人生はギャンブルだ。
産まれてくる環境は選べない。もし少し何かが違っていたら、変わっていたかもしれないと何度も過去を振り返る。けれど頭の中で何度やり直したとしても、結局その時の自分が取れる選択肢なんて限られるのが現実。
脳内で何度もやり直した人生は、結局同じ結末を辿り、どうしようもないこともあるんだと諦めるしかなかった。
母はアルコール中毒の父に逆らえなかった。
父の憂さ晴らしに殴られると、母は決まってごめんなさいと笑う。それは泣くと余計殴られるからで、心からの笑いではない。
「いつもへらへら笑って幸せそうでいいなぁ」
父はそういって母を風呂場の水の張った湯舟に連れていき、沈めるのだ。毎度のルーティーン。だから母は言う。
幼い俺に「部屋の奥に行ってなさい」と。
あとは恐怖に震えて朝を待つのだ。母が泣きながら「やめて」と懇願する声が響く。耳障りな叫び声が恐怖心に火をつける。自分は関係ない、自分には父の悪意が向かない。そう言い聞かせて、耳を塞いで時間が過ぎるのを待つ。
一秒一秒を、どれだけありがたいと思っただろう。
過去の一秒が過ぎる度、その一秒の間に自分じゃなく、父の怒りが母に向いていることに感謝した。自分に対する強すぎる愛と、母に対する感謝だけがそこにあった。
それが俺の日常で、その当たり前が自分の中ですくすくと異端の種を育てていることに気づけなかった。
家庭という小さな社会で、誰かを傷つけることが当たり前だと勝手に悟った。他の母親も同じように殴られている。父親は母親を殴るものだと、ぼんやりとそんな歪んだ認識があった。そしてそれを当たり前の現実として信じることに救われていた。
きっと今、俺と笑っている友達だって、家では俺と同じように父親に殴られることに怯え、布団をかぶって朝が来ることを祈っていると思い込んでいた。
きっとそうでなければ、俺は壊れていたと思う。
常識や普通という枠の中に、そう思い込むことでなんとかしがみついていた。
本当は内心わかっていたと思う。絵に描いたような幸せな家族は確かに実在して、ドラマのように母を大事にする父が当たり前にいるということを。
心の中の歯車は、事実と虚構が混ざることでかみ合わなくなっていく。だから、仕方がなかったんだと思う。嘘で固めた認識の歪みが、俺を普通からはじき出したのは。
小学五年生の夏、マンションの屋上に立って笑っている母の姿。「おかえり」と何ら変わらない笑顔で手を振っている。だから母が笑顔のまま、その手すりを乗り越えるなんて思わなかった。瞬時に様子がおかしいことを悟り、声を出さなければと体に力が入った。
「おかあ……」
その刹那、母は何のためらいも見せず手すりを飛び越えた。
呆然とする頭の中で、出せなかった声が反響するように鈍く響いた。母の体が反転し、頭が下を向いて、墜落していく。植えてあった木に引っかかり、頭から直撃は免れたけれど、高さがあり、木も命が助かるほどのクッションにはならなかった。
水風船。
夏に公園で水風船を投げあって遊んだことがある。母は水風船がアスファルトに落ちて砕けた時みたいに、赤い飛沫をあげて砕けた。砕けたような赤い血と、変に折れ曲がった体が、記憶の中にある母と同じだと思えなかった。生きているとすら思えない有様だった。この突出した白いものは、骨?
それなら、この赤黒いものはなに? かろうじて人の形を保っている母の姿は、それでも壊された人形のように歪で、人体のどこが如何なっているのか、はっきりとわからない。
壊れた人間を見るのは、初めてで気持ち悪いはずだった。
それなのに感じたのは、全く別のもの。血の気が引くどころか、血圧が上がり、轟々と耳の血流が流れ出す音に戦慄する。細胞の一つ一つが騒ぎ立てて、声を出して喚起するような……。この感覚はなんだ?
