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第3話 優しくて痛い毒

「なぁ、中田」

「なんだよ」

 中田は俺にあきれながら答える。いつまでも熱っぽく早坂を見つめる俺に、げんなりとした返答が来た時、愛想をつかれそうだとぼんやりと思った。

今までこんなことはなかった。利用できる相手のことをおざなりにしたことなんてなかった。

 けれどそんなことはどうだっていいほどに、彼女のことを見つめるしかない。初めて感じた人に惹かれるという感覚に俺は酔いしれていた。

「好きな人ほどめちゃくちゃにしたいっていうのは、当たり前の感情なのか?」

 中田はふーんと興味なさそうに目をそらしたが、思いついたようにこちらを見てこう言った。

「それって性的な意味で?」

 俺は中田と思わず視線があう。考え方が、下卑ている。しかし、男はそういうものだと俺の本能が理解をする。

 自分のものでぐちゃぐちゃに汚して、息も絶え絶えにして犯して、汚してしまいたい。そういう欲がないわけではない。しかしそれで満たされる男もいないことを知っている。

 愛した上で、心を許した上でその行為は満たされる。そうじゃなきゃ意味はないのだ。

 心を許すとはなんだろう。よくわからない、理解できない。そう思うほど、俺は人と関わってこなかったのかもしれない。

 それが酷くみすぼらしく感じた。

「性的にも。なぁ、女の気を引くにはどうしたらいんだ?」

 そう聞いた自分の声が酷くつまらなさそうだった。

「人間の欲は大きく分けて三つある。睡眠欲、性欲、食欲」

 中田は自信満々に胸を張って言う。

「だから?」

「だから、それらを満たせばいいんだ!」

「つまり?」

「プレゼントをやればいい」

 俺は思わず噴き出した。全然関係ない。睡眠欲も性欲も食欲も、プレゼントと全く関係ない。けれど、俺はこういう中田のバカなところが嫌いじゃなかった。

「全然関係なくない? 人間の三大欲求」

「プレゼントだって欲求満たすだろ?」

 中田は相変わらず、バカにみたいに言う。鼻息荒く。よくそんな話の繋がらないことを言えたものだ。俺だったら恥ずかしくて赤面しそうだというのに。

「この三つの欲の何を満たすんだよ」

「性欲だよ、エロス」

 頭がおかしくてバカになりそうだ。プレゼントがどうして性欲につながるのかさっぱりわからない。俺は腹を抱えて笑い出した。

「笑うけどよ」

 中田は笑わずにいった。

「性欲は愛の欲、性行為は愛情を示す行為だぜ? 愛を感じるものはなんだって性欲だろ?」

 俺はその発言を聞いて、笑えなくなった。

「愛か。愛って何?」

 この問いかけは、皮肉そのものだった。愛と恋、その違いなんかは俺にとっては難問だ。歪んだ認識で、間違った愛の示し方で、それを理解する日は来るのだろうか?

 皮肉は自分に向けられた棘のように優しく突き刺さり、答えを出すまで血を流させ続ける。

「わからん。だってそういうのって、本能だろう」

 そういった中田があまりにも輝いて見えて、愛に手を伸ばす自分の焦燥に焼かれる思いだった。


 放課後、放たれる生徒たちが帰路に立つ。学校という束縛から解放されるその瞬間が、電線に乗ってさえずる鳥のように自由に感じてしまう。

 家路を急くわけでもない俺はぶらりと本屋に立ち寄った。彼女はなんとなく本が似合う気がする。静かな奴は本を読む、安直なイメージ。だから本というわけではない。

 彼女はいろんなことを見ているから、いろんなことを本当は知りたいんだと思う。

 女の気を引く。そういうあざといことを自分がすると思ってなかった。

「あざといなぁ」

 一人、呟く。自分を嘲笑うというよりも呆れてため息をつくように。だいたい本なんて人の好みだし。俺が選んだ本を喜んでもらえる保証なんてない。

 それなのに、選びたいと思っている自分がいる。自分が選んだものを彼女に知ってほしいと思っている。彼女のこと知りたいし、知ってほしいと思うのは興味なのか、何なのかわからないまま。

 ガラス戸の自動ドアが見えない熱気を含んで、俺の頬を温める。そうか、今気づいた。まだ春先で冷える季節だ。生ぬるい室内の空気で季節に気づくなんて、今まではなかったのに。

 彼女を思って本を探す時間は、何故だかとても楽しかった。


 次の朝、俺は学校に早めに来た。昨日本屋で二冊同じ本を買った。

 二人で同じものを見て、どういうことを感じてどういうところに共感するのだろうと、ふと思っての行動だった。

 店員さんにプレゼント用ですか? とふいに聞かれて、初めて本を誰かにプレゼントする人がいることを知った。俺ぐらいかと思って口ごもっていると、ご自宅用ですか? と再度声をかけられて俺はむず痒くなって言った。

