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第10話 君を愛すと死にたくなる

 また一緒にいられる時間が、当たり前のようにくると信じていた。

それは少しわがままで、とても強欲なのかもしれない。当たり前なんかじゃなかった幸福をいつの間にか当たり前だと、失うことに怯えることもなくただ与えられるそれを、大事にしないで、ただ正しいというだけで離してしまえる、それが彼女の幸せだと信じて疑わない。

俺は何もわかっていなかった。

引っ越してから半年、毎日のように彼女が通っていた通学路の交差点で信号を待つ彼女はスマホを握っていたらしい。

既読のついたままのメッセージを見れば、その時間に何が起こったか理解できた。なんと返事を打つ気だったのか、今となっては知りようもない。

既読が付いたはずなのに、返事がなかなか来ない。それでもそれは、手が離せない用事があるからだとか、他愛のない理由なのだと信じていた。

机に置きっぱなしにしていたスマホが震え音を鳴らす。慌てて持ち上げて画面を見ると、知らない番号、不審に思いながらも応答のボタンを押して耳を当てた。

始めに聞こえたのは、嗚咽を漏らしながら、謝り続ける男性の声だった。聞き覚えのある声に、嫌な汗が流れる。

「ど、……したんですか?」

 知っていた、彼女に何かあったことは嫌でもわかった。

 数日前に聞いた時、彼女の母親は元気だった。それに彼女の母親に何かあったのなら、父親が俺に電話などかけてこない。彼女に何かない限り、俺に水沢が電話をかけてくるはずがないのだ。

「スミレが……」

 静寂が水沢の声をはっきりと際立たせて、その言葉を曖昧にしてくれなかった。

「スミレが死んだ」

 大きい音が聞こえた。それが自分が倒れた音だと認識するまで数秒かかった。透明な壁が自身を押しつぶすような感触、酸素のない海に理由もなく沈められる恐怖。

 理不尽で大きな不幸は、見えない足場をいつの間にか崩してしまっていた。息ができない。見えているはずの視界が、認識できない。霞むような意識の中、彼女の最期に笑った本当の表情だけが、脳裏に焼き付いていた。

俺は、幸せな未来を着信音がなるまでは、信じていた。

きっとこれからは幸せだなんて約束されたことでもないのに、信じていた。そうなるのが、当たり前だと思っていた。

 そんなこと決まってない。頬の皮膚、瞼の薄い皮膚、その奥の神経さえ自分のものだと信じられないぐらい他人の物みたいに。感覚が鈍くなる。

 命が繋がっているならよかった。そしたら、悲しいと感じる時間さえないほどに、彼女が死んだら俺も死ねるのに。

 気が付いたら、俺は病院のベッドに寝かされていた。誰もいない白い空間。仕切られたカーテンを開けて彼女が心配したよと出てきてくれる気がした。

 重い瞼をそっと閉じる。

 明確に鮮明に、俺は彼女を想像した。想像でもいい。会いたかった。瞼を閉じれば彼女が俺を覗き込んでいる。そう思って夢を見ようとした。きっと笑ってくれるはずだ。

「スミレ……」

 スミレは幸せそうに笑う。そして俺の頬に手を当てて何かを話している。それなのに聞こえない。わからない。

「なに? 何言ってるかわからない」

 それでもスミレは話すのをやめない。そして悲しそうに微笑むと涙を一粒流してまるで最初からいなかったみたいにいなくなった。

 大事な誰かを失くして、最初に感じた感情は悲しいじゃなかった。寂しいだった。

 そっと瞼を開ける。必死に目をつむって抱いた妄想でさえ俺との別れを言う。それでもずっとカーテンを開けて入ってきてくれるのを待っていた。きっと彼女は来ない。わかっていながらずっと待っていた。まるで忠犬ハチ公だ。

 どれほど寂しかったんだろう、悲しかったんだろう。本当はいないとわかりながら待つことを選んだ。それが、どれほど自分を蝕んでいたんだろう。

 俺は何も選べなかった。

 しばらくして、カーテンを開く人が現れた。その向こうにいたのは男性の看護師で、俺と目が合うと優しい表情をして複雑そうに笑った。

「目を覚めたんだね、気分はどう?」

 彼はそういうと、親御さんを呼ぶねといい胸ポケットに入っていた電話を取り出した。

「……あの、ここは病院ですか?」

「うん。そう」

 看護師は番号を打つのをやめて真剣な顔をしていった。

「何があったか……、覚えてる?」

 声を出そうとした。それなのに声は出なかった。代わりに出たのは涙だった。言葉を紡げないほどとめどない涙があふれて、息もできない。そのうち再び過呼吸発作を起こし、苦しさの中で意識だけがはっきりしていった。

