばいいのに。
「めんどくさ……」
あの人は極端に私たち巫女の家系を敵視してて、何かと絡んでくる。
波風立てたくないこっちとしてはいい迷惑だ。
「……はぁ。そろそろ行かないと」
ため息が増えたなぁ。まだ私、成人したての十六歳なんだけど。
そんなことを考えながら、重い腰を上げて龍神様の祠へと足を向ける。
◇ ◇ ◇
枝の根元近くには貴重な石製の祠が建っている。
壺とか変な飾りとかごちゃごちゃ置かれた部屋を抜ければ、私の仕事場である世界樹の洞――龍神様の寝床へと辿り着く。
初めて入った時は、冒険譚に出てくる遺跡を歩いてるみたいでわくわくした。さすがにもう通い慣れてしまったから新鮮味なんかないけど。
それはともかく。
龍神様に仕える巫女である私は今、寝床の片隅にある祭壇の前で膝をつき、両の手を組んで祈りを捧げてる。
背中に村の有力者たちのチクチクした視線をたくさん感じながら。
「――龍神様。我ら止まり木の民へ、どうかもう一度お慈悲を」
最後にそう告げて、私は閉じていた瞼をゆっくりと押し上げる。
「――……っ」
見えたのは、祭壇越しに広がるぽっかりと空いた薄暗い空間。
そこに龍神様の姿はなく、細かい枝葉の絡み合った壁面ばかりが広がってる。
動くものは虫の一匹すらいなかった。
「ですよねー……」
後ろから漏れる落胆の声に紛れ込ませて、私も苦笑いとともに呟いた。
「もう何日目だ……? さすがにまずいんじゃないのか?」
「ああ、相当ヤバいな……。うちはあれがいたから他所の村からの侵攻を避けてたのに、これからはそうもいかねえぞ……」
あれやこれやと後ろで話してる焦燥交じりの声がこっちに飛ばないように、再び祈り始める振りをして、何もない空間を見やった。
いつも龍神様はここで白く長い巨体で緩いとぐろを巻き、小山を築いて寝入ってた。
その姿が忽然と消えたのは、もう七日以上前になるだろうか。
「村の自衛どころか商業の方だって大打撃だぞ。特産品の龍鱗が採れないんじゃ貿易の方だって今後どうなるか……」
当のライヒ様はわかってなさそうだったけどね。
内心で呟く。
貿易家系のライヒ様はまだ親が健在だ。
早くに親が他界した私と違って、彼女はまだ本格的に仕事に携わってない。
それにしたって自分の家のことなんだからわかりそうなものだけど……まあどうでもいいや。私には関係ないし、それどころじゃない。
「……巫女様」
「……はい」
ほら来た。
小さく深呼吸をして振り返ると、いくつもの鋭い視線が突き刺さった。
そのうちの一人、髭をたっぷり蓄えた老齢の男性が前に出てくる。
「龍神様のことに関しては、巫女家系であるあなたに一任しておりましたが……この失態、どうするおつもりですかな?」
「……村長。失礼ながら前々から申しておりますが、巫女といえど龍神様と意思疎通を図れるわけではございません」
止まり木村では世襲制が採用されていて、その家ごとに仕事が割り振られてる。
私だったら『巫女家系のキリノ』、さっきの意地悪女は『貿易家系のライヒ』といったように仕事がそのまま家名を兼ねてる。
だから『巫女』といっても実際はただの龍神様の世話役で、噂に聞く魔女のような魔法とか何か特別な能力を持ってるわけじゃない。
うちの村では守り神として持て囃しているけど龍神様――龍だって一応魔物だ。言葉を話さないなら考えてることなんてわからない。
「ですからいつ龍神様の気が変わってもよいよう、村の方針として龍神様の存在に依存せずに自助努力すべきというお話は何度も――」
「あら、あらあらあら。それはお話が変わっているのではなくて? キリノ」
……噂をすればなんとやら。
朝も聞いた高飛車な声に、私は抵抗を諦める。
対照的に他の人たちは目を輝かせた。
「おお、ライヒ様! こんなところへ何の御用で?」
「近くを通りがかったら何か騒がしい声がしましたので、少し様子を見に」
外からここの声なんて聞こえるわけがない。
……うん。この人、絶対私に嫌がらせしに来たな。
「キリノ。今は龍神様を逃がした失態をどう償うか、というお話をしていたのでしょう? さすが巫女様は責任逃れがお上手ですのね」
「そうだそうだ!」
