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第7話 ソーダ味のキス

 春の訪れを告げる桜は葉に変わり、やがて気が滅入る梅雨になった。

それから彼女は、人に少しだけ優しくなった。何か思うところがあったのだろうが、周りは少しずつ彼女に優しくなった。ぎこちなかった関係も、緩やかにそれが当たり前になりすんなりと変化を受け入れるようになる。

彼女は綺麗だ。腕は傷だらけだし、他の人間に対してのとげとげしさは抜け切れてはいけない。それなのに、彼女は少しずつ周りを飲み込んでいった。

「早坂さんのこと好きなの?」

 騒がしい明るいクラスの女が俺を揶揄する。好奇心が詰まったキラキラした目で、俺と彼女の関係を聞く。それを見て俺は辟易とし、げんなりする。

俺はいつもスミレに対しての好意を隠さないし、彼女に対しては誠実でありたい。そのせいかその他のクラスメイトと明らかに違う態度で接しているようだ。

クラスメイトたちにはそのギャップが面白く見えるらしい。

視線の先にいつも彼女がいる。それが思いの通じた今でも変わらないのがなんとも悲しい。特別な人という認識は自分になじめば、きっと特別ではなく、ゆっくりと自分の一部になると思っていた。

けれど、そんなことはなく彼女はいつまでたっても自分の特別から変わることはなく、いつまでたっても日常の一部になってはくれなかった。

 いつもいなくなるのではないかと怖がる。他の人間を俺以上に好きになるのではないかとビクビクとおびえている。

「好きっていうか、彼女だよ」

 だからこういうわざとらしい発言をして、境界線を引いているのだ。彼女の恋人は俺だからそれ以上は関わるなと。威嚇している。女々しいことこの上ない。

 うれしそうな声がクラス中に上がる。その声と梅雨の湿った空気感が神経をピリピリと尖らせる。雨の匂いがどことなくプールの塩素の匂いに似ていて、消毒されていく彼女のイメージをもう一度、汚してしまってもう一度、全てから彼女と遠ざけてしまえたら、なんて考える。

 彼女に死ぬほど愛されたい。

 そんな病的な思考が浮かんでは消え、浮かんでは消えていく。消すのは自分の良心だ。彼女の幸せを祈るそんな自分のいい部分。

「……優しくなりてぇよ」


 放課後になり、彼女は俺に近づいてきた。

「……楓。一緒に帰ろう」

 優しくなった表情に見えるのは俺に向く好意。

それだけなのに。

さっきまで抱いていた汚く歪んだ感情を上手に消してくれる。愛されるために優しいだけの人間になりたい。

 彼女の幸せを願えるだけの人間になりたい。人間味もわがままも消えてしまえばいい。それで彼女に愛してもらえるなら、自分なんか消えたっていい。

 そんなことを思い、彼女の柔い手のひらを繋いで今日も壊れそうな自分を支えて生きている。

 学校から少し離れたコンビニが近づくと俺は彼女の話を遮って声を出した。

「コンビニ寄ってもいい?」

「うん……。あの、機嫌悪い?」

 彼女は人の事を良く見ている。だから些細なことで気づいてしまう。気づかれたくないことまで見抜いてしまう。

「……うん。ごめん」

 日が落ちるのが遅くなってまだまだ昼のように明るい。おかげで表情を隠せないのがみっともない。見られたくない顔の面を剥がせたらいいのに。見て欲しい表情だけ彼女に見せられたらなんて思ってみても、そんなことできるわけもない。

 それでも顔を合わせないままで彼女に嫌われたらと怯える臆病者は、こっそり彼女の方に視線を向ける。

 梅雨の湿った空気が彼女湿らせてしまったんだろうか? 彼女は瞳いっぱいに涙をためて泣いていた。

「……えっ」

 戸惑うように俺は急いでポケットティッシュを出そうとカバンを探る。慌てすぎてなかなかカバンの奥にあるティッシュが取り出せない。

「ご、ごめん。機嫌悪くてごめん。な、泣かないで」

 おどおどと彼女の涙を指でぬぐって困った泣き腫らした顔に手を当てる。

「ああ、目腫れちゃってる……」

 彼女は態度を急変した俺に少し呆れたように叫んだ。

「……なんで言ってくれないの? 嫌なことしちゃったなら教えて」

「あ……、いや、あの……」

 しどろもどろになりながら、泣きじゃくる彼女があまりに子供っぽく見えて思わず、噴き出してしまった。

「うぅ、バカ!」

 そういって大声を上げて泣く彼女を見て、何故かそんな面倒な態度が愛おしく感じた。優しい彼女は初めて自分に強い感情を向けてくれている。子供っぽくわがままを言ってくれている。