 あの電話は現実だと知っていた。あまりにも生々しく覚えているから。

 看護師は落ち着いたように俺の背中を撫でて反対の手でナースコールを押した。

「悲しいよな、わかるよ。だって大事な人を失わない人なんかいないんだから」

 背中を撫でられる温度だけが、現実だ。息を整えようとした。必死に抑え込もうとした。

悲しみは引かない。頬が腫れたように痛い。悲しい、痛い、苦しい。浮かんでくる彼女への感情は、愛してるのそれ以上でも以下にもならなかった。

 夢の中で何度も彼女を想像した。何度も何度も、彼女を思い描いた。そうすれば寂しくないと思ったのに、どれも本物の彼女ではなかった。

 少しずつどこかが違っていて、本物の彼女とあれだけ話をして彼女の全部を知っていた気がしたのに、どうしてこんなに彼女を思い描けないのかわからなかった。

 夢の中でスミレは言った。

「また生まれ変わったら一緒になろう」とまるで彼女らしからぬ、明るい笑顔で。

 安っぽい離別の物語みたいに彼女はそんなセリフを吐いて消える。夢の中でこれは妄想で、想像で、虚像で、同じ意味合いの言葉がぐるぐると浮かんで消えて、俺はそれら全部を拒絶した。

 生まれ変わったスミレはスミレじゃない。スミレの人生を歩んでいない彼女は彼女じゃない。夢の中でそれでも彼女の虚構を思い描くことをやめられなかった。

 それが愛の形で、それ以外すがるものなどなく、寂しさは鳴りやまない。

悲しいなんて、そんな優しい言葉だけじゃ表現できないほどに感情は肥大化して、気が付いたら焼けるような孤独に変わっていた。

 目を開けたら、俺が死んでいればいい。死んでいてほしい。そう願って目を覚ます。

その繰り返し。その思考のメビウスの輪の中、縋るように幸せな夢を想像した。

 泣きながら目を覚まし、自分が生きていることを再認識する。悲しい以上の感情の名前を俺は知らない。知っていても、きっとその言葉でも足りない。

 泣きながら見た朝の光。残酷な現実を知らせる光に悲しいほどに安心した。

明日がくることが、安堵した。死んでしまいたいと願いながら、これほどの悲しみを背負っても、自分が死なないことを安堵していた。

それが彼女に対する裏切りのような気がして、延々と声を殺して泣いた。矛盾した本能と感情がかみ合わなくて、どうして生きたいと思うのか、死にたいと思うのか、わからずにいた。

死んだって彼女には会えないと本能でわかっていた。死は無だ。

それ以上にはならない。

 涙が延々と流れ続けて、きっと死ぬまで泣いたって気持ちが晴れることはないと悟った。幸せなんか、そんなものはいらない。失えば、一人で孤独を持て余すより、もっと不幸だ。「悲しい」が延々終わらない。終わってくれない。

 寂しいなんて感情、消えてしまってほしい。彼女の記憶ごとでもいいから。

 腫れあがる心の痛みに耐え切れず、大事な彼女さえ忘れてしまいたいと思っても、それを拒絶するように涙がこぼれる。

 どうしようもない。悲しみが去るまで、耐えるしかない。

 大きな波のような悲しみや寂しさは、それからも何年先も色あせることもなく引くことはないことを俺は知りようもなかった。

 のちに葬儀に呼ばれたが、俺は出ることはなかった。彼女の母を、父を責めてしまう自信があったから、墓にも行かなかった。泣きじゃくってしまうのが目に目に見えていたから。