「……では引き続き祈りを捧げながら、私も対策を考えて――」
「今さらその祈りとやらになんの意味があるってんだよ! 今すぐ解決しろってんだ!」
「ええ。ですので今言った通り、祈りを捧げつつ、引き続き何か方法を考えてみます」
こうなったらもう私の言うことなんて誰も聞かない。
昔ならいざ知らず、今の止まり木村に龍神様への信仰なんて形だけしかなくて。……龍の鱗は高く売れるから、そういう意味ではまだ重宝されてたけど。
村のみんなは、言葉ほど守り神として敬ってるわけじゃない。
亡き母曰く、貿易家系の人たちが村に来てから信仰はみるみる薄れていったんだとか。
要するに、何が言いたいかというと。
龍神様がいない=巫女である私の立場がヤバい。
「それにしてもぉ」
私の内心を読んだみたいにライヒ様がもったいぶりながら切り出す。
「龍神様がいないとなると、巫女様のお仕事もなくなってしまいますわねぇ?」
「……」
「その場合はぁ、どうするのがいいのかしらぁ?」
案の定だ。
彼女の人の嫌なところを煮詰めたような笑みが他の人にも感染していく。
「そうだなぁ。万が一、次の豊穣祭を終えても龍神様が戻って来ないとしたら、今まで通りお気楽な巫女様のままってのは難しいよなぁ……」
ライヒ様へ真っ先に同調したのは、衛兵家系だった。
勘弁してほしいけど気持ちはわかる。
龍神様の存在が牽制になってたおかげで、この村は外からの襲撃とかが全然なくてずっと平和だった。それ自体はいいことなんだけど、村を守る役目を負う衛兵家系の彼からすれば複雑なところで。本来の衛兵としての仕事がないせいで、せいぜいがたまに起きる喧嘩とかを諫めるくらいしかやることがない。
だから衛兵家系の人間は何かと軽視されがちだった。
そんな衛兵家系の彼にとって、今回の一件は地位を向上させるチャンスでしかない。
ずっと不貞腐れて酒浸りだったのに、龍神様がいなくなってからこっち、すごく精力的に動き回っている。
……にしても。
「……あはは、お気楽、ね」
「あ?」
「……いえ、なんでもございません」
おっと危ない。
巫女の仮面を被り直し、申し訳なさを眉の角度で演出しながら口を開く。
「お話はわかりました。確かに龍神様に関わるすべては巫女の責任。まずは龍神様にお慈悲をいただけるよう、最善を尽くします」
「んなこと当たり前だろうが! だからそうやって曖昧に濁してねえで今すぐどうにかしろって――」
なおも詰められそうになったその時、どたどたと足音が近づいてきた。
「侵入者だ! 知らねえ顔を見かけた奴がいる!」
「なんだと⁉ まさかもう龍神様のことがよそにバレたのか⁉」
「……わかった、すぐ行く! ……巫女様、話はいったんおしまいだ。よくよく考えとけよ?」
「はい。村のため、誠心誠意努めさせていただきます」
みんな慌てて外へと出てった。
ライヒ様も意味ありげに愉悦の含んだ視線を私に向けて、ゆっくりと去っていく。
たっぷり時間をかけて誰もいなくなったのを確認して、私は――
「……はああぁぁぁっ! ……誰だか知らないけど、命知らずの侵入者さんありがと~」
今日一番の特大ため息を吐いてぺたんと座り込み、そのまま仰向けに寝転がった。
もうなんか最近の気疲れ具合がすごい。
あれ。
ていうかよく考えたら、今ここにその侵入者とやらが来たら私危なくない?
私に何かあったら、もう龍神様呼び戻せなくない?
私を守る人が誰か残るべきなのでは?
「まあ、期待されてないんだろうな~」
何を隠そう、私自身そんなことできるなんて思ってない。
巫女家系を疎む村の人たちならば言わずもがな。
「……」
洞の中で空気が渦巻いて、低い唸り声のような音がする。
きっとどこかに横穴でもあるんだろうな。龍神様はそこから外に出たんだろう。洞の穴の大部分は祠によって埋められてて、その祠も龍神様が出られるほど大きくない。
あの巨体で誰にも気づかれずにいなくなるなんて、そうとしか考えられない。
……それにしたって、枝震すら誰も感じなかったっていうのは不思議な話だけど。
「……もー」
考えてたらムカついてきた。
「もー! もおおおぉぉ! なんで逃げたの龍神様あああぁぁぁあ!」
そりゃ私は歴代最低クラスに舞が下手だけど!
