季節は緩やかに変わっていく。
秋は訪れを告げるように銀杏並木を少しずつ散らして、次第に白い雪が降る冬になった。
粉雪がさらさらと傘から滑り落ちた。大きめの傘を身を寄せ合って二人で使っていると、お互いの肩に雪が少しずつ積もっていく。
「……最近、殴られてないね」
スミレは俺の頬を撫でる。躊躇いなく触れるようになったのはここ最近だ。優しいぬくもりに慣れることのない俺は少し切なくなる。
「父さんの会社が、倒産したんだ」
「えっ……」
一瞬、言葉を詰まらせるスミレだったけれど、突然気が付いたように「あ」と声を上げた。
「嘘でしょ?」
「当たり前じゃん」
スミレはにやつく俺の鼻をぎゅっとつまんでうんざりした顔をすると少し低い声で言う。
「……オヤジ臭い冗談言わないでよ」
冗談を言えるぐらいの仲になったのが幸せだった。頭がお花畑とはよく言ったもので、俺自身もすごく明るくなった。幸福なぬくもりを離したくなくて彼女の手を握った。
「父さん、新しい女できてから俺に優しくなったよ」
「……楓は、それでいいの?」
彼女は心配そうに言うけれど、そんなことはどうでもよかった。スミレの肩に乗った雪をそっと払う。
「いいも何も。父さんがその方が幸せならそれでいい。死んだ母さんをずっと思い続けて苦しめなんて、俺からは言えない」
「どうして?」
彼女は真剣な顔をして聞いてきたけれど、俺は彼女から視線をそらした。
「十分、苦しんだのわかるから」
父は母が死んでから少しだけ優しくなり、俺を殴る回数が格段に減った。真夜中に一度目が覚めて母さんの仏壇の前で泣いていたのを見たことがある。
父は弱い人だとその時初めて知った。
弱い人間は時折、心を許した人につらく当たる。そしてその度に自分も一緒に傷ついて取り返しのつかなくなってから気づく。
してはいけないことだったと。
「許してはないよ。俺は一生許すつもりはないんだよ。けど、俺だって救えてないのに、父さんばかりを責められないよ。許さないけど、黙認はするよ。……幸せになっちゃいけない人間なんていないだろ?」
彼女は俺の頭に一生懸命に手を伸ばして頭を撫ぜてくれた。
「楓は優しいね」
笑わないまま、彼女は言った。
「優しくないよ。……優しくなりたいだけ」
「バカ。優しいんだよ。……本当にバカなんだから」
彼女は俺を叱る。身長が彼女よりもかなり高い俺の頭に必死に手を伸ばす彼女は、優しかった。
「スミレだけでいいよ。俺に優しくしてくれるのは」
そういうとスミレは困ったように眉を下げて笑った。そんな表情をあまりしなくなった今はそのわずかな表情に引っかかった。
「そういえば、スミレって家族の話ってあんまりしないよな」
なんとなく、不意に言った言葉がいきなり本質を突いたのか、彼女の繋いでいる手がじんわりと汗をかきはじめた。
「どうした?」
不安になって俯いた彼女を覗き込む。戸惑うように少しだけ下を向いて口をつぐんでいる彼女の頭に手を置いて撫ぜる。
「……ほんと、どうしたの?」
向き合って優しく問いかけると、彼女はおずおずとこちらをみて聞いてきた。
「私が、……いなくなったら悲しい?」
冷たい雪がそっと撫でるように頬を伝った。しとしとと降り積もる雪の影が目の端に映って視界がうざったい。頭の中が、気が遠くなるようにその言葉を何度も繰り返している。
やっと声が出たけど、多くの言葉を声にすることはできなかった。
「……どうしてそんなこと?」
彼女の震えながら吐いた息が霧のように視界を霞ませる。彼女の長いまつ毛に少し雪がついていてそれを隠すように彼女は目をこすった。
「朝、いつもピアノ弾いてた人いるでしょ?……誰だと思う?」
少し目元が赤い彼女を見て、俺は彼女の震える手をぎゅっと握った。
「わからない」
「私の……お父さんだった」
俺は動揺を隠せないでぼそぼそと声を出す。
「……亡くなったって聞いてたけど」
そういうとスミレは目を伏せて一瞬、苦笑いしてから、急に俺に抱き着いてきた。傘を持ったままの俺はどうすることもできず、片手で彼女の肩を抱くしかできない。
「スミレ?」
「……私も、そう聞いてたの。本当は違った。お母さんが嘘をついてた」
抱き着いて顔を隠す彼女を優しく引き離した。
「泣いてる?」
目元が少し腫れぼったく、泣きそうな顔をしている彼女が目を潤ませながら言う。
「私ね、楓と離れたくない。お父さん、お母さんとやり直すって、本当は結婚を反対されて、結婚できなかった。でも諦めきれなくてずっとおばあちゃんとおじいちゃんと話し合ってたって。……嘘みたいじゃない? そんなこと急に言われても、誰の事も捨てられないで誰の事を選べなかった人の話なんか信じられない!」
感情が鮮やかになった彼女を見て、こんなにも自分を伝えてくれる彼女をみて、昔自分が感じたことを思いだした。彼女が求めているのは俺じゃない。
「スミレ」
優しい声が出た。
でもそれは、スミレのための優しさじゃなかった。100%自分の欲のためだけの言葉だ。
「行かないで、お願い」
縋るような言葉にスミレは目を見開いた。そして幸せそうに目を細めて微笑んだ。
「行かないよ。ずっと一緒にいる。だから一緒にいてもいいよね」
彼女は俺に執着を見せるようになった。彼女は優しい俺を求めている。自分を救ってくれる俺と一緒にいたいと思ってくれてる。……そうでなければ、いらないと捨てるのかな?
抱いた思いが蝕んでいく。彼女を純粋に見たい。ただ彼女が好きだったから、好きな彼女のままでずっといて欲しい。
誰かを自分以上に想っていてほしくない。そうじゃないなら、他の誰かが彼女の一番になってしまうぐらいなら、彼女に死んでほしいとさえ思った。
こんなに好きなのに、こんなに大事にしたいと思っていたのに、結局俺は身勝手で可哀そうなくらい自分の事ばかりだ。
人を好きになるんじゃなかった。好きな人の幸せを祈れないぐらいなら、生まれるんじゃなかった。最悪な自分の心が嫌いだ。嫌いで嫌いでたまらない。
それなのに、心は彼女の笑顔ばかり欲しがった。酷い矛盾だ。
衝動に突き動かされるまま、傘を手放し、彼女を力強く抱きしめた。
愛情が、好きという気持ちがこんなにひどい誰かの不幸を願う心だと知らなかった。綺麗なものしか見せたくないと言いながら、彼女を想う俺はこんなに汚い。優しくない。身勝手で人を傷つけて、幸せさえ祈ってあげられない。
どうか、知らないでいて欲しい。
それで綺麗な上澄みだけを愛してほしい。……心の奥底に沈んだ汚い自分なんか知らなくていいから。
彼女にほのかに香る悲しい感情の匂いが、母さんと重なった。それなのに、それに気づかないふりをした。
本当に、ゲスの極みだ。
初めて自分に死んでほしいと思った。