「はあ? ば、ばかでかい影ですかい?」
「いやあ、見てませんねえ。なにせあっしゃあこうして橋の下をねぐらにしてるといっても、文字通り、寝てるだけっすからねえ。夕方ここへ来て、寝床にもぐりこみゃあそれから先は目ぇ開けてる必要ねえっすから。あんさんのお役にゃあたてそうにねえっすね。いやあ、すいあせん」
ほとんどの歯が根本しか残っておらず、しかも残っているどれもが腐って真っ黒くなっているため、口の中にぽっかり穴が開いているようだ。歯磨きなど、生まれてこの方一度たりとしたことありませんと言っても素直に信じられるようなひどい異臭を放ちながら、へへ、と愛想笑いをする。だが額やうなじをいくつも伝う冷や汗や、そうして言葉を口にしている間中視点の定まらないおびえきった目が、到底言葉どおりでないことを物語っていた。
「だめだな、それでは。棒読みではないか。あからさますぎる。第一、品というものがない」
男の放つ異臭を拒むためか、遠目に立っていた影の主は、にこりともせずつぶやく。
男は、影の主が発している空気を伝って届く見えない何か――それは氷のようにひんやりとして、ちくちくと肌を刺す――を感じ取り、ごくりとのどを動かす。口内はカラカラに乾いていて、飲み下せるものなど何もなかったが。
恐ろしい……ただただ、この者が恐ろしい……。
じわりじわりと足下から浸食してくる冬の朝の冷気のような恐怖はもう胸まできている。叫びたくてたまらない。だが彼を刺激するのはまずいと、わずかに残った理性で考え、絶えず愛想笑いを浮かべ、もみ手までして必死に敵意のないことを訴えている男の舌に、鋭い針のようなものが打ちこまれたのは次の瞬間だった。
「ガッ……!?」
男は、今自分がどうなっているのか
引き抜きたくても腕が上がらない。
地面から浮いた足は、力なくぶら下がっているだけだ。
刹那に距離を詰めた影の主の、闇を深めた顔の奥で
手も足も、痛覚すら、男の手を離れてしまっている。
いまや男の感情を唯一表すものとなった目が、極限へと達した恐怖によって生気を失い、一切の希望を失わせ絶望へと変わってゆく――その一瞬を存分に堪能して、満足そうな笑みが影の主の口端に浮かぶ。
男の顔が醜く歪むことを、彼は許した。
涙目になってごぼごぼとむせながら、どうか命だけはと哀願しようとした一切那。
ぴゅんという、革鞭が風を切るような音がして、たやすく男の頭は両断された。
何かがひしめきあっているような重苦しい漆黒の闇の中、赤とも黒ともつかない液体が鉄錆の臭いを漂わせて水音のする方へと流れていく。足元に転がった頭部を見るとはなしに見やっていた影の主は、ふと何か楽しい事を思いついた子供のように口元を歪め、屈みこんだ。