「どうして、俺が母さん死んだのが悲しいってわかったの?」
早坂と保健室に移動して、緩くかかる暖房の前で暖まりながら早坂は言った。
「だって、悲しい顔してた。……笑ってたけど、悲しそうな顔だった」
「そっか……。気づいてくれて、ありがとう」
俺は彼女の手に自分の手をそっと重ねた。早坂は一瞬びくっと体を震わせて、手を振り払おうとした。けれど、俺はそれを許さなかった。
「今だけ。今だけ許して」
なんとも情けない願いだ。俺は弱さを盾にして彼女に無理やり手を握ってもらおうとしている。だって彼女は優しいから、他人を傷つけるのが嫌いだから。
思った通り、彼女は何も言わず手を握ってくれた。
「早坂って、不器用だね」
「……うるさいよ」
「ありがとう。本当に」
心が体のどこにあるかで討論したことがある。学校の授業だったと思う。
俺は、心は頭にあるって言ったけど今、心臓にあるって気がした。
心臓がビリビリ言うんだ。彼女に触れていたいと求めるように、離すなっていっぱい伝えてくれる。鼓動を鳴らして駄々をこねるみたいに、何度も、何度も、伝えるんだ。
「嫌だなぁ……」
自分の感情に自分の耐久性が付いていかないのが、辛い。心臓が苦しいのに、離れたくない。でもこのまま彼女と一緒にいると心がたくさん動いて、死んでしまいそうだ。
「早坂といると、心がどんどん動く。しんどいのに、幸せなのが余計、どうしていいかわからなくなる」
そうぼやくように言葉にすると、彼女は少し顔を赤くして困っていた。
「……そういうこと、言われると困る」
握った手に汗をかいてしまった。彼女が生きた表情をして困っているのが、すごくうれしくて握る手が熱くなった。
「プレゼント、見た?」
彼女は俯きながら顔をそらして首だけ動かした。
「……小説の『こころ』?」
「うん。包装あけてみてくれたんだ」
そんな小さなことがうれしくなった。けれど彼女は少しだけ困ったように長い髪を指でいじりながら言う。
「実は私、もう持ってるの」
「えっ?」
「有名な本だし、持っててもおかしくはないでしょ?」
本屋さんでなんとなく目に入った本の著者の名前をきちんと見てはいなかった。ただ『こころ』というタイトルに惹かれ、手に取った自分を責めたい。
「作者、吾輩は猫であるの夏目漱石って言ったらわかるかな?」
俺はあっけに取られて「ああ」としか言えなかった。
「作者は知ってても、書いてる本は知らなかった……」
ショックが大きいのか、呆然と呟いてうつむいてしまった俺の頭を軽く小突いて、彼女は笑っていった。
「もらってあげる」
「えっ?」
「だから、もらってあげるって」
彼女はそういうと、頬を染め嬉しそうに笑うんだ。泣きそうな顔で本を大事に抱きしめてうれしいというんだ。世界が、色めきだす。初めて息をした時みたいに、苦しみのあまり涙目になるほど、初めてこの瞳を開け、世界と見た時の様にすべてが美しく輝いてみえた。
「俺も同じの買ったんだ。だから俺も、『こころ』読んだら、感想話したい」
「一色は読んだことないの?」
俺はうっとりと彼女の生きた感情を見ながら、ないと答えるとまた嬉しそうに笑った。
「内容知らないで買ったの? すごい内容だよ」
この時間がずっと続けばいいのにと願わずにはいられない。
「俺、早坂とたくさん話したい」
彼女は困ったように笑いながら、うんとだけ言って悲しそうな顔をした。
優しい人は、きっといろんなものを自分の中で押し殺そうとするんだと思う。
彼女と話してみて、彼女の憂鬱そうな瞳がそう告げていた。
「早坂は、中学の時はどんな子だったの?」
俺たちは机を向かい合わせにして、お昼ご飯を食べている。隠そうともしない腕の傷が痛々しく、増えるばかりで彼女が普段なにを考えているのか気になった。
「うん、そうだね。偽善者だったかな?」