「一つだけ、プレゼント包装で」

 そういうと、店員さんは少しだけ優しく微笑んだ。

 そんな恥ずかしい思いをしてようやく選べた本だ。もし彼女が俺の本を受け取ってくれるなら、話をするきっかけになる。

無表情だった彼女と繋がりを持てる気がした。

 桜が葉桜になろうと花弁を散らす。はらはら散る花びらに、新芽の緑色が色鮮やかに映えて、これはこれで美しいと目を奪う。

早坂を待つ俺が身勝手に抱く妄想だったが、彼女と桜はとても似合う気がした。

 薄いピンク色は輪郭がはっきりとした彼女を、柔らかい色合いで包んでくれる。それだけで孤立した印象の彼女が一人ではなくなる。淡い色彩が、狂おしいほどに彼女を華やかに引き立てて、彼女を寂しくさせない。

 静かな廊下に響く足音は一つだけ。突き当たりの音楽室から聞こえるピアノの曲は、名前は知らないが、聞いたことのあるメロディーを奏でてなんだか寂しい。

人目を忍んで聞かれることを拒むような、誰かの押し殺した泣き声のような旋律は、早朝ずっと誰にも届かない。

きっと誰にも知られないまま終わる。

それに共感めいた感情を抱けば、周りが過ごしずつ色めきだすようだ。

静かに耳を澄ませば、聞こえるのはピアノの音だけではない。風が校舎を吹き抜ける空気が壁を触る音、木々のざわめき、若葉の緑の香る匂い。夜に降った雨が土の匂いを運びここまで届けてくれる。

じりじりと暑くなる、日差しのぬくもりさえ今まで当たり前にあったのに。

 すごく変な感じだ。今までこんな当たり前のことを新鮮に感じることはなかった。それが心地よいと思ったことがない。なのに、どうしてか五感で触れる全てが心を動かしていく。

 ざわつく心が通電するように、心臓がドクドクと高鳴る。どうしてだろう。苦しいぐらいの高鳴りが嫌じゃないのは。

 教室まで歩く足が軽やかで、浮足たつ自分が恥ずかしい。それなのに心臓がうれしさを奏でる。

 横開きのドアに手をかけた瞬間、目にしてもいないのに彼女がいるとわかった。

 静かに呼吸を整える。なんだか鼓動がさっきよりも早くなったようだ。息が上がって苦しい。肺が酸素を懸命に回しているのがわかるぐらい、緊張している。

それなのに、こんなに苦しいのに早く彼女と話したかった。

ドアを開けると、彼女は相変わらずスマホの画面を凝視している。目に入った瞬間、時間が切り取られたように息を忘れる。彼女の美しさが帯びる憂鬱さが浸透して、自分が飲み込まれそうになった。

影を帯びた虚ろな表情の彼女を、振り向かせたい一心で俺は声を振り絞った。

「早坂」

 俺は緊張から顔の筋肉が引きつってしまい、出来上がったのは不格好な笑顔だった。

「……何、その顔」

 早坂は怪訝そうに眉をひそめて俺を見る。

「俺の顔、変?」

「笑顔、ひきつってる。そんなに無理して笑わなくていいよ」

 早坂は少しだけ優しそうに笑った。その瞬間、手が震えた。何故だかわからない。手がこわばって顔の筋肉が緩んで変な表情になった。

「あの、実は早坂にプレゼントがあるんだ」

 俺はそっと鞄の中を探り、プレゼントの袋を差し出した。

「俺、早坂の気を引きたくて。早坂の気を引きたいって中田に相談したら、物欲を満たしてあげたら喜んでくれるって教えてくれて」

 早坂は一瞬、びっくりしたように身を引いた。

「……そういうことって、本人には言わない方がいいんじゃない?」

「えっ……。そういうもんなの?」

 早坂は少しだけ頬を赤らめた。嬉しそうに緩む顔を無理やり引き締めるみたいに、頬が震えているのを見て、可愛いと素直に思った。

「早坂、照れてる?」

 俺は何が正解か、間違いかわからないので、とりあえず聞くことにする。早坂は頬をさらに赤らめて、どんどんとりんごのように赤くなる。

「……だから! そういうこと聞かないでよ!」

「ごめん。何が正しいのか俺、わからないんだ」

 俺は静かに外を見る。柔らかな日差しの熱が、体温と混ざる。春を知らせる生ぬるい風が自分とはあまりに違うもので、なんだか悲しい気持ちにさせる。

「あんた私より周りと上手くやれてるじゃない」

「いろんな人と関わってきたけど、ほとんどの人は言ってほしいことやされてうれしいことが手に取るようにわかった。でも、早坂はわからない。しぐさとか言動とかで読み取れない。なんでかな? 俺、バカになっちゃったのかな?」

 彼女はそういう俺の頬を思いきりつねると、俺を安心させるように優しく微笑んだ。

「ううん、バカじゃないよ。それだけ周りをよく見てるんだよ。私はわかりにくいから、私に対して思うことは何も間違いじゃない。あんたが私に対して感じたもの全部、正しいと思う」

 その話を聞いて俺はぼんやりと思った。彼女はいろんなことを理解している。理解していて世の中の理不尽なことにも理由をつけて、納得することで受け入れる術を知っている。それなのになぜ?

