次の日の朝、俺は教室には向かわず音楽室へ向かった。
哀しげな旋律が奏でられるその空間は、いつも隠れて泣いているみたいで痛々しい。
スミレの父親はきっと、スミレにわかってほしくてずっと弾いていたんだと気づいた。凛とした空気感の中、ピアノの音だけが何故か切なく思いを告げようとする。
悲しかった、寂しかった。本当は我が子を抱きしめてあげたかったと。気づかれないように隠しながら、それでも気づいてほしかった。矛盾した感情を延々を吐き出し続け、彼女を見守っていた。
ちょっと偏執的な人だと思う。けれど、それだけ本気だということも理解できる。
音楽室の横開きのドアに手をかける。曇りガラスのドアの向こうのピアノがぴたりと止まった。
構わず、思いっきり開け放つとスミレの面影をまとった美しい中年の男性が俺に向かって微笑みかけた。
「……スミレ、ついに君に言ったんだね」
そう悲しそうに微笑んで朝の柔い光をまとった彼は、この学校の音楽教師の水沢だった。
自分の周りの全てを巻き込んで目を引いてしまう彼女の性質は、水沢譲りなのだろう。
柔い黄色がかった光と薄く陰る優しい暗がりが存在の輪郭をなぞるように、全てを巻き込んで自分以外を引き立て役にしてしまう。そんな圧倒される美を水沢も秘めていた。
ただ、それさえもスミレの前では影をひそめるから気づかなかっただけで。思わず目を奪われるほどに儚げな男だった。
「スミレのお父さんなんですよね?」
「うん」
水沢は困ったように笑った。
「スミレと家族になりたいんだ。ちゃんと……家族にならないといけないんだよ」
憂いを滴らせ、同調させるように俺の心に詰め寄ろうとする。
人間としての引力が俺を飲み込もうとするが、それでも俺ははっきりと告げた。
「スミレは俺と離れたくないそうです」
同情する余地はなかった。遠くから見守ることしかしなかった奴に渡したくはなかった。
「……スミレの母親のこと、あの子から聞いてないの?」
俺は少し眉をひそめた。
「なんの話ですか?」
水沢は少し言いよどんでから、目を細めて言った。
「スミレの母親の美代はね。……もう、長くないんだ」
水沢の言っている意味が分からず、一瞬言いよどんだ。
でもそれなら、どうしてスミレは俺にその話を言わないのか。その答えに気づいた瞬間、指先から感覚がなくなっていた。頭の端が冷たく動揺し、そして冷静になっていく。
「そんなこと……一言だって」
理由をわかっていながら、言い訳のように言い募る。
「君と一緒にいたいのに、スミレがそんなこと言うと思うか?」
水沢は視線をそらしていう。
「俺はね、一色くん。さっさと両親なんか捨てればよかったって思う。そうしなかったことを一生責めると思う。周りの人間みんなが納得してから、ちゃんと父親として名乗ろうと思ってた。でもそれが間違いだって、ただ何に対しても決断できない、断ち切れもしない自分を正当化したいだけだったって……。美代が病気になるまで気づかなかった。本当に大事なものをちゃんと選べばよかった。そしたら美代とスミレとずっと一緒にいられたのに。みんなが幸せになれるように頑張ってきたつもりだった。でも、どうしてかな? つもりで終わってしまった。一番大事なものを追い詰めただけだった。大事なものを選べなかった……」
「先生……」
水沢は泣いていた。涙を見せることに何のためらいも見せず、自分は愚かだったと嗚咽を吐いていた。情けないその様子でさえも、スミレを彷彿とさせて苦しい。彼女の泣いてる姿を見ているようで、胸が苦しい。
「ずっと一緒にいたかった。きっと君もそうなんだろう。スミレと離れたくない、そう思ってるんだろう? そして、あの子が迷っていることも知ってる」
「……はい」
