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第7回

 橋げたの側面に何かが描かれていた。


 ぼんやりとだが、そこで煙のように邪気がくすぶっているのが成人にもえる。まるで消し忘れたまま放置されている煙草の煙のようだ。


「あ、ここ張られてるから気をつけて」


 とのリアルの注意に従って、立入禁止とペンキで書かれた看板ごと、鉄条網を編みこんだ組ひもを跳び越える。


 この組ひもはただのひもにあらず、獣邪の犯した特殊犯罪現場の保存にほぼ必ずといっていいほど使われる物で、その凄惨さを一般市民の目からそらすために張られる。

 犯人が獣邪ということもあり、現場が奇怪であればあるほど何が犯罪解決の糸ロになるか分からないため現場保存の必要性は高いのだが、あまりに残虐過ぎて社会活動を著しく損ないかねないと判断される場合、協会認可でこういった目くらましを用いるのだ。

 これが張られていれば、人の目についても心にまで残らない。とるにたらない光景として、目をそらした次の瞬間には忘れてしまう。


 今回保存指定を受けた現場である橋げたのコンクリート壁には、なにやら円形の魔法陣のようなものがでかでかと描かれていた。


 とは言ってもどこをとっても一寸の狂いもない真円、という見事なものではなく、芸術性からもほど遠い、いかにも思いつきの一発描きで、しかもなぐり描きだと一目でわかる雑なものだった。

 陣としての形式は一応踏まれているようだが、いびつに歪んでおり、結界内の空気と反応する邪気のせいで発光している太い線からは、ペンキのような液垂れがいくつも伝っている。


 この手の知識にうとい者が見れば、子供のいたずら描きにしか見えないだろう。あるいは、趣味の悪い遊びか。

 だがこうして邪気を発している以上、これが意味ある行為であるのは間違いなかった。


「これ、何使って描かれてると思う?」


 向かいの橋げたに背を預け、尋ねてきたリアルに対し、成人は陣を横目に答える。


「トマトジュース入りの蛍光塗料じゃないのはたしかだな」

「あっはっは!

 そうね、違うわね。そうだったらもっとおもしろかったんだけど」


 言葉とは裏腹に、全然おもしろがっている顔ではなかった。無言の成人から目をそらし、苦虫をかみつぶしたような表情で肩をすくめる。


「それ、血よ。正真正銘人間の血。半年くらい前にここをねぐらにしてる浮浪者の死体と一緒に発見されたの。

 なんでも、鋭利な刃物であごのところから切断して、その傷口を押つけながら描かれてるそうよ。歯のかけらと髪の毛が何本か一緒に貼りついてるのが見つかったんだって。

 きっちゃない話よねー、頭部を筆がわりにするなんてさ。モロ変態の所業だわ。


 でも、そうまでして描いてるわりに力が発動した痕跡もないし、元の次元から何かを召喚しようとしているようにも見えないのよね。

 結局ただの悪趣味な落書きってことでその日は落着して、すぐに消されたんだけど。翌朝、また別の浮浪者の血で描かれてたわけ。


 それ以来、何度消しても次の夜には描かれてるの。見張りについた警官や駆逐者パージャーも殺されて、先の浮浪者と同じ目にあってるのが発見されて、結局この事件が解明するまで消しちゃいけないことになったわ。


 すっごいよねー。あたし、警官の死体を見たんだけどさ、被害にあってるのはなにも頭だけじゃないのよ。残された体の方もぐっちゃぐちゃ。筆に使われた顔は当然だけどあちこち擦り切れてるし、内臓の方もかなり食い荒らされちゃってたから、身元の照合にすんごく手間どったんだって」


 ――うっぷ。


 リアルの説明からその光景を生々しく想像してしまったのか、吐き気に口元を両手で押さえたカイの姿を見て、リアルが訝《いぶか》しげに目を細める。


「ちょっとあんた。半有機生物ってことは半分機械なんでしょ。機械のくせに、なんで吐き気なんか感じてんのよ」

「わし、おまんとちこーてデリケートなが」


 つん、とそっぽをむく。


「なによ、かわいくないわねー。そんなんでよく駆逐者パージャーの相棒が務まるもんだわ。

 ねえナリト。もしかしてこいつ、足手まといなんじゃない?」


 カイを見ながら聞こえよがしに成人に耳打ちをしたリアルは、ふっとあることを思いついて、甘えるように成人の首へ手を回した。


「だったらさ。あたしと組まない? あたしも今まで1人でやってきてたんだけどさ、全部1人でやるの、最近ちょっと面倒になってきてて。この町、結構大きいでしょ? 仕事も広げたいし、相棒でも募集しようかなーって思ってたとこなのよ。


 あたしは夜目も鼻も人一倍利くし、見た目どおり腕もたつから駆逐パージにはお役立ちだし。

 こーんなチビ獣邪なんかじゃ、駆逐パージの最中心細いんじゃない? ちょっと小突かれただけで目を回して気絶してそうだもの。ワーウルフなんかの鋼鉄の爪の先っちょが触れただけで、あの世行き間違いなしね。


 ペットだっていうならともかく、そんなの相棒にしてたって大して役にたつわけないし、心配でしょ? こんなのに足引っ張られて死ぬなんて、それこそ冗談じゃないって思わない?

 ね? 悪いことは言わないから、あたしの方になさいよ。あたしだと、その他日常的にもとってもおトクなの、請け負いよ?」


 しなを作り、胸を押しつけるという色気つきで成人に迫る。


 リアルは『美人』というよりは『かわいい』の部類だったが、それでも『きれい』なのは間違いない。特に目尻上がりのビリジアングリーンの瞳などは人間の瞳よりずっと魅了チャームの力に満ちている。

 リアル自身それが自分の一番魅力的なところだと知り得ているらしく、成人の目をまっすぐ見つめ、そらそうとしない。いや、そらさせようとしない。


 快諾も拒絶もしない、無言の成人の唇に自分のそれを重ねようとする。寸前、びゅんっと風の勢いで、存在をすっかり忘れ去られていたカイが割りこんだ。

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