反射した鏡には白い光と、楽しそうな私が写っていたと思います。
私はワクワクして、両足をばたつかせながら時折「えへへ」と嬉しさを隠すことができなかったことでしょう。
そしてまるで赤ん坊が食べ物を待っている様に、
内なる喜びと楽しみを全身で発しながら、
彼女の到着までじっと待ちます。
彼女が部屋に入ってきて、探してきたクシを右手で回しながら、私の髪の毛を静かにとくのです。
その感覚がくすぐったかったし、彼女の温もりと優しい手つきが髪の一本一本に伝播して伝わり、
私の脳に語り掛けてきました。
――この人に身を委ねなさい。
――この人の言う事を聞きなさい。
――この人を困らせないようにしなさい。
――この人を笑わせなさい。――
それは、小さな私にとって課せられた、本能からくる子供心そのもので、
その温もりはきっと、彼女にも伝わっていたと、私は信じています。
そして彼女は白いリボンを右手の人差し指と親指で華麗に取り寄せ、
ひらひらと私の頭上で泳がせます。
それをみて私はまたワクワクして、にっこりと花みたいに笑ったんです。
そして彼女は私の髪の毛を束ねて、
まるで羽毛を手先で操るようにリボンを巻いてくれました。
彼女がいなければ、私は髪の毛を結べなかった。
今では一人で結べ、彼女の温もりを感じない。
一人静かな部屋で髪の毛をとき、室内には服が擦れる音と使用人がわたわた歩く足音が、微かに響いています。あと、私の息の音も、ありました。静かに髪の毛をといて束ね、赤いリボンで髪の毛を結ぶんです。さいきん身に着けた新しい結び方で、可愛く結べていると思います。でも私は、そんなとき、ふと当時を思い浮かべてしまいました。
彼女の優しさと温もり。それは、今日常生活を過ごしているなかではなかなか、想起されるものではありません。令嬢として優雅に立ち振る舞い、隙を見せてはなりませんから、じっと知らない地平線をみつめて口を堅くつぐみ、たまに眩しい舞踏会でそっとお酒を飲んで、分かりやすく酔っぱらうだけ。そして部屋に戻り服を脱いで布団に飛び込むと、ゆっくり息をしながら、死にゆく馬のように眠りの世界に導かれます。気が付くと朝日が私の頭部を焦がしていて、瞼を擦りながら開くと憂鬱な朝の知らせがやってきます。朝一に屋敷のよこのあぜ道で、隣町にある市場の仕入れを行う男性が数人馬車で走るのですが、朝はあまりに周辺が静かなため、その音が際立って聞こえてきて、とてもうるさいのです。
そんな騒音で起き上がり、おぼつかない足並みでそっと鏡の前に座る。
そんなときにしか、彼女の事を思い出せなくなってしまいました。
彼女はいま、どうしているのか分かりません。
生きていれば良し、死んでいればそれも結末だと思っています。
でも忘れられないことがあるのです。
それは、彼女が私に向けていた暖かなぬくもりと、
私の腐らなかった無垢なる子供心がもたらす、
曇りなき純なる善意の笑み――もうそれを向けられる相手はいません。
そして、それは自分にすら向けられません。
私は私が腐ってしまったように思えます。
静かに歳を重ね、人として純だったものが錆に覆われ、
見るも汚らしい物体へと成り下がっているように思えるのです。
その劣化は心に悪く、時折こういう形で童心を弄び嘲笑い、
そして懐かしんで哀しくなるのが、いつも通りの流れです。
でも過去に戻ることはできない。
時間は前しか見ません。
時間は、どうやら私をずっと鏡の中に置いてきぼりにしているようですが、
そんな事は、知らんふり。
鏡の中の私が微笑みかける記憶が、
廃れた私という個体にまだ視えてしまう。
こんな過去があったことを否定したいわけではない。
ただ霧に飲まれて曖昧になって、忘れさられてしまえば、何も苦しまなかったというのに。
今鏡に映る成長した私を幼き私がみたとき、
きっと、「顔色が悪いわ」とか抜かして、
「髪の毛をといてあげますよ」って言うはずなんです。
それが手に取るように分かってしまいます。
私はこのまま時間に連れ去られてしまい、そして生きていくのでしょう。
でも忘れることないあの記憶は、
時折私に首を絞めるような苦しさをもたらすと共に、
髪の毛をといて結んでくれた彼女を思い出させてくれ、
安らかな眠りが彼女にありますようにと、ことさら真面目にお願いするのです。
ささやかな幸せが彼女にありますように。
目も当てられないくらい眩しい日常を送れますように。
静かな場所でいい目ざめをしますように。
この願いはひたすらに……ひょっとすると、廃れ縮れた子供心の成れの果てが願っていることかもしれませんね。
でもきっと、そんな心がまだあるから、鏡に彼女と私が写るのでしょう。
今では一人で結べ、彼女の温もりを感じない。
でも思い出すことができます。
鏡を見る度に、私は彼女の温もりを想起し落ち着く。
これは意外にも、何もしたくなかった身体に多大な毒を注入し、
ろうそくに火を灯して、ひとりでに髪の毛をとかすための、『力』を分け与えてくれるんです。
私は朝が嫌いですが。
私はこの時間がいつまでも好きでありたいと、切に願うのでした。