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第6話 名前を呼んで

 八坂の墓地についた時には、夕焼けが青みを増していて夜が迫っていた。

 広大な墓地の中で彼女を見つけることは容易ではないと、勝手に決めつけていたのかもしれない。

 彼女はそっと佇むように、静かにその存在感を放っている。きっとどんなに静かに息をひそめていても、どんな闇の中にいても見つけてしまう。目を引くのだ。

その数コンマ、彼女が普通の人間ではないと気づく。ふいに中田が言った言葉がよみがえった。

『彼女と一緒にいると自分が嫌いになる』

 その意味を初めて本当の意味で理解したかもしれない。

「早坂」

 俺はそっと早坂に声をかけた。早坂はうつむいたまま、立ち上がり戸惑うように視線を泳がせて逃げようと俺に背を向ける。そんな彼女に俺は平然と言い放った。

「逃げていいよ。必ず、捕まえるから」

 そういった言葉にすくんだように、身を固くした彼女の腕を俺は瞬時に捕まえた。腕を掴まれた彼女は思わず俺と視線が合い、すぐにそらした。

「なんで視線そらすの?」

 彼女は何も言えないようで口をつぐんだままだ。夕闇が迫る墓地に彼女の顔が赤く照らされる。夕焼けの赤い光が彼女を染めだんだんと青ざめていく。

「ねぇ」

 彼女は意外と頑固なようで、口は重く閉ざしたまま何も言わない。

「親友を殺したって中田が言ってたけど、たぶん違うよね?」

 その言葉に堰を切るように涙が彼女の瞳から溢れ止まらなくなる。唇をぐっと噛んで震える彼女があまりにも痛々しく、簡単に壊れてしまいそうで怖かった。それでも俺は引かなかった。

「早坂、あのね。俺、大事な人を殺したことがあるんだよ」

 そういった言葉に早坂は泣き腫らした顔を上げる。夕闇のわずかな光が彼女の白い肌を優しく照らす。

「俺はアル中の父親の暴力に怯えて母さんを一度だって守らなかった。かばったことも一度もなかった。母さんは親父に追い詰められただけじゃない……。誰も守ってくれなかったから、自殺したんだ。俺、人殺しと一緒なんだよ」

 酷い顔をしていると思った。無理やり笑ったけど、その笑顔には強がりと陰鬱さがにじみ出てこんな表情を他人に向けることは後にも先にも、今のこの瞬間だけだと思った。

「早坂、手を差し伸べた人間は人殺しにはならない。見殺しにもしてない。周りが優しい早坂に、罪を押し付けただけだ。誰かのせいにしないと、生きていけないほど人間は弱いから、そんな弱虫たちの犠牲にならなくていい。自分を、周りを守るための盾にするな。自分と大事なものを守るためだけに優しさは使って」

 そういうと、早坂は震えて口元を抑えた。目からはたくさんの涙を流して、何か必死に言葉を紡ごうとしていたけど、聞き取ることはできなかった。何も本当は知らなかった。

 中田から事情を聞くことはできた。けれど俺はそれをしなくてもわかった。彼女は、自分の優しさに付け込まれて他人に人殺しに仕立て上げられただけだ。

 事実、本当に人殺していたら今頃ここにはいない。彼女は優しさにつけこまれただけだ。そういうものを何度も見てきた。人は汚く、弱く、脆く狡い。自分を守るためならば、他人を傷つけることに何の躊躇いも見せないのが人間の本質だと、疑いようもないほどに周りにも自分にも染みついている。

母を犠牲に自分を守っていた俺だからわかる。俺と彼女は違う。真実なんてそんなの、彼女の清廉さを見れば言われなくてもわかる。

 心の中でどす黒い感情が芽生える。彼女は人間とは思えないほどにまっすぐで強く優しい。どうして彼女に俺はなれないんだろう? とわずかに産まれた黒い墨は、純粋な恋心に陰りを差す。自分が嫌いになりそうだった。