彼女の放つ言葉には、だくだくと血を流させるほどに深く突き刺さる棘がある。その棘を抜いてあげたいけれど、どこまで抜いてあげればいいかわからない。棘を抜くことで、彼女が痛みで死んでしまいそうで怖いんだ。
「偽善者?」
「綺麗ごとばっかりで、誰も守ってあげられない人のことかな」
……こういうことは、平然と言う人だった。
「俺にはわからない」
「だろうね」
そういって恥ずかしそうに笑う顔には、触れるとぼたぼた零れ落ちてくる泥がある。彼女から滴るどす黒い泥を俺は拭ってあげたいのに、そのやり方がわからないのだ。
「……それは悲しいことだった? 早坂にとって」
早坂は困ったように何も言わなくなる。
「早坂は、優しすぎて自分が壊れても何にも思わない人なのかもしれないね」
思ったことをそのまま口にすると、早坂は一瞬だけ泣きそうな顔をした。
「……自分を守ってあげられない優しさはただの自滅。私は、ただの死にたがり。優しいなんていう言葉すらもったいなくて使えないよ」
風が熱を帯び、日ごとに温かくなるのに。彼女の心は一向に冷めたままだった。彼女の髪をそっと指でどけて、表情を見ようとすると手を弾かれてキッと睨まれる。その怒った表情は建前と言わんばかりに情けない。弱々しい怒った表情。
彼女の俺を困らせたくないがために隠した泣きそうな感情が、彼女から表情を奪ってきたんじゃないかって思う。なんとなく俺は言葉を口にした。
「心って、早坂は何処にあると思う?」
「えっ? ……うーん、急に哲学的なこというのね」
早坂はその白く長い指で自分の顎に触れる。どこかの探偵が考え込むようなしぐさを取って俺を見た。
早坂の黒髪がさらりと肩から落ちる。その瞳の憂いに染まる漆黒がじっと様子をうかがう。その戸惑うような闇の色に吸い込まれそうになって俺は思わず息を飲んだ。なんでも度が過ぎると暴力的だ。彼女は綺麗だ。少しのしぐさで男女問わず骨抜きにしてしまうほどに、儚げで触れるとその完璧な美を崩してしまいそうで、怖くて触れなくなる。
中田が言っていた言葉を思い出す。
『あいつといると自分が嫌いになる』
彼女は美しすぎて、自分が醜く感じる。それは外見だけではない、精神的にも。まるで菩薩のように優しく、敏く周りに対してすごく気を遣う。それでいて全て知っていて、理解している上で受け入れようとする懐の広さ。自分以外の人間に圧倒的な劣等感を感じさせてしまう。そんな人なんだ、早坂は。
「普通に考えるなら、頭かな?」
「うん」
俺も素直にうなずく。そして彼女の目を見てそっと告げた。
「心って欲求な気がする。だから俺は心って一番望んでいることをしたい場所だと思うんだ」
そういうと、彼女は難しい顔をして考え込んだ。
「……本当に哲学な話だった」
「ごめんね。でもこういう話、俺は好きだよ」
そういって早坂の困った顔を見て笑う。早坂はそれを見て今日初めて柔らかくなんの他意のない純粋な笑顔を見せる。
「それって、例えばお腹がすいてたら、心は口にあるってこと?」
「そう」
俺はそういうとコンビニで買ったおにぎりを彼女の前に差し出した。
「今の俺にとって心は口。でも早坂は違うね」
俺は言葉にするのが怖いことを言った。けれど、それでも彼女には伝えたいことだった。
「君の心はいつも目にある気がする」
彼女はあっけにとられた顔で、笑って見せた。でも目が全然笑ってなくて、声だけが不自然なぐらい自然だった。
「本当に嘘が下手だな」
彼女はその言葉に視線を泳がせる。そして怒ったように声を低くした。
「……黙って」
「ごめん。急ぎすぎた」
泣きそうな彼女の表情が網膜に焼き付いている。彼女は人のためにしか涙を流せない。それが異常だってことに気づけない。いいや、気づいていて自分の心を放置し続けている。
「夏目漱石って、何を思って『こころ』を書いたんだろうね」
そうぼんやりと呟く俺の言葉を彼女はうつむきながら聞いていた。