わかっていた。スミレの一番になりたいと言いながら、スミレの一番じゃないことにちゃんと気づいていた。
「何も守ってあげられなかった僕が、スミレの意思を曲げるつもりはない。でも、最後の時間は、美代とスミレと一緒にいたい。だから、君にお願いする。スミレを返してくれ」
何故か、母さんの声が聞こえる気がした。
これから先の未来、スミレは母を失くす。そして俺よりも一人になってしまう。水沢がいなければ、家族がいなくなってしまう。
「スミレを家族の元に返したら、どうなるんですか?」
力ない声は水沢に届いただろうか? 空気が抜けるような言葉が口から出てくる。そんな俺を見て水沢は涙をぬぐいながら言った。
「美代を神奈川の病院に入れて、学校もその近くに変えようと思ってる」
水沢は俺の肩に手を置いて何度も頼むと、懇願する。その言葉が、その情けなさが、誠実に感じた。きっとスミレは家族と一緒にいた方が幸せだって思った。思ってもいないのに、決意して淡々と感情の伴わない言葉が出た。
「スミレはちゃんと、幸せになれますか?」
覇気のない言葉の裏で自分の中の獣を抑えるために自分を何度も殺した。そうでなければ、好きな人の幸せも祈ってあげられない。俺は笑っていてほしい人の幸せを祈ってあげられる人になりたい。
「うん。俺はちゃんと家族を守る。今度こそ、スミレを守る」
水沢は俺の肩に手を置いてこういった。
「ありがとう。君には本当に感謝している。スミレのそばにいてくれたこと。スミレを大事にしてくれたこと、向き合ってくれたこと。感謝しかない。もちろん、彼女とこれから先会うことも止めはしない。今だけでいい。あの子を家族のそばにいさせて欲しいだけなんだ」
虚ろな目で見た水沢は、もう儚げな男には見えなかった。意思をしっかり持った大人に見えた。それに対比して窓ガラスに映る自分はまだ、子供でしかなかった。
ふつふつと溢れるのはスミレへの気持ちだった。彼女が初めて俺の気持ちを気づいてくれた。母さんへの気持ち、意識したら壊れてしまうほどの人を大事に想う気持ちを。笑いかけてくれるだけで、救われるような幸せさえも、全部。
彼女が俺に教えてくれた。だから願わなくちゃだめだ。彼女の幸せを。そうでないと俺はもう、自分を許せない。
衝動のような感情を口が吐き出す。
「……スミレが好きなんです」
涙が出た。大きな涙がぼろぼろと流れていく。喉の奥がツンと痛い、でもそれ以上に寂しくて痛い。寂しい、辛い。その気持ちが痛くて痛くてたまらなかった。
「スミレが、……好きなんです。笑ってて欲しいんです。一人にしたくない、だから、絶対。絶対泣かさないでください」
思わず掴んだ水沢の胸倉をゆっくり離した。踵を返して音楽室から出ていく。
泣きながら吐きだした感情に嘘偽りなんて一つもなかったはずなのに、後悔なんてしなくていいのに。
どうしたことか、後悔しかしない未来が見えていた。正しいことをするはずなのに、彼女の幸せを願っているはずなのに、自分自身の幸せと彼女の幸せが重ならないことを呪った。
教室に戻っても笑える自信なんかなかった。だから、もういっそ彼女の全てをぶちまけてしまえばいい。行かないでほしい。泣いて縋ってしまえば俺の気持ちは楽になるかもしれない。
どうして愛はそんな身勝手さを許さないんだろう。
どうして強がってでも、平然と気持ちを隠せてしまうんだろう。自信はなかったけれど、そうしないといけないという気持ちは、スミレの前で嘘でも笑える自分を作り上げた。
静かな夕焼けの中、昇降口で彼女を待った。何もかも色を失って、なんの匂いもしない空気を吸って吐いた。
彼女を待っているその瞬間だけは、まだ終わらない命を繋げているような気がしていた。俺たちは離れても気持ちを繋げていけるほど、強く結ばれているわけではない。