 嫌になるほどに、彼女は綺麗なままだ。凍り付いた花のようで踏みにじって、壊してしまいたくなる。

 それでも、彼女が好きだった。それしか俺には綺麗なものが一つもなかった。

誰かを傷つける弱さには確かに自分にもあった。彼女を妬む気持ちが俺にもあった。それでも彼女が好きだった。こんな汚い自分をありのまま、彼女に心から愛してもらいたかった。

 泣きじゃくる彼女が縋りついてくる。俺の制服をぎゅっと握りしめているその手が、カタカタと震えているのが痛々しく、強く抱きしめることでバラバラになりそうな彼女を繋ぎとめておきたかった。

「大丈夫」

 彼女に語り掛ける『大丈夫』に意味などない。根拠すらない。信じたいだけだ。

「大丈夫だよ」

 それでもその言葉に縋るしかない。

 劣等感で苛まれた心が、それでも彼女に幸せでいて欲しいと願った。

「一色は、私が傷ついたら辛いって思ってくれるの?」

「当たり前だよ」

 彼女の弱々しい声が耳に届いて、彼女の頭を優しく撫ぜた。

「君が悲しいと、俺も悲しい。お願いだよ、優しい人は幸せにならなきゃいけないんだよ」

 泣きそうな声で唸るように言うしかなかった。

 ずっと一人の世界を生きているつもりだった。目に映り触れられる人や物があるのに、どうしたことかそれらが存在していない、そんな気がしていた。曖昧だった。全部が幻覚みたいだった。夢のようなあやふやな感覚が消えなかった。

 現実味のない全てと関わっているうちに、自分さえ存在しないと思うようになった。感動や愛情なんていう色鮮やかな感情は、それこそ小説や漫画の世界にしかなく自分はただ退屈なループされる毎日に耐えて人生を終えると思っていた。

 彼女は言った。

「大事に思ってくれてありがとう」と。

 たった一言だ。

 それが俺にとってのスイッチだった。

強い衝動に突き動かされて、初めて誰かを自分のものにしたいと思った。

「早坂、付き合って」

 瞬間、自分の放った言葉に動揺した。思ったことがそのまま声に出たから、頭の中で何もシミュレーションをしていなかった。

 つま先から硬直していくのがわかる。頬は腫れているみたいに頬に熱をためる。何か言い訳したいと思った。

 でも赤く熟れたような彼女の頬、涙が街頭にうっすらと照らされてキラキラと光るその瞳を目に映すだけで、好きじゃない、彼女を自分のものにしたいことを否定することはとんでもない嘘でしかない。

