この世界には、ほんの数十年前異空間を開いて渡ってきた魔物・
その中の誰が言い出したかは不明のままだ。だが確かにその言葉は囁かれた。己が力に陶酔しきった六人の耳元で。
『定められた時間内で、誰が一番多くのドームを堕とせるだろう?』
この世界にあっては無限とさえいえる命。思うがままにならない事はただの一つもなく、己に成せないことはないと慢心した彼らにとって、これはたわいのない遊戯。退屈しのぎの児戯の一つにすぎなかった。
先を競うように次々と「それは自分である!」と名のりを上げ、提案は採択された。
七人は場の勢いで期限をこの地の日没までと定め、そのときの気分で思い思いの方角を選んだあと、それぞれが目標としたドーム目指して散っていった。
ドーム『秋津島』
東方の小さな島国に位置するそこへたどりついたのは、
「時間が惜しい。そのドームの鍵を渡せ。自らドームを開けて平伏しろ」
風をはらみ、燃え盛る炎のようになびく豊かな赤い髪をしたその
「そうすれば皆殺しだけは避けられるぞ。ああ、もちろん
くつりとふくみ笑った奈落は、額を伝って流れ落ちてきた鮮血を手の甲でぬぐい、見せつけるように舌でなめとる。それは先の折り、西の空から接近するいまだかつてない数の獣邪の集団に気付いて応戦に向かった、勇気ある者たちの血だった。
彼の後ろの獣邪の中には、もはや元が何とも知れない赤い肉塊をクチャクチャと
その地獄のような光景に、老人はあとじさった。
ここにたどり着くまでの通り道にあったドームがどんなめにあい、どんな姿となり果てたか、想像するのは容易だ。緊急救難コールを発信したとき、どのドームからも返ってきたのはここと同じく救援を求める声だった。
救援は期待できない。
世界中で、ここと同じ事が起きているのだ。
鬼の腰にはこれまでの戦果を物語るように複数のドームの鍵がひもに通されてぶら下がっている。
鬼の言う通りドームを開き、鍵を渡した方がいいのかもしれない。
老人の心は半ばそちらへ流れていた。
ドームが開かれれば凌辱と破壊、虐殺が彼らによって行われ、この秋津島は壊滅状態となるだろう。だが、従えば皆殺しはしないと言っている。
このドームは終わりだ。流血が避けられないのであれば、逆らって全員が殺害されるよりはまだ少数でも生き残れる者がいる方が、最善の選択というものではないか?
自分の言葉一つで秋津島の運命は決まる。
そう思うたび、老人の口内は乾き、喉から言葉が失われた。
下で返答を待つ鬼は、今にも皆殺しだと叫びそうなほど苛立っている。腕を組み、ちらりと背にした夕陽に目をやり、舌打ちをして、答えようとしない老人をにらんでいる。
老人が想像したように、奈落は先の言葉を悔やんでいた。なまじ選択権など与えるのではなかったと。
これまでのドームと同じように力ずくでドームを破り、なぎ倒し、打ち据え、完膚なきまでに破壊し尽くしてしまえばよかったのだ。
定刻まであと少し。あの陽が完全に消えたらゲーム終了だ。
これまでに十のドームを破壊してやった。残り1時間弱。あと一つ二つはできるだろうが、時間が惜しい。あの外壁の破壊は手間がかかりすぎるから、それをはぶこうと慣れないことをしたのが悪かった。
奈落は見た目どおりに気性が荒く短気で、もともとこういった交渉事は面倒と考えるたちだ。
自身の力に絶大な自信を持っている、傲岸で不遜の者。
やはり力ずくが自分の性にあう、と腕組みを解き、ドームを破壊するべく前へ踏み出したそのとき。老人と代わるように、後ろから一人の女が進み出た。
「鬼よ、その提案を呑むことはできません」
透き通った、凛とした音。声そのものに呪が織りこまれているかのように、奈落は一歩踏み出したまま、一切の動きをとめた。
「……では殺されるか。跡形もなくするぞ。文字通り皆殺しだ。赤子であろうと容赦せん。その柔らかな肉袋を引き裂いて温かな血を浴び、小指の骨までも残らず食らい尽くしてやろう」
なめらかな白い肌、潤んだような艶のある瞳、意志強さを表して引き結ばれた朱唇、細くくびれた腰。
世界中捜しても、ああも
彼女を目で捉えた瞬間に歓喜に震えた胸を悟られまいと、奈落は再び腕を組み、高笑って告げる。
「なんと言われようとも無駄なこと。あなたやあなたの後ろにいる
わたしたちは獣ではありません。同胞を売るような浅ましい真似はいたしません。
去りなさい、鬼!」
居丈高に言い放ち、
一枚一枚が不穏な気をまとった紙片は、間違いなく呪符。女は、獣邪をこの世界から
「このおれに武器を向けるか。