 大粒の涙がためらうことなく流れていく姿に俺は無性にホッとしてしまった。

「あ、いや、違くて! 普段、子供っぽくないのになって思って……」

 彼女の涙が雨を呼んだみたいに、ぽつりぽつりと雨を降らせて俺は彼女の手を引いてコンビニに走った。彼女はその間も嗚咽を吐きながら「ばかぁ」と泣きじゃくる。

 何故かそれがおかしくて俺はバカみたいに笑ってしまう。頬にあたる雨粒でさえ、まるで慈雨ように感じて、さっきまでの重苦しい独占欲があっという間に払拭されてしまった。

「スミレって不思議だね」

泣きじゃくる彼女にアイスを買った。ソーダ―の中にバニラアイスが入った棒のアイス。

片方を割って彼女に渡す。雨が降りしきる。薄暗がりの外を眺めながら濡れる世界をイートインのガラスの向こうから二人で眺めていた。

「ごめん、俺。……ただ、嫉妬してただけなんだよ」

 少し落ち着いた彼女はアイスをぱくぱくと口に運びながら、冷たい息を吐いて俺を見た。

「嫉妬……?」

 腫らした目に冷えたペットボトルを当てると、彼女が冷たそうに身を震わせる。その姿さえ可愛くて仕方がない。

「独占できなくなっちゃったから」

 そういうと頬がさっと赤くなり、彼女は俺から顔を背けた。

「ごめんな。ずっと独占できるとかわけもなく思ってて。自分勝手だよなぁ。クラスのやつらと仲良くなるのが無性に腹が立って、態度に出してさ。ほんと、どうしようもないよ。好きな子が誰かと仲良くなって楽しいって思えるなら、それが一番なのに。スミレの幸せを願ってあげられない自分が嫌いだよ」

 彼女はそっぽを向いたまま、耳まで赤くしてボソッと呟いた。

「そんなに、優しくなろうとしなくていいのに」

 はっと言われた言葉に驚く。

「えっ……。俺、優しい?」

 彼女は振り返っていたずらっぽく笑った。

「バカ。優しくないとそんなこと考えないよ。……そんな当たり前のことに気づけないなんて本当に、バカだね」

 彼女は俺の手を握る。ぬくもりがじんわりと伝って心に沁みた。彼女の体温が雨で冷えた体に沁みこんで温かい。そしてたまらなく落ち着いた。

「手握ってもらうと落ち着くよね。なんでだろうね」

 俺がそう言って反対の手で頬をかく。

「手にいっぱい神経通ってるから、たくさん相手を感じられるのかも。……そういえば、キスも唇が敏感で相手をたくさん感じられるから口と口を重ねるんだって聞いたことあるな」

 彼女はそう言葉にした瞬間、顔に熱が溜まるのを感じた。キスなんてきっと、他の人とだったら何も感じない。

 口と口をくっつけるだけの行為。それだけなのに、意味を成すのは彼女とするからだ。触れたいとか抱きしめたいとか、触れて欲しいなんて思うのは彼女だからだ。

 熱っぽくなった表情の彼女をちらりとみた。

「……キスしたいとか、思う?」

 俺は震える手で彼女の頬に手を添えた。握られている片方の手は汗をかいている。

 視線が合わせられない。まともに彼女を見ることができない。

 それでも彼女の頬の熱が自分と同じ想いであることを伝えてくれた。

「ここ、コンビニ。……だめ」

 彼女は小さな抵抗をみせたけれど、隅の方にあるイートインのさらに奥に彼女を座らせているから見えないよと耳打ちした。

困った顔をしている彼女の唇をそっと親指で触れた。湿った柔らかい感触に、背筋がぞくりとする。

「キス、したい」

 可哀そうなほど赤く頬を熟れさせて彼女は無言で首を縦に振った。

 閉じ込めてしまうように彼女を自分で隠すと、触れるだけのキスをした。柔く羽がふれるような子供じみたキスだった。

こんな優しいだけのキスを、こんなに幸せだと思ったのは初めてだった。

 なめらかで柔く、ふんわりと彼女の匂いが香る。少し湿ったように温かい彼女の唇とすり合わせる行為は、もはや自分にとってキス以上の意味を持った。

 快楽の伴う行為でなくてもいい、触れるだけでいい。それ以上のことなんか求めなくてもいい。彼女がそばにいるだけで、汚い欲なんかわかなかった。それ以上の幸せなんか想像もつかなかった。

