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第2話 人に触れる幸せ

 静まり返った放課後の教室で彼女を見かけた。視線が奪われ、彼女にくぎ付けになる。聞こえるのは、自分の血が体を走る音だけ。駆け巡る血液の音と胸を叩く鼓動に、自分が緊張していることに気づく。手に汗をかく。少しだけ指先がしびれる。

 彼女はずっとスマホに視線を向けている。文字を打っている音はしない。彼女は画面をじっと見つめている。その視線はあまりにも悲しげで縋るような感情を映していた。

 初めてだ。こんな感情のある彼女を見るのは。その事実が、くすぶっていた欲求に火をつけた。

話したい、何を考えているのか知りたい。彼女は何が好きで、何が嫌いで、どんなことを想っているのか知りたくてたまらなくなった。

一度、火が付いた導火線は止まることを知らずに俺を突き動かした。

 足が勝手に動く。彼女に近づいていく。

声をかけようとした。けれど、言葉が出ない。彼女の画面を見つめて縋るような視線に声を奪われ、呼吸を忘れる。

 薄紅の桜の花弁が視界を埋め尽くす木々を後ろに、彼女の輪郭は何よりもはっきりしていた。まるで全ての美しいものが彼女を着飾るためだけにあるように、彼女の前では影をひそめる。

「……早坂、早坂スミレ」

 我に返って、彼女を呼んだ。

 彼女は俺の方に振りむいて俺を見ると、警戒するように後ろに下がり、距離を置いた。

それに少しのショックを受けながら、俺は彼女と視線をあわせた。瞬間、触れるなとでも言いたげなきつい拒絶の視線を向けられる。

「なに?」

 彼女は美しい顔を歪ませて、棘のついたバラのように全身で威嚇する。その態度が焼け付いた石に触れたように痛く感じた。

触れたいのに触れられない。苛立ちが俺の焦燥を掻き立てる。

「何見てたの?」

「別に」

そういった彼女の瞳が少しだけ潤んだ。その表情さえ頭を惚けさせてしまうほどに、物憂げな美しさを秘めている。日陰の花とでもいおうか、薄暗い華やかさ。紺の浴衣に描かれている牡丹のような艶やかさ。

「なんで睨むの?」

「あんたが嫌いだから」

 間髪入れずに、言われた言葉に唖然としながら答えた。

「どうして?」

 俺は疑問を投げかけると、また彼女は俺に対して距離を取った。

「あんたが人を人として見ていないから。あんたが周りを見る目、どんなのか知ってる? 生ごみを汚い、汚いって摘んで捨てるときみたいな顔してる」

 そういわれた瞬間、自分が彼女の目にどう映っていたか気づいてしまった。彼女の言うように目は口ほどに物をいう。彼女は俺が異常者だと気づいている。

 またあの時の笑っている顔の皮膚の感触が、心を貫くようだった。

優しさなんか知らずに育った薄情者だと、自分など取るに足らない存在だと、そう見られていたことが悲しくなった。そしてその恥が熱を持ち、耳の血が巡る音まで聞こえるほど赤面させる。

怖いと思っているのかもしれない。どうしてかわからないが、嫌われたくない。

「……俺のこと嫌い?」

「うん」

「……どうすれば、好きになってもらえる?」

 自分でも意外な言葉を口にしてしまって驚き、視線をそらした。何を言っているんだろう、好きになるのか聞いてどうするつもりなんだ? 思考と言葉と態度がかみ合わない。全部バラバラだ。

 彼女もあっけにとられたような顔をして、固まっている。

「好きになられてどうするの?」

「嫌われたくない。早坂の本心を見てみたいから仲良くなりたい」

 俺は嘘偽る術を持たない。だからこそ、ストレートな言動で伝えるしかない。彼女の生きた感情をただただ、見てみたかった。

「そう。じゃ、暴力で従わせたらいい。みんなにそうしてるように」

 肌に侵蝕する冷たい視線、この子は俺を軽蔑している。

「ううん。殴らない」

 俺はまっすぐ見据えた。

「早坂は俺が今殴っても何も思わないし、傷つかない。君はきっと俺も何も見てない」

 早坂はそう言い切った俺を見て、少しだけ驚いた顔をして舌打ちした。

「……あんた、何がしたいかわからない」

 俺は少し自傷するように笑う。

「君が笑顔になれないように俺だってわからないんだ。自分の事が」

 早坂は睨みつけるようにして俺の言葉を待ってくれている。俺は頬がほころび破顔してしまいそうになった。けれど、自分の笑顔を見られたくなくて、無理やり早坂の顔を両手で隠した。

俺は彼女を殴る想像をしてみた。心が痛いと思うのと同時に、彼女が自分に向ける感情に本当が混ざっている気がして、笑顔がこぼれる。自分の中にはおぞましい加虐心にまみれた化け物が誰かを傷つけようと笑っている。

「早坂は、誰かを殺したいほど憎んだことがある?」

 早坂は驚いて手のひらを振り払おうとしたけど、すかさず俺は言い放った。

「そのまま、聞いて」

 何かを察したように早坂はおとなしく振り払おうとしていた手を下げた。

「大事な人が自分のせいで死んで、俺は自分が何を感じて何を求めているかわからなくなった。目の前で母さんが飛び降りたのを見たんだ。母さんの遺体を見た時、自分がどんな顔をしているかわからなくて手のひらで触れてみた。俺ね、……笑ってたんだ。それから俺は自分の感情がわからなくなった」

早坂の顔が冷たくなるのを感じた。いいや。たぶん、俺の手が冷たいんだ。震えるこの手はきっと喜びも悲しみも知らないまま、処理しきれない感情に押しつぶされて震えている。

「……何を思って、何を感じて、何を嫌って、何を好んでいるか、わからなくなった。でも、もしかして俺は――早坂が好きなのかもしれない」

 探し物を見つけたように、静かに舞い降りた答えがすとんと心になじむ。初めて自分の感情が分かった気がした。それでも。

「それもはっきりとはわからないけど」

 そういって俺は早坂を見た。

 そっと手をどけてみる。時間がやけにゆっくりと流れていく。彼女の頬をするりと撫でるように滑っていくのは、温かい雫。涙とわかって、手を離す。

彼女の頬に温かい涙が流れている。光を反射するように涙がキラキラと光り、滴っていく。彼女の頬から手を離すことができない。俺は彼女の涙をぬぐう。

狂おしいと感じるほどに熱痒く心が熟れる。何か切羽詰まるような感情が、衝動が、抱きすくめたいほどの愛おしさを訴える。どうしてかわからないと頭を抱えて悩んでしまいそうなほど、彼女の全てに惹かれる。

 心地いいと思ったのは、初めてだった。他人が肌になじむ。この手のひらに、まるで求めていた自分の一部を取り込むような、当たり前で強烈な感覚。

「なんで泣いてるの?」

「……あんたが、バカだからわからないのよ」

 返答が尖っている。けれど、彼女に感じたその感情が強烈な引力を秘めていることを認めるしかない。

他人を、彼女を、初めて人に触れることを幸せだと感じた。


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