死ぬぞ、女」
相手の力量も把握できないようではまだまだ修行が足りぬとの嘲りをこめて奈落は言う。
対し、女はふっと笑み。
「そうでしょう。けれど、一歩たりと譲ることはできません」
女の返答に、奈落は好ましさを感じずにはいられなかった。
「盾の一つとなり、死を選ぶか。健気だな。おまえが死んだからといって、このドームが守れるわけでもないのに。それは、ただの犬死にだ」
その通りだと認めるように、女は顎を引いた。
だが彼女には他に選ぶ道はない。人々を守るのが彼女の役目だ。到底かなわない敵であろうとも、人々のために、少しでも多くの獣邪を道連れにすることが自分に残された道だ、と女はあらためて自らを鼓舞した。
「鬼よ。わたしの前にも、このドームを守るため、あなたの前に立ちはだかった者たちがいたでしょう。彼らは、あなたたちを前に戦う意欲を失い、矜持を見失って、命乞いをしましたか?」
一人もいるはずがない、との確信にあふれた声だった。
そんな臆病者であるなら、画面に映し出された彼らの大攻勢の光景に、出撃などしなかった。
「その中には、わたしの
そう時をかけず、彼らと再会することになるだろう。
そのとき、彼らに恥じぬ顔でありたいと女は思う。
けれどもその決意すら、鬼はせせら笑った。
「おまえは健気で、愚かだな。それで満足するのはおまえ一人の自尊心だろうに」
笑いながら放たれた、奈落からの真実という剣に心臓を貫かれた女は奥歯を噛み締め、黙して堪える。
気づかれまいと、あくまで毅然とした態度を崩さない女の気高さに、奈落は己の変化をはっきりと自覚し、そして決意した。
「だがそれは、必ずしもおれが望むものというわけではない。おれがほしいのはドームの者の死体じゃなく、鍵だ。
それも渡せないというのなら、そうだな……」
と、考えこむそぶりを見せたあとに、まことしやかにもったいぶった口調でこう提案をする。
「そちらの心掛け次第では、このまま見逃してやってもいい。鍵以外でおれが望むものを差し出すというのであればな。そちらにとってこれ以上有利な提案はあるまい?」
「……何を望まれる」
鍵以外の物! ドーム存続の可能性に、にわかにざわつきはじめた背後を無視して、女は交渉を続ける。
奈落は間をおかず即返した。
「おまえだ。おまえがおれのものになるというのなら、おれは今後一切、指一本とてこのドームには触れるまい」
奈落にとって、これはしょせん、暇を持て余したがための遊びにすぎなかった。いくつ降伏させたか、
女に拒む権利はない。たとえ女が拒絶しても、ドームの人間はこぞって女を差し出すだろう。
確信して見上げる奈落にむかい、女はうすく微笑した。
「それを信じろとおっしゃる」
「信じられぬか?」
「信じられません。後ろをご覧なさい。あなたの獣邪たちが虎視眈々とこちらを狙っています。
あなたが消えたなら、即座にそのものたちが関を切ってここになだれこむのでしょう? 『あなた』との約束であり、われらとの約束ではないとでも言い放って」
小気味よい声で告げる姿を見て、奈落はこの女を自分のものにしたいと、ますます決意をたぎらせる。
「なるほど。盲目にひとの言葉を信じて従うあほうではないようだ。
だが退かせようにもこやつらはおれの手下ではない。勝手にひとの尻にくっついて歩き、あわよくばおこぼれをいただくという輩だ。おれが命じたとて従う者がいくらいるか。おまえが言ったとおり、このドームを襲うものたちが多いのが真実だろうな。
しかしかといって、こやつらのためにおれがおまえを諦めねばならぬ道理もない。
少し待っていろ。片付けてやる」
奈落はこともなげにそう言い、女に背をむけてからいくらもたたない間に、その場にいた獣邪を全て屠ってしまった。
「さあこれで文句はないな」
人血と獣邪の紫がかった血を頭から浴びて、ぐっしょりと濡れた姿で奈落は女をふり仰ぐ。
眼前で大量殺戮を終え、なお余裕を見せる奈落の姿に女は心の内で息を呑んだ。
何千といた獣邪よりもこの男は強い。言葉どおり、配下など無用の存在なのだ。たとえ一人でも、この男はドームを落とせる力を持っている。
かくて女は人々に惜しまれながら、奈落とともにいずこともなく去った。
そしてそう日を隔てず、一日にして数十のドームをおとされた人々が憤怒して――あるいは恐怖におののいて――決起し、再び獣邪と人との全面戦争が勃発したのだが、なぜか奈落をはじめ、大妖たちの名は誰の口の端にものぼらず、月日ばかりが流れ去っていったのだった……。