 それから何年も俺は過呼吸発作を起こしながら、腫れもののような記憶を引きずり出さないようになかったことにした。そうじゃないと、生きていけなかった。

 忘れてしまう覚悟もできないくせに、ふたをしないと生きていけなかった。

 社会人になって、仕事をしながら生きた。死んだように、自分の感情にけして目を向けることはなく、何事もなかったみたいに年を取っていった。

無意識に違う誰かで埋めようとしたこともあった。いろいろな女性を本気で好きになろうと努力した。みんな優しくていい子ばかりと付き合った。

 それでも、彼女以外彼女じゃなかった。好きになろうとしても、彼女の影がちらついて、誰のことも好きになれなかった。

 とめどない悲しさと、消えてしまいそうな自分を必死に保っている理由がわからなかったのに、生きようと必死だった。

 一緒に死にたいと思っていたのに、それをしてはいけないと無意識に拒んでいた。

 悲しい顔をしたら、死んだ彼女が泣いてしまう気がして必死に幸せに笑ってられるように生きた。そんな時に実の父から連絡があり、電話をとった。スミレの父、水沢から預かったものがあるからとりに来いと告げられたが、俺は郵送で送ってほしいと譲らなかった。

期待と不安を抱え、不安定さに弄ばれながらその日を待った。

 何度も来たら見ずに捨ててしまおうと思ったけれど、彼女を否定してしまう気がして何もできない事を予感していた。小包は翌日に届いた。震える手でそっと空けた包みの中にあったのは、彼女のスマホだった。

何年も前のスマホが起動するのかわからなかったけれど、一緒に入っていた充電器で充電して中を見た。

スマホの中にあったのは、彼女の遺書だった。

交通事故と聞いていたので、驚いた。自殺だったのかと遺書と書かれたメモデータを震える手で開いた。


遺書


 何年か経って、彼が私を忘れそうになった時、このスマホを楓に渡してください。

 あのね、楓。

私あなたが羨ましかった。いつも自由に誰かを傷つけてしまえるあなたが羨ましかったんです。

 自分の中で生まれる汚い感情、誰かを妬ましいと思うこととか、傷つけられて嫌な思いをすることとか、当たり前に私も心の中にあって私はいつもその感情を殺していた。

 自分が傷つくことで、他人を守っている気になっていた。あなたが私が傷ついて苦しいのが自分だけだと思うなって言ってくれた時、初めて気づいた。

 私は周りの人たちと同じ土俵になんか立ってなかった。見下していたんだよ。

 気づくことは多かった。知らずにたくさんの人を苦しめていた。あなたのことを最期まで苦しめてしまった。本当にごめんなさい。

 大事にしてもらえることがこんなに幸せだって知らなかった。

 寒い時に手を握ってもらえるのも、優しく微笑んでもらえるのも、私が大切だって体全部で伝えてもらえるのも、奇跡みたいだった。

 いつも泣くのを我慢するのが辛いぐらい、幸せだった。

初めてキスした時、あんまりにも幸せで壊れちゃうんじゃないかって思った。きっとこの先、全部不幸になって辛い思いをするんじゃないかって、そればっかりに怯えてた。

じゃれあってケンカした時も、これ以上の幸せを私は与えられちゃいけないって罪悪感ばかりが自分を責めて、幸せなのに苦しかった。

 それでも、あなたが好きでした。

 この先どれだけ不幸でも、悲しい思いをしても、それでもあなたと過ごす幸せな時間が欲しかった。どれだけの苦しみに後から出会ったっていいから、あなたと一緒にいたかった。

 あなたが本当に好きでした。

 でもいつか必ず、あなたには幸せな未来が待っていて、そしてそこには私がいないことを理解していました。

 楓、私ね。ずっとあなたに劣等感を持っていました。

 あなたは優しくて、何処までも誰の事もちゃんと理解して、汚い部分をわかっていながら受け入れられるほど強くて優しかったから。優しすぎて自分の事を守ってあげられない人だったから、あなたの重荷にしかならない私じゃあなたをちゃんと守ってあげられないから。