彼女を自分のものだと言いたい。優しくしたい、笑っていてほしい。そしてその笑顔を自分にだけ向けて欲しい。

 彼女に心から愛されたい。

――そう思った時、初めて自覚した。

幸せになりたい。誰かに当たり前のように愛されて、幸せな人生を歩みたい。

 母さんが亡くなってから鈍くなっていた心が、異常だと思っていた心が、本当は幸せになりたがっていること。

 ふいに早坂が俺と目が合う。潤んだ瞳は戸惑うような色を見せ、そして少しだけだったけど、嬉しそうにほほ笑んだ。

「あ、あの……」

 彼女が声を出して俺を見る。

 俺は動揺して赤い顔を隠すようにうつむいた。

「み、見ないでほしい……」

 声が震えて神経が逆立つ。ぞわぞわと彼女に見られているという意識をするだけで、緊張で体おかしくなりそうだった。頭の中がぐるぐると回転するように思考がまとまらない。

 心の中でどうしよう、どうすればいい? と自問自答を繰り返して、我に返る。

 早坂が俺を見る目がとても優しかったから。彼女は戸惑いながらも応えようとしてくれていると直感でわかる。

「……さっき言ったのは、嘘じゃない。だから、あの、付き合ってください……。好きです」

 情けない告白をした。

 街灯の下で、早坂は顔を真っ赤にしながら首を縦に一度だけ振った。


 たどたどしく手を繋いで二人で話をした。

「親友だったの。守っているつもりで、逆に追いつめていた。彼女は内気でいつも何かに怯えている子だったの。そのうち自己主張しないその子はクラスでいじめられて孤立していった。当時の私は妙な正義感を持ってて、その子を守ってあげなきゃってかばってばかりいた。親友なんて言ったって本当は彼女を同情してただけだった。助けてあげたかった……その気持ちに嘘はなかったけど、その子への好意からじゃなかった。偽善者でしょ? 今ならわかる。みんな仲良くなんてなれないよね……。生き方も、見てきたものも違うんだから。そのうちに私はクラスから彼女と一緒に無視されるようになった。靴を捨てられたり、ものを隠されたりした。それでもこっそりと気にかけてくれる友達がいて、言われたの。本当はあの子が一番の悪者だって。手を引かれて連れていかれた教室で、親友が私の筆箱をゴミ箱に投げ入れていた」

 俺は彼女の頭を優しく撫ぜた。彼女はもう震えてはいなかったけれど、少し辛そうに話していたから。

「大丈夫?」

 彼女は我に返ったように俺と目を合わせて初めて花が咲いたように笑った。

「ありがとう。大丈夫だよ。一色に話したいって思ったの」

 そういうと彼女は俺の手を優しく握り頬に当てた。静かに俺の体温を感じ、覚悟したようにまた話し出した。

「勇気……、もらっちゃった」

 いたずらっぽく笑う彼女を見て、きっと彼女は本来こういう優しい表情をする子なんだと頭の端でぼんやり思った。彼女に触れる指先が熱を帯びて、震えそうになる。ふいに触れられた体温がこの手から消えないで欲しいと祈るほどには、彼女を好きになっていた。

「私はあの子を責めなかったの」

 ぽんと呟いた彼女の言葉が全てを物語っていた。静かに彼女の横顔を見つめる。虚ろ気な瞳の中に少しだけ人間味を感じた。

「こんなことさせてごめんねって言っちゃったんだよ」

 笑わずに彼女はそう言って、静かに涙をこぼしていた。ただそれだけなのに、夜の街灯が、月明かりが、輝くそれらすべてが、一瞬で彼女を一心に見つめるようにその存在をひそめ、その瞬間の全てを彼女が奪っていった。圧倒的な存在感。

「本当はどうしてそんなことをしたのか、誰かに強制されてやったのか、自分の意思だったのか、確認も取らなかった。そんなことどうだってよかった。その行動をさせてしまった自分に責任があるって思ってた。……本当にバカだよ。同じ土俵に立とうとなんかしてなかった。あの子を私は知らず知らずに見下してたの。ちゃんと向き合ってケンカすればよかった。……だから、私があの子を悪者にしちゃったの」

 彼女の悲しみが心に沁み込んでくる。彼女の空気感は、人を魅了する。

世界を全て味方にしてしまうような彼女はきっとその場を飲み込んでしまったんだろう。それを自覚しないままその親友を傷つけてしまった。

「……君は君の事をあまりわかってないのかと思った」

 ふいに出た言葉に早坂は自傷するように痛々しく笑った。

「最初はね、わかってなかったよ。でも周りが自分に飲まれてしまうっていうのは、最近ようやくわかってきたかな。目を引く人ってどこにでもいるけど、私は少し違うのかもね。私の優しいって思う行動は、そんな自分の目の引く性質と相性が合わなかった。責めるよりも、自覚しないで陥れたという方が言葉としては正しいのかもしれないね。リーダー格のクラスメイトがいうことはなんでも正論に聞こえてしまう原理と一緒。例え、間違っていることでも」

 とっぷりとふける夜に、彼女は一人きりになったように見えた。誰もいない世界で、悲しい顔で泣いているように見えた。触れられる距離にあるのに、透明なガラスが立ちはだかっているように、俺と彼女の間に明確な拒絶の色が見えた。