「……み……ゃ……、だ……」
母は呻き、吐息を漏らす。
声になりきらない吐息が声だったと自覚した瞬間、何を言ったのか気づいた。「見ちゃだめ」
うなだれるような赤い塊は、痙攣を繰り返し、止まることのない出血とともに命が垂れ流れていく。なんでこんなに激しく痙攣を繰り返しているのに、どうして息は弱まっていくのだろう? 動と静の狭間で命が削り取られていく。
血が染み出て、あふれ出して。これはなんなんだろう。もう人間に見えない。
そのうち、母だったものは乾いた笑いのような声を出し、電池の切れたおもちゃみたいに動かなくなった。
人が死ぬときに出す叫びが断末魔だと聞いたことがある。これがそうか? それにしてはあまりにも弱く、悲痛さは感じない。
それより感じたのは、生きることへの皮肉めいた――。乾いた嘲笑。
血だまりに沈む折れ曲がった腕を見て、痙攣しながら血のあぶくがあふれるのを眺めて、血の気が失せ、土気色に変色する肌を間近で感じながら、血だまりの母に触れてみる。またあったかい。これが命だったものかと冷めた心で向き合った瞬間、鳥肌が立った。
あれだけ尊いとのたまわれる命の灯は、高いところに落ちただけで、電車に飛び出しただけで、首を吊っただけで、簡単に費えるのだ。ふぅっと息を吹きかけただけで、簡単に終わってしまう命に向き合って、その最後の瞬間に立ち会えたのだと思えば、体中が震えてしかたなかった。
息が上がる。怖がっているんだ。きっとそうだ。脳が興奮しているのは、手のひらが震えるのは、息が上がって声が少しうわずって呻くのは。
ちゃんと恐怖なんだと言い聞かせた。そうだ、きっとそうなんだ。
夏の木漏れ日の下で、セミの声が遠のいていく。スニーカーのつま先が血で濡れた時、俺は思わず蹲った。
悲しみでも、気持ち悪さでもない、わからない感情が心の中に蔓延って少しずつ、歯車を狂わせていく感覚。吐くでも泣くでもなく、体の奥で熱痒く、蠢く気味の悪い理解できない感情。
自分の異常性を自覚した幼い頃のろくでもない記憶。
俺はそこから、人とまともに関われなくなった。幼い頃は活発で誰とでも仲良く遊べた少年だった俺は、そこから塞ぎがちになり、自分以外の人を見るたび、こいつも、こいつも、壊せばみんな母と同じようになるのだと、壊れる瞬間ばかりを想像するようになった。
あの母の遺体の、ぬめった肉の感触だけが忘れられないほど、自身にこびりついていた。それは年を増すほど粘着質にへばりついて離れようもなくなって、一種の呪いのようになっていく。
俺はあの瞬間、どこか壊れてしまっていたのかもしれない。父が俺を支えきれなくなり、黙ったまま泣いてばかりの俺につい口をついた言葉がある。
「いっそ、死んでくれたらいいのになぁ」
そういった父を責めるつもりは全くなかった。自分さえ思うのだから、周りが思っても仕方がない。そのはずなのに、父が俺の顔を見て堰を切ったように泣き出し「ごめん、本当はそんなこと思ってないから」と抱き着いた。ぎゅうぎゅうと締め付けられる父の体温がうざったく感じ、どうしてそんなに動揺し、声を荒げて泣くのか俺は理解していなかった。
「泣かないでくれ。俺は父親失格なんだ。俺が悪いんだ」
そういわれた時、初めて自覚した。そっと自分の顔を指でなぞってみる。ああ。納得したように漏れた声の無感情さ。
人間という枠から急に弾き出されて、怯えるのと同時にもう自分は自分にしかなれないことを悟った。偽っても無駄だ。そっと触れる自分の顔は、確かに笑っていたんだ。
自分を成す土台が腐っていれば、あとは転がり落ちていくのは簡単だった。
誰かを傷つけることにためらいをなくし、俺は自分と自分以外を大きく差別するようになった。
隠れて煙草を吸い、気に入らないやつを片っ端から殴った。
思春期特有のどうしようもない衝動、破壊と暴力だけが自分を癒していた。突き動かされるままに誰かをいたぶるのが好きになった。
誰かの苦痛で歪む顔を、父と重ねていた。
父を殴っているつもりで、気に入らない誰かをとことん痛めつけた。八つ当たりのようで、こんなのは八つ当たりにもならない。ただ父と同じ暴力でしかなかった。
