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第5話 君の前の透明人間

 保健室に連れていった早坂は、保健室にはいると静かに椅子に座った。彼女は俺から顔を背けていった。

「私となんか関わらない方がいいよ」

 俺は消毒液を探しながら、早坂に言った。

「そうかもね。でも俺が関わりたいんだからどうしようもない」

 世界が急に色褪せたように、温度を失くしていく。彼女が悲しいと悲しい、辛いと俺まで痛い。こんなどうしようもない摂理。自分はいつも彼女にナイフを突き立てられる。私となんか関わらない方がいいなんて言ってほしいわけじゃないのに。

「早坂はさ。大事な人が傷ついて自分も傷ついたことない?」

 俺は消毒液とコットンを掴んで彼女の前に座った。

「自分が傷ついて辛いと思うのが、自分だけだと思うな」

 咎めるように笑うしかない。彼女を傷つけたいわけではない。それなのに、彼女は泣きもしないで唇を噛んで震えるんだ。泣くのを我慢しなくていい。そういわれるのさえ、彼女にとって辛いのかと思ったら、何をどうしていいのかわからなかった。

心の中でごめんと呟いて覚悟したように俺は言った。

「俺は今から透明人間になるよ」

「えっ?」

「透明人間だよ」

 早坂は目を白黒させたまま、視線を泳がす。

「だから、ここには誰もいない。早坂を見ている人は誰もういない」

「……」

「早坂が泣いても傷つく人も、悲しむ人もいないんだ。ねぇ、早坂の心は今、どこにあるの?」

 そういった瞬間、堰を切ったように早坂は泣き出した。彼女が泣くのが痛いと思う。どうしてか、引き裂かれるように痛い。

 けれど、俺は無力で、出来損ないで、慰めの言葉の一つも知らない。

 そっと彼女の頭を自分の肩に抱き寄せて、向かい合って背中をさすった。生きるたびこんなに傷ついていたら、きっと彼女は生きていけない。

 西日があまりに眩しいのが、なんだか嫌味に感じた。こんなに苦しんで悲しんでいるんだから、彼女を優しく照らしてはくれないかと、俺は西日の橙を睨むことしかできなかった。


 泣きじゃくる彼女の背中を撫ぜながら、夕闇の迫る空を見ていた。

「ごめんね」

 泣いているときぐらい自分のことを考えればいいのにと、俺はいらだつ。どうしてこの子は自分より他人を優先してしまうんだろう?それは普段なら優しさだと思うのに、今日は自傷にしか見えない。

「ごめんねっていうのは、悪いことをしたときに言うんだよ」

「したの。私、悪い人間なの」

 いつまでも涙はあふれ出て、このままでは体の中の水が全て出てしまう。俺はそっと彼女の顔を見た。泣きじゃくる彼女の瞳は一瞬だけ揺らいで顔を隠した。

「見ないで」

「泣き止んでほしいから見てる」

「泣いてごめんなさ」

 俺はそっと彼女の頭を撫ぜた。君が悪くないと怒鳴ればいいんだろうか、苛立ちは心を炙る。炙って、炙って、熱をためて焦燥を沸かす。

「何があったかわからない俺は、早坂が悪いかなんてわからない。わからないなら、俺の中で早坂は悪者じゃない」

 言い切るしかない。俺は何もわからないのに、悪者にできないんだ。

「それじゃ、余計に言えないよ」

「それなら言わなくていい。」

 そういった瞬間、早坂は目を見開いた。見開いたその目が、縋るような寂しさで溢れていて思わず、俺は抱きしめた。歯がゆい、どうしようもできないことが、彼女を救えないことが歯がゆくて仕方がない。

 笑えなくていい。自分を自分で傷つけないでほしいと願うことは間違えているんだろうか?

「なんだっていい。早坂笑ってくれるなら、俺はなんだっていいんだよ。君が悪者でも、聖人でも構わない。なんでかわからないけど、幸せでいてほしいんだ」

 早坂は震えていた。震えて俺にしがみついて離せなくなっていた。

「なんで、……なんでそんな、私なんか、私の事なんか」

 泣きながら、自分の事を悪くいうのはどうしてなのか、傷ついてボロボロになってもそれでも自分を責めることをやめないのはどうしてなのか?