「早坂は、どうして自分を傷つけるの?」

 息をのむようにして、返答を待った。彼女は少し諦めたように笑っていった。

「……誰も私を許さないからよ」

 全てを諦めたような彼女の寂しい瞳は、心臓の血管に詰まり起こしたような激痛を走らせる。何か、声をかけなければ――。そう思うのに、言葉が出なかった。きっと、のれんに腕倒し。俺がかけるどんな言葉も意味をなさない。彼女にとって俺の存在は限りなく小さい。

 俺がどんな優しい言葉を言ったって、それはきっと俺じゃない人に言ってほしい言葉で、慰めにすらならない。俺じゃない。

もっと彼女の大事な人という認識入り込まないと、俺は無力なまま彼女を救うことはできない。

 何故だろうか? 好きな人を救いたいと思った時に、自らの存在の小ささを知るのは。好きな人の大事な人じゃない自分の言葉は、どうしてこんなにも軽いんだろう。

「……早坂。俺、君が好きだよ」

「うん、ありがとう」

 彼女は悲しそうに無理やり笑う。無理やり笑うその顔が、悔しくさせて悲しくなって無力さを俺に植え付けた。

「俺の今の好きは、付き合いたいって気持ちからじゃない。好きっていえば、早坂が少しだけでも自分を許せる気がしたから」

 そういうと、早坂は少しだけ驚いた顔をして俺を見た。まん丸な黒い瞳がきらりと光る。涙がこぼれそうなのに、彼女は泣かない。泣くことを許さない。唇をぐっと噛んで涙をこらえるその姿が痛々しくて、俺は話をそらした。

「……どうして、初めて話したとき泣いてくれたの?」

「それは……」

 彼女は言葉を濁す。ずっと不思議だった。彼女の涙の意味は俺にはわからない。

「……一色が、あんたが気づいてなかったのが悲しかったんだよ」

 俺はわからなくて、何が? と聞き返す。

「あんた、お母さんが死んで悲しかったって気づけないことが悲しかったんだよ」

「えっ……」

 一瞬、頭が真っ白になった。そして洪水のように思考が頭を支配する。

悲しい? 自分の感情なのに俺がそれに気づいていない? 

空が落ちてきたような感覚、今まで自分が信じていたものが空中で何度も回転して自分の認識が追い付かなくなる。酔うように、戸惑うように俺は動揺するしかなくなる。

わからない、どうなんだ? 悲しかった? それは俺にとって悲しいことだったのか? 認めようとすればするほど、息が苦しくなる。

 視界がぐらりと歪む。俺はひざを折り、座り込むしかなくなった。

「ちょっと、大丈夫?」

いつも無表情な早坂さえ、戸惑いを隠せないで苦しむ俺を気遣い、背中をさする。

「……過呼吸かな? ちょっと待って、袋」

 俺は彼女の手を離せなかった。

「……い、いか……ないで」

 息もできないで、絶え絶えに縋った。頭がふわふわと意識が遠くなる。自分の感じたことのない初めての症状に怖くなって彼女の手を握った。

「行かないで」

 彼女はそっと膝を折って俺と目線を合わせた。

「でも」

「いか……ない、で」

 早坂は心配そうに頷いた。

「俺、……母さんの、こと、悲しめてた?」

 呼吸を意識した。苦しさで潤む目で彼女を見ると、優しくうなずく。そして、俺の頭を撫ぜた。

「悲しいことを認めたら壊れてしまうほどには、ちゃんと悲しめてたんだよ」

 その言葉は、いともたやすく俺の心を決壊させる。認められなかった、認めたら壊れてしまう、それぐらい大事だった。

悲しいと今まで感じたことすらなかったのに、初めて悲しくて泣いた。つらかったんだろう、愛がわからないなりに母を失うことが悲しかった。本当は自分を責めるだけで父を責めない母の優しさを咎めていた。そして母に自分を守ってほしかった。本当は生きててほしかった。

 涙を流しながら、息の苦しさにもがく。彼女の制服がしわになってしまうほどに、ぎゅっと掴んで手足がしびれて離せない。早坂は覚悟したように息を吸う。

「……ごめんね、嫌かもしれないけど」

 ふいに彼女に唇を重ねられる。そして息を吹き込まれた時、過呼吸の発作を抑えようとしていることに気づいた。過呼吸は血液中の酸素濃度が高くなって起こる症状だと聞いたことがある。だから二酸化炭素である息を吹き込んでくれているんだ。

けれどそんなことはどうでもよかった。彼女の柔い唇に意識が行く。

この行為は治療だ、彼女を離さない俺を助けるための。彼女にとって何の感情もない。それなのに、心臓の音が鳴りやまない。

自分だけがこんなに意識している。自分だけがこんなに高ぶっている。彼女の唇は毒だ。強烈な毒が回るような痺れる感覚。鼓動以外音のしない静まり返る教室の中で、キスをした。彼女の柔い唇を何度も求めた。

 求めるキスに応える彼女の行動の意味を、頭の端で優しいという意味を初めて考えた。

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