彼女は優しくて、綺麗だから引く手数多だろう。俺をずっと好きでいてくれるなんて信じられなかった。
血の繋がりでさえ切れてしまう、親友でさえ裏切る。そんな世界で信じているものに切り離される自分しか信じられないなんて。
俺はなんてさもしいんだろう。
足音のする方を何度も見る。夕焼けの赤い光が焦げ付くような影を作りながら、その窓から差し込む。赤い光が、この世の終わりを告げる警告灯のようで、怖くなった。
「お待たせ」
スミレは無理に微笑んで見せる。少し息が上がり、上下する胸を見て俺はそっと肩に手を置いた。
「どうしたの?」
何か言葉にしようとして、はっとする。
彼女の瞳が夕陽で赤く染まる。形のいい唇が、優しい肌の匂いが、そして、彼女のまなざしが。
全て自分の中からどろどろとした何かを生み出させて、死んでしまいたいような感情で汚染させる。
思い出作りをしたいと思った。
ただ一緒の時間を過ごしたい。それだけでいい。それしか望まない。だから、手放して消えてしまう前に、何もかも失くしてしまう前に、彼女の心に残りたい。
「スミレ。今からデートしよう」
「ちょっと待って、なんで?」
彼女はつまづきそうになりながら、俺を見つめる。俺は心の中で必死にまともな自分を作り上げた。綺麗なものだけを彼女に渡したい気持ちが全てだ。
「最後だから、わがままを言わせてほしい」
そういった瞬間、スミレはうつむいた。
「最後? どうして?」
「どうしても。スミレがどうしたいか、わかってるから。家族と一緒にいたくないわけがない。だってスミレは! ずっと愛されたがっていた」
そう言い放った声が、震えていた。それを与えられるのが自分だけだと、うぬぼれていたことに気づいて、恥ずかしさで顔をそらした。
「……私と一緒にいたくないの?」
言葉にできない感情が頭の中を駆け巡る。伝えたい言葉よりも、正しいことをと。彼女が悲しまない言葉をと。そればかりを探し続けて、どれも自分の中で政界になりえなかった。
泣きそうだ。心の中がぐちゃぐちゃで、行かないでと泣き叫ぶ自分を何度も何度も殺す。そうまでしても願いたい。だってずっと彼女の笑顔を、幸せを望んできたのに、それを否定までしたら、今までの時間全部嘘みたいに思えて。
自分を許せそうになかった。
「……俺がどんなに願っても、スミレは家族も大事だろ? わかってたのに、ちゃんと送り出せないでごめん。わがまま言ってごめん。心の中でどれだけの嘘ついてでも、スミレの幸せを願える人でありたいんだよ。だから……」
ついに溢れた涙を隠すこともしないでスミレをみた。
視線が合った瞬間、思わず抱きしめあった。唇にあたる髪から香るこの匂いも、彼女自身の肌の匂いも、忘れないように強く強く抱きしめた。
回される背中の手も、力いっぱい自分に縋る。
「寂しいよ」
スミレの絞り出したその言葉を聞いて、その言葉だけでこの先、ずっと一人でも生きていけると思った。スミレが自分を、例えこのたった一瞬でも好きでいてくれるなら、それだけが自分を照らす篝火になる。
「スミレがそれでもずっと好きでいてくれるんなら、ずっと待ってるから、今度こそずっと一緒にいよう」
彼女は声を上げて泣いた。
「……離れたくない、楓と……離れたくない」
どうしてわかってしまうんだろう。俺の言ってほしい言葉を、そして許してしまうんだろう。自分が惨めで仕方がない。寂しい、苦しい、助けて欲しい。それは紛れもなく彼女に感じた感情なのに、助けを求めたのもまた彼女に対してだった。
「……そんなこと言わないで」
どうして自分はこんなに歪んでしまったんだろう。醜くしか生きていけないのだろう。
彼女に食らいつくようになぶるようなキスを初めてした。柔い唇の感触が優しくて、唾液で湿った彼女が縋りつくように求めるのが、うれしいのに悲しくて。