 俺にはわからないまま、否定することしかできない。

「……なんかじゃないよ。早坂は大事な人だよ」

 慰めって無力だ。

 悲しいほどに、俺じゃ救えない。

 人の救い方を教えてほしいと願っているのに、それを誰に教えてもらえばいいかわからない。だから、わかりようがない。


 奏でられる音楽室のピアノの音を聞きながら、彼女の手を握って黙って歩いた。

 空がすっかり闇に染まって、透き通るような漆黒が星を瞬かせている。こんなきれいな夜なのに、彼女は黙ってうつむいたままだ。

 気の利いたことは何一つ言えないし、望む言葉一つ察してあげられない。それなのに、なんだかたまらなくホッとしていた。

 言葉に意味がなくなったこの空間が、たまらなく落ち着く。

 俺は言葉が嫌いなんだ。何を伝えたところで、ほんの少しさえも人の心を動かすことはできなくて、無意味で怖くて誰かの逆鱗に触れることばかりに怯えて、本心を見失ってしまいそうだ。

誰かに本心を告げたところで求められていない言動なら否定されるだけで、俺を誰も必要としていない。自分という存在の意味を考えてしまう。いうべき言葉、空気に交じって否定されない言葉ばかりを探すようになって、自分が何を思っているかわからなくなってしまいそうだ。

「ありがとう」

 ふいに言葉にした彼女を見た。

 笑顔になっていた。ふわりと香る彼女の優しい香り、シャンプーだろうか? 彼女自身の香りだろうか?

「うれしかった。あなたがくれた言葉が本当に、うれしかった」

 頬を染め、幸せそうに笑う彼女を見て、ふわりと香る優しい香りが俺を優しく包む。

 それがあまりにも柔らかく包まれるような幸せを感じて少しだけ、泣きそうになった。春の生ぬるい風に包まれるように力が抜ける。

「えっ? なんで泣くの?」

 気が付いたら、溢れ零れていた。張りつめていた何がはじけたように今度は俺が泣いてしまう。早坂は急いでハンカチを差し出してくれる。俺はそれを早坂の手ごと掴んで離さないまま、涙を流し続ける。

「わからない、わからないけど。笑ってくれたから、なんかいっぱい、いっぱいになった」

「ごめんね」

「謝らないで。謝るぐらいなら、もっと自分を大事にして」

「ごめん」

「早坂が傷ついて傷つく人がいるのに、どうして早坂はそれが信じられないの?」

 いった瞬間、彼女は少し悲しそうに笑った。

「ありがとう」

 その言葉がどれだけ深い意味を持つか、その時の俺にはわからなかった。

 次の日、早坂は休んだ彼女が学校を休むのは初めてだった。誰に必要とされなくても、彼女は無表情でそこにい続けたから。

 日向にいるような感覚、教室の窓から見える雲が太陽を隠したり、見せつけたりして通り過ぎていく。そこには他意はない。悪意も、善意もない。

 そう、悪意も善意もないのに、とても光を閉ざすその雲が悲しかった。誰かと重ねているようで、俺は太陽が隠れるその瞬間が酷く悲しかった。

「調子悪いんで、早退します」

 鞄を持って、俺は教室を出た。昨日、帰り無理を行って彼女を家まで送った。だから道を知っている。

 けれど、彼女がそこにいないのはわかっていた。気を使ってばかりの彼女が家なんか見つかる場所にいるはずがない。学校を出た俺は当てもなく歩き出す。見つかるまで帰るもつもりはなかった。

 彼女の事は何一つ知らない。だけど探すしかない。見つからないように彼女は隠れているだろうから。

「楓」

 名前を呼ぶ声に振り返る。

「中田……」

 俺は気まずくなって視線を逸らす。そんな俺を少し笑って中田は言う。

「好きになったらしょうがないよな」

 思わずその言葉に、中田をみると優しく笑っていた。

「俺もそうだった。あいつのこと好きだったんだ。でも許せなくなっていつの間にか嫌いになっていた。自分が弱かっただけなのに」

 俺は何も言わずに、中田の頭を小突いた。

「偽善者はお前だろうが」

 中田は感情を押し殺すように、笑ってしまいそうになるほど情けない顔をした。

「……心配すんな、早坂はお前を許してる」

「それが、余計惨めだし、苦しむんだけどな」

「早坂はそれがわかってないよ。それがわかるほど、大人じゃないから」

 中田は言った。

「八坂の墓地。早坂はたぶんそこにいるよ。あいつの親友がいる場所だから」

 俺はそっと笑って中田に言う。

「ありがとう」

 そういって歩き出そうとした時、中田は怒鳴った。声が嗄れてしまうほどに言った。

「お前も、俺もあいつも、そんなに早く大人にならなくていいんだって思う! 大人にならなくてもいいんだ! じゃないと、……わがままを言えないまま、ずっと耐えなくちゃいけなくなる!」

 振り返った中田は泣いていた。それは純度の高い優しさだと、疑いようもなかった。

「お前もバカでいいよ! バカでいてくれ! 俺もバカでいるからさ!」

 そう叫んだら、中田は苦しそうに笑った。

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