 いつかあなたは私から離れて、知らない誰かと幸せになってしまうって被害妄想を私は信じていたの。

 そうじゃなきゃダメとさえ思っていた。そうじゃなきゃあなたを幸せになんかできない。私じゃダメだって。これが逃げであることはわかっていたのに。

 いつしか、その妄想が自分を壊していました。

ならせめて、残酷な死に方であなたの記憶に残りたい。幸せな時に死ねば、きっと忘れないでいてくれる。私を、嫌いにならないまま私を一生好きでいてくれる。

 こんな浅はかで弱くてずるい理由で、私は死ぬことに決めました。

 最悪な選択だと知りながら、私は耐えられなかった。いつかあなたの記憶から消えてしまうのも、一人で生きていくことも、全部が耐えられなかった。私は弱かったんです。

 愛してもらえる自信なんて一ミリもなかった。

それでもどれだけ恨まれてもいい。憎まれてもいい。私は、あなたの傷になりたかった。

それを私が知るすべがなくても、大事な人が苦しんでも、それでも愛してもらいたかった。あなたを、あなたから与えられる優しさを、全部信じて受け入れられるほど強くなかった。

 自分の抱えている感情が永遠に続くと思えても、他人の感情なんて信じられなかったし、信じたくなかった。

 全部、全部、綺麗なままで終わりたかった。

どうか、私が死ぬことを許さないで。

そして許さないことで、嫌うことで、あなたの心に私をいさせてください。

ずるいよね、それでもあなたに幸せでいて欲しいなんて言う権利なんてないね。

ごめんなさい。それでも幸せでいて欲しい。

 散々苦しませたのに、あなたに幸せでいて欲しいと思うことを、私の愛してるにしてほしい。


 そう締めくくられたメモデータを呆然と見ていた。

 そこにはバカな内容が延々とつづられていて、彼女の弱さに気づけなかった俺の愚かさと、彼女の歪んだ愛情だけがそこにあった。

「バカだな」

 ぽたぽた落ちた涙を拭うこともできなかった。顔をぐちゃぐちゃにして、痛みに耐えるように息をした。

「バカだ、未来が怖いから死ぬなんて。スミレの事に気づけないなんて、俺も君も本当にバカだ……」

 彼女が死んでしまっていても、彼女の愛だけが手元に残った。

 それだけで救われた気がした。同時に酷い裏切りにも感じたけど、それでも愛されている実感と酷い虚無感だけが心を満たしていた。

こんなのは呪いだ。心を蝕んで殺してしまう呪いより残酷だ。

俺はこの五年間、彼女を忘れた日は一日だってなかったのだから。自分の鈍感さと愚かしさに笑うしかない。

 呆然と力の抜けた手からスマホが落ちる。床にゴトっと落ちたスマホから映像が流れる。

 俺が彼女の新しい家に遊びに行ったときに眠ってしまった時の隠し撮りだろうか?

 映像の中の彼女は幸せそうだった。ノイズ交じりに聞こえてくるのは、俺の寝顔を撮影出来てうれしいのか、幸せそうに笑う彼女の息づかいだった。

「楓、寝てると可愛いね」

「優しくしてくれてありがとう、幸せにしてくれてありがとう」

動画の中の彼女には、俺への感謝であふれていた。

 そして最後に言ったその言葉に俺は泣くしかなかった。

「ごめんね」

 憤りに飲まれそうになる。無力感に死にそうになる。

 彼女が少しずつたまっていた人への不信感は、いつか彼女を蝕むと気づいていたのに。

「ずっと一緒にいようっていったのに……嘘ついてんじゃねぇよ」

「楓、好きだよ。ずっと好きだよ」

 彼女は泣きながら、俺をスマホに撮影していた。どれほどの苦しみを抱えて、どれほどの恐怖を持て余して、この選択をしたのかなんて俺にはわからない。それでも彼女は俺を好きでいてくれて、とても大事に想っていてくれたことだけは本当だった。それしか本当じゃなかった。

「俺ばっかりじゃん。なんで」

 動画の中の彼女は俺に人生でいう好きをすべて使いきっていた。

「俺も、好きだよ。ずっと好きだよ」

 彼女に呪いをかけられた。それでも憎めなかった。好きなままだった。彼女の弱さまでずっと、好きなままだった。

 声が嗄れるほど、泣き叫んだけれど届いてほしい人にこの慟哭は届かない。わかってほしかった、俺がスミレをどれほど大事に想っていたか。どれほど愛しく思っていたか。

 もう届かない、彼女はもう笑わない。跡形もない。

 それでも彼女が好きだった。きっと死ぬまで変わらない。この気持ちは死なない。

 どうしたらいいかわからないから、どうかさよならを教えて欲しい。 

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