そっとその細い首筋に手のひらを添わせる。
「俺なんかと一緒にいない方がいいんだよ。……俺は父親と一緒でスミレを傷つけてしまえる人間なんだよ」
手の震えが止まらなかった。彼女の細い首を絞めるふりをした。力なんかはいらなかった。こんなの幼稚な演技だ。
それでも嫌われてもよかった。俺の後悔は許せても彼女を悲しませたくなかった。それなのに、嘘が自分を支配できなくなっていた。
寂しい悲しいと泣いてしまいそうだ。子供じみた彼女を欲する衝動は、全然俺にとってわがままではなくて、純粋に息を吸うため、呼吸のような自然な行動。失ってはいけないものが一つあるとしたら、それは紛れもなく彼女だった。
彼女も泣きはらした目からはらはら零れ落ちる涙を拭いもしない。困ったように眉を八の時にして涙を流す彼女は、俺の頬に手を添えた。嗚咽をこらえるように必死になって言葉を紡ごうとするも、彼女の声は小さくて何を言っているか聞き取りづらかった。それでもなんて言っているかわかった。
「好きだよ。ずっと」
その言葉に応えるように、初めて本当の言葉が出そうになった。
「……本当は、本当は」
本心を伝えてしまえた方がどれほどいいか、この気持ちをぶつけて彼女を言葉で縛ってしまえたらどれだけいいか。何度も震える声帯が言葉にしようとする。その度、彼女の悲しい顔が浮かんだ。
こらえるように耐えるように、こらえようとすればするほど、声が、震えて言葉にならない。
涙が出た。赤く腫れる目元から、何度も言葉を紡ごうとする唇から、彼女と自分の天秤がぐらぐら揺れて泣き出してしまいそうな感情がたった一つを呟いた。
「スミレ……、愛してるよ」
情けない表情、縋りつくような言葉を吐いて彼女に触れた。目元は熟れたように赤く、熱っぽくて鳳仙花の実のようにはじけ飛んで壊れてしまいそうだ。
俺も彼女も変わらなかった。
こぼした涙を誤魔化すために俺は彼女を抱きしめた。きつく痛いぐらいに抱きしめたのに、彼女は何も言わないで抱きしめ返してくれた。
お願いだから、人の幸せを願える自分でいさせて欲しい。誰かをちゃんと幸せにできる人でいさせてほしい。
自分勝手に束縛して、傷つける人間になりたくなかった。
「……お願いだから、俺の本当の気持ちなんか無視して」
彼女首を横に振って俺にしがみつく力を強くする。俺を離そうとしないその腕が愛おしかった。自分の大事にしているものを全部残酷な形で失ってもいい。彼女だけは残して欲しかった。きつく抱きしめて、絞め殺してしまいそうなほど、細胞の一つ一つまで彼女を感じていたかった。
この刹那、二人同時に死ねたらどれほどいいだろう。
永遠の中にこの時間を閉じ込めることができたのなら、何もいらなかった。それでも時間が途切れることはなく、進み続ける。
今が過去になった時間に、さよならを告げる。寄り添い合った俺たちはついに言葉にした。
「離れている時間なんて少しだけだから」
彼女の手を握っていった。
「少し離れたら、そしたら、あとはずっと一緒にいよう。二人でずっと……。死ぬまで一緒にいよう。約束」
彼女は少し腫れた目で、赤くなった頬で悲しそうに笑った。
「……愛してるってどういう意味だと思う?」
スミレが言った意味の本当をとらえることはできなかった。俺が告げたのは、ただ自分の答えでしかなかった。
「スミレが幸せでいてくれるなら、悲しくても耐えられる。寂しくても嬉しいと思える。だから、それを俺の愛してるにしてほしい」
彼女は儚げに笑った。壊れてしまいそうなほど幸せそうに、微笑んだ。
「うん、あのね。私も」
彼女はためらうように俺の瞼にキスをしていった。
「愛してるよ」
その言葉は疑いようもないほど、彼女の本当な気がした。