ホームルームが終わり、放課後になった。鞄を肩にかけてぼんやりと目の前にいる中田に声をかける。
「中田はなんで中田なんだ?」
「はぁ?」
中田は目を丸くして素っ頓狂な声を上げて俺の前の席に着いた。
「いや、なんていうか。どうしてお前は中田で早坂じゃないんだろう?」
そういうと、中田は黙って頭を抱え込んだ。唸るような声を上げてから、中田は静かに言い放った。
「恋に現を抜かすと、頭がお花畑になるとはよく言ったもんだ」
中田は早坂に視線を向けて、ため息を吐いた。
「四六時中離れていたくないんだな? 男の友情なんてそんなもんだよなぁ。ああ、悲し!でもな」
中田はそういうと、俺に耳打ちするように言った。
「女は胸の大きさで価値が変わるんだぜ」
そういうと、俺は思いっきり中田の頭を殴った。
「……早坂をそういう目で見てんじゃねぇよ」
威圧的に言ったつもりはなかったが、中田は言葉を詰まらせながら、いじけて見せた。
「お前なんなんだよ、なんでそんなにあいつがいいの?」
中田は机に突っ伏して泣くふりをした。
「へいへい。そういうあざとい嘘泣きはいいから」
中田は鼻をふんとならして俺を睨んだ。
「お前、あんな女をよく好きになれるよな!」
俺は中田を睨む。あんな女といわれるようなそんな悪いことを彼女はしたというのか?
そういえば、早坂も言っていた。誰も私を許さないという意味。あれはどういうことなんだろう。
「……早坂ってなんかあったの?」
「お前、知らないであいつと関わってたの?」
そういって笑う中田の表情に毒があった。肌から沁みこんで心臓に注がれ、死に至るほどに追い詰めたいと願う悪意の塊。
彼女にはそう思われるほど、何か酷いことをしてしまったのだろうか?
それでも俺は彼女の口からそれを聞かないと気が済まなかった。
「……言わなくていい。早坂から聞くから」
「いいから! 聞けって!!」
中田は席を立とうとする俺の肩を思いっきりつかむと叫ぶように言った。
「人殺しなんだよ。あの女は」
そう聞いた瞬間、俺は中田を思いっきり殴り飛ばしていた。それでも中田は叫び続けた。
「親友を自殺に追い込んだんだ!」
頭に血が上ると、こうも簡単に人を傷つけることができるんだ。俺は中田を何度も何度も殴りつけた。
体がこんなに自然に動くのは、初めてだった。怒っているんだ。俺は、好きな女が人殺しだと罵られるほどの何かをしたのは事実かもしれないのに、怒りたかった。だって俺にとっては彼女の優しいところしか知らない。優しくされてしかいない。
それなのに、どうしてみんな彼女を悪くしか言わない。どうしてっていう疑問しか浮かばない。
「やめて!」
早坂はサンドバックにされる中田をかばうように間に入ってきた。弾みで早坂の頬を殴ってしまい、俺は一瞬で怒りが冷めた。
「ごめ……」
彼女の口からは血が流れている。痛そうに顔をしかめる彼女の唇を俺はハンカチで抑えた。
「本当にごめん」
俺は彼女の頬にそっと触れようとして拒絶される。
「気にすべきは私じゃない!」
そう怒鳴った瞬間、中田は早坂を見下すようにいう。
「お前っていっつもそうだよな。そんなに自分は良い人間だって思われたいのかよ? この偽善者が」
「お前……なんなの?」
言葉が粟立つ。煮え湯のような熱さが悪意として中田に降りかかる。こんなに怒りの混じった声初めて出た。
「私が悪いから。中田は悪くないから」
そういってうつむく彼女があまりにも可哀そうで、俺は中田を置いて早坂を支えながら立たせる。
「保健室、行こう」
「私はいいから」
俺は初めて早坂を睨んだ。その凄みに圧倒されたのか怯えたように早坂はうつむくと、俺に従った。
「楓、お前。後悔するぞ」
中田の負け犬の遠吠えが聞こえたが俺はどうでもよくなって睨みもしなかった。
「うるせぇよ」
小さい声で呟くようにいった俺の声は中田に聞こえたかわからなかった。