「スミレ!」

 虚ろな目の彼女を初めて名前を呼ぶ。消え入りそうな彼女を自分に縫い留めておきたくて、必死に何度も呼んだ。彼女ははっと我に返って思い出したように壊れそうな顔をした。

「……大丈夫だよ。スミレは一人じゃない」

 咄嗟に抱きしめて彼女を包んだ。純粋な優しさだけを彼女に与えてあげられるならどれほどいいだろう。誰の心も、どうしたことか不純物ばかりで自分を守るために、他人を傷つけて遠ざけることばかり考えていて、とても怖くて触れない。

「ごめんね」

 彼女は足元がふらついて青ざめている。貧血を起こしているのかもしれないと思った。

 こんなになってまで、俺に伝えたいことはなんだろう。それでも口を動かそうとする彼女を支えながらぼやく。

「……どうして教えてくれたの?」

 その言葉を聞いた瞬間、彼女は微笑んだ。俺を落ち着かせるために作った笑顔だと気づいていたのに、思わずふわりと優しく笑った彼女の空気感に飲まれた。

「一色が、ちゃんと向き合ってくれたから。……私はそれが本当にうれしかったから。応えたいの。ちゃんと応えられる自分になりたいの」

 言葉が静寂を終わらせる。

彼女の凛とした決意の言葉が耳に届き、動揺で俺の鼓動が早くなる。自己評価が低いつもりはないけれど、正直、ギクリとした。逆を言えば、俺は彼女に応えられる人間なのかわからなかった。どう考えても人と向き合ってこなかったのは俺の方だった。

「スミレ、俺。そんなにできた人間じゃない……」

 今まで人を人とすら思ってこなかった。機械的に周りを見ていた。うつむいた視線が映したのは、ぼんやりと街灯に照らされる名前も知らない雑草。小さな青い花をつけてひっそりと見向きもされずそこにある。

 俺みたいだった。本当はこんなに小さな存在で、威圧的に人に接していれば、自分が誰かを傷つける存在になれば、誰かに認められるような気がしていた。自分の浅はかさに頬が火照る。

 違うと気づけたのは、紛れもなく彼女と関わったからだ。

 羞恥でうつむいていた顔を上げると、彼女のほのかに緩んだ表情が見えた。月明かりに照らされた彼女は、俺を優しいと信じて疑わない。俺の迷う心なんか知らずに、信じ切って笑っている。

何もかも逆だ。

 与えてもらったことばかりで、自分から与えたものはほんの一握りだ。

「一色……?」

 スミレは俺の様子がおかしいことに気づく。

「俺、何にもないんだよ。空っぽだよ……」

「……」

 彼女は少し考えたように唸ってほのかな明かりのような言葉を俺にくれた。

「何もないのに、私は好きにはならないよ」

 頬を少し染めて、照れるように微笑む彼女を見て俺は何かが決壊しそうだった。

「名前……」

 彼女は頬を染めながら、俺を見上げる。その上目遣いが心臓をガタガタと震わせる。情けないほどに、ドキドキしている。期待、うれしさ、もっと彼女の心にいたいと思うほどに、全てが怖くなる。

 失うことも、嫌われることも、傷つけられることも、大事すぎて怖くてたまらない。それでも触れたいと願うのはどうしてだろう。どうして求めずにはいられないのだろう。

少しだけ……。

そう言い訳するように、彼女の手を握って言う。

「名前を……呼んで欲しい」

 彼女は俺の様子を見て、月明かりのような淡く優しい光になって笑う。

「……楓は優しいね」

 その言葉は俺にとって光だった。心の中に灯された光を、俺は抱きしめて死ぬまでそばにいたいと願う。

彼女に愛おしさと教えられた。誰かの笑顔がこんなにも自分を支えることも、自分が幸せになりたいこと気づかされたのも、全部、彼女に会ったからだ。

幸せになりたい。自分一人ではなく、彼女と一緒に幸せになりたい。

 夜風が少し冷めていて、握り返された手の温度だけが俺にとっての全てになった。

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