鱗磨きの時も不用意に逆鱗刺激しちゃって、あのぐーたら龍が私をびっくりした顔で見てきたりとかよくあったけど!
でもしょうがないじゃん! あれすごい重労働で、後半腕がプルプルなんだもん!
……。
「……まあ、あとあれかなぁ。龍神様に散々愚痴ってたのがよくなかったのかなぁ」
亡き母曰く、龍神信仰が薄れると同時に巫女家系の扱いも悪くなっていったらしい。
私自身、何かやらかせば文字どおり石を投げられたり――石は貴重品だからありがたく回収した――、聞こえるようにイヤミを言われたり――すぐ龍神様に愚痴って祟られろぉって祈った――するのが日常だった。
『魔物の世話をして生産性がないくせに、権力だけはあるごく潰し』
村の人の巫女に対する認識はそんなところ。
まあ、そっちはどうでもいいけど。
「…………でもさぁ。見送りくらい、させてくれてもよかったじゃん」
今でも鮮明に覚えてる。
祭壇の前に置かれた大きな顔と、頬に吹きかかる優しい香木の匂いがする寝息。
「……っ」
両親を亡くした私にとって、龍神様はいつもここにいてまどろんでるおじいちゃんみたいな存在で、唯一本当の自分を出せる家族だった。
相手は龍だし仕方ないけど、その親愛が一方的だったんだって思うと少し寂しい。
「……。まあでも、確かに気持ちよく寝てるとこにぼそぼそ愚痴ってくるちっちゃい生き物がいる場所なんて嫌になるか」
じゃあ、仕方ないよね。
……うん、わかってるよ。
「私が悪いっ! 龍神様ごめん!」
勢いよく起き上がって。
明るい口調で。
さっさと認めて、さっさと切り替える。
生きてくために大事なこと。
「そっれにしても、今後の対策って言ってもなぁ……」
自宅に向けて歩き出しながら呟く。
うちの村はいろんな面で龍神様に頼り、甘えてきた。
でも今までそうだったからこれからも変わらない、なんて楽観が過ぎる。
そう思って私は前々から現状の脱却を提案してたんだけど、ごく潰しの小娘が何を言っても誰も聞いてはくれなかった。
「今すぐ解決、なんて都合のいい話あるわけないじゃん……」
打開策を思いつかなかったら、不満のはけ口にされることは目に見えてる。
今までもろくな扱いじゃなかったのに、これ以上って――
「……っ」
足が止まる。
背後。
龍神様の寝床で、今はただの暗い木の洞。
引き込まれそうな気がして首を横に振り、また歩き出す。
いっそ、この村――つまりこの枝から逃げちゃおうか?
でもどうやって?
枝同士の交流は厳しく制限されている。よそ者がいたらさっきみたいにすぐ気づかれる。
もし見つかれば侵略行為とみなされて、極刑か、もっとひどい目に遭わされるか。
両親が亡くなってから、もう何度も考え、諦めてきた。
……逃げ場なんてどこにも――
祠から外に出ると、夕焼け空が広がっていた。
一人になってから意外と長い時間を中で過ごしていたらしい。
ふと早朝に見た景色を思い出す。
細まって揺れる不安定な枝の先端に立って眺めた、視界いっぱいに広がる青空と眼下に広がる果てのない雲海。
「……ま、それは最終手段だから」
否定を盾にしても、今日は頭から離れてくれない。
『龍神様は当代の巫女に愛想を尽かして出ていった』
「あー、はは……」
うまく笑えない。
龍神様がいなくなってから、何度も耳に食い込んできた言葉がぐるぐるする。
しゃがみこむ。
「これはちょっと、まずいなぁ……」
抱えきれない。
でも、もう誰にも吐き出せない。
「……、……っ」
自分の体を抱いても、収まらない。
何かが、溢れ、そうになって。
『……ぁ、ぐ』
何か、聞こえた。
誰かの声。
目を向ける。
人だ。
祠の隅に寄りかかって、呻いてる。
慌てて乱暴に目を拭い、巫女の仮面を被り直して駆け寄る。
「あの、大丈夫です――」
この村では見たことのない顔だった。
もしかしてさっき騒がれてた侵入者とか?
頭の片隅に警戒しろって声が聞こえたけど、そうする気にはなれなかった。
なぜなら白銀の髪をしたその男の人は。
「……ぉ、ぁ、おまえ。……ここに、いたのか」
端正な顔を苦しげに歪ませながらも、初対面のはずの私へ微笑みかけてきて。
「――え?」
風が私たちの髪をさらうと――
――その人から龍神様と同じ、香木の匂いがしたから。