 二回だけ啄むように触れて、すぐに離れた。恥ずかしかったのもあるけど、離せなくなりそうだった。

 お互い顔を見ることもなく、そっぽを向いて何事もなかったようにアイスを食べた。シャリシャリとかみ砕くソーダ味のアイスを黙々とかじっている。

「ふっ」

ふいに彼女は笑う。

「どうしたの?」

「ファーストキスの味、ソーダだった」

「あれ? 今の、ファーストキスだっけ?」

気になって聞くと、彼女は少し怒ったように言い放つ。

「あれはノーカウント!」

「あははっ」

 そんな他愛のないことがたまらなく幸せだった。

「ずっと一緒だったらいいな」

 彼女が呟くように言った言葉に、俺は彼女の頭を撫ぜていった。

「俺も、ずっと一緒がいい」

 ずっと一緒にいられると思っていた。これまでの人生が辛いことばかりだったから、これからはずっと幸せでいられるんじゃないかと思っていた。

 しとしと降る雨が薄暗がりを連れてきても、それでも彼女と一緒にいられるならどんな苦しみでも幸せに変えていけると信じていた。


 陽が落ちるのが遅くなる夏が来た。

 蝉の声があまりにうるさく感じ、いないところでも聞こえる幻聴と化す。日陰が濃く色づく陰影を見ながら、早朝スミレといつも本の話をしていた。

 いろんな本を読むようになった。名前も知らない外国の作家が書いた小説から、よく知っている有名なミステリー。

 あの有名な賞の名前にもなった昔の作家。彼女との共通の話題のためだった本は、時間がたつにつれ俺自身の趣味になっていった。

「ねぇ」

 濃く色づく影に身を置いて、彼女はふいに気づく。

「朝、いつもピアノの曲聞こえてくるけど、弾いてるの誰なんだろうね」

 静かに奏でられるピアノのメロディーはいつも悲しげで儚い曲ばかりで誰かが自分の哀しみを泣けない自分のためにピアノに奏でてもらっている。そんな情景が思い浮かぶほど、伝わってくるものがあった。

「……誰かわからないけど、きっと自分のこと誰かにわかってほしくて、それなのにわかってほしくないのかもね」

「なにそれ。変なの」

 思わず笑ったけど、聞こえてくるピアノの旋律が届くたびに、わかってほしいとわかってほしくないという切望が矛盾して叫んでいるみたいに感じた。

 俺は少し目を伏せた。泣き顔を見られたくないと泣いている子供の泣き声のような音に、少し心に来るものがあったから。

「……でも、確かにそんな感じ」

「でしょ? ……本当に寂しんぼの音してるよ」

 彼女が切なげに窓の外を見る。窓から溢れる光と教室の影の境目いる彼女になんとなく視線を向けた。カラートーンの落ちた教室の中で、止まったような時間を彼女と共有していた。

 色鮮やかな夏の色を背景に事務員さんが花壇に水を撒くのを彼女はそっと眺めている。キラキラと水滴が輝いて花壇の草を濡らす。それがどうしようもなくきれいだと感じた。

窓から差し込む夏の日差しを遮るように、彼女をそっと後ろで抱きしめた。

「……教室だよ」

「知ってる」

 そんな他愛のない時間だった。自分の全てが彼女によって書き換えられていく。

 悲鳴しか響かない家の中では感じない。緩やかな優しいだけの時間が幸福すぎて永遠が叶えばいいと思った。この先どれだけ大きな幸せを感じようと、これ以上の幸せなんてない。

 そんなことを言いきれてしまうほどに、俺は幸せで仕方がなかった。

「もうすぐ、お盆だね」

「スミレ、母さんの墓参り一緒に来てくれる?」

 彼女は破顔する。その笑顔は夏の冷たい水のように体を冷やし、のどを潤すように何もかもを満たしてくれる。

 時間が有限であるなら、今一瞬を切り取って永遠にループしてくれればいい。そんなことはあるわけないのだけれど、それを願わずにはいられなかった。

「……生きてるって変わっていくことなんだな」

 そういうと、彼女は少し笑った。

「これからもずっと少しずつ変わっていくんだろうね」

 光が差し込む教室で、彼女と外の世界を見た。二人だけしかいなくなった世界のようなこの空間ににぎやかな声が超えてくる。

「よっ! ご両人。朝からいちゃついてんな! でもTPOわきまえような」

「中田、うるさい!」

 意外なことに彼女も中田にこんな言葉を吐けるぐらいには、打ち解けていたようだった。

「あははっ」

 大げさに笑った俺を見て中田は少し切なげに笑った。

「……みんな、俺を虐げるんだから」

「お前の性格の問題だろ?」

 中田は少し悲しそうに窓の外を眺めて、事務員のおじさんにあいさつした。

「おはよーございます!」

 二階の教室を見上げる事務員のおじさんはうっすらと汗をかきながら優し気に微笑んで手を振り返していた。

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