母がマンションから飛び降り自殺した日のことが、フラッシュバックして何度も吐いた。あんなに苦しんで生きた母の選択肢が、これほどまでにあっけなく、それでいて残酷に終わってしまうことが何よりも苦しい。死を思うたび、湧き上がるのは自分と父への憎悪だった。
本当は知っていた。
俺が本気で殴りたいのは、自分自身だと。
そんな荒れた学生時代を送った俺を嫌悪する奴も確かにいた。それでも仲のいい友達は多かった。いろんな経験をし、冷めた目で人を見つめるうちに、いつの間にか人の真意が見えるようになっていた。
人格に癖づいた嗜好や、言動から読み取れる欲しい言葉が手に取るように分かった。……たぶん、俺は人に嘘をつくことが得意になっていたのだ。
嘘で繕い、誰かを操った気になっていた。本当の自分なんか誰かに知ってほしいとすら思わない。斜に構えて世界を見て、つまらないと嘆くまま自分を嫌って死んでいくと思っていた。
似通った人生を似通った人が同じように生きて死んでいく。
このまま誰の事も大して好きになることはなく、誰の事も自分の事でさえ嫌いなまま、なんとなく母のように死を迎えると思っていた。
周りの人間はつまらないほどに従順で、まるで機械のようだ。誰もが意思のない操り人形のようで、それが何よりも孤独で苦痛だった。
クラスに上下関係が出来上がった頃に、俺はスクールカースト上位にいた。クラスのリーダー的な立ち位置で、みんな俺に従ってくれるようになった。
何事も順調だと思っていた。自分のつまらない人生はつまらないまま、レールにそって行動のまま正しく進んでいく。
だからだろうか? いつも一人でいる彼女の不器用な生きざまが鼻についたのは。
クラスに一人はいる誰とも話したがらない暗い奴。彼女は心に闇でも抱えていそうな女で、腕にはリストカットの痕が魚の鱗のように無数に広がっている。固そうなかさぶたが、唯一の彼女の盾のように感じた。
柔らかな白く美しい皮膚を鱗のようなかさぶたが守っている。柔い皮膚を隠すように幾度も重なるかさぶたは、彼女の弱さを露呈している。
彼女から強烈に漏れ出す孤独な匂いと共に、可哀想なほど繊細で臆病で、そして相手を傷つけられない人の匂いがしたのだ。
無表情で何も傷ついてないような顔をしながら、彼女は気丈にふるまってはいても、本心はきっとたまらない寂しさ抱えている。
それは母に酷似して、向けられた悪意を上手く処理できず、悪意を向けられて押し付けられ捨てられていく。人の形をしたゴミ箱だった。
始めは興味。隠されると暴きたくなる、そんな好奇心からだった。
「早坂、おはよう」
興味を持ちだしてから凝視するように彼女を観察し、声をかけるようになった。
彼女と言葉をかわせば、あるいは彼女の反応を見れば、何か理解できるかもしれないと思った。早坂はその美しい無表情を崩しはしないで頭だけ少し下げて、何事もないように去っていく。
観察を重ねれば、彼女が母とは明確に違うことが分かった。彼女はどこか破滅的で、望んで人の悪意のはけ口になっている。
悪意に押しつぶされそうというよりも、悪意をかき集めて、自分の中の罪悪感をごまかそうとしているように見えた。
そして、彼女は十六年、生きてきて他に類を見ないほどに美しく、触るのも躊躇うほどに独特な雰囲気をまとう。
近づくだけでその色香にめまいを起こし、背筋から這い上がるような神聖さに言葉を奪われる。神様みたいに恐ろしく、絵画のように普遍的でひどく見ていて心が痛い。
彼女の表情は、いじめられていても殴られていても変わることはなかった。
それどころか、彼女はその場を支配してしまう圧倒的な存在感があった。かけられた滴る泥水さえも、彼女の髪を濡らしただけで、いとも簡単に視線を奪う装飾品に変えてしまう。
絶対的な正しさと暴力的な美しさで彼女は、人に簡単に罪悪感を与え、遠ざけてしまう。
彼女の陰鬱でわずかな光を宿している瞳に魅入られる。痛みさえ感じるほどにビリビリと痺れるような感覚で脳の端が白む。
彼女は次第に嫌煙され、遠巻きに見られるようになっていった。
一人きりになった夕焼けの教室で彼女を見た。焦げ付くような影と光をまといながら、長く伸びるまつ毛が影を落とす。そこだけが凛とした緊張感をもたらして、静かにうろたえる自分がいる。
自分とは違う生き物だ。俺とは違う、神獣のような気高さが疎ましい。
「早坂ってさ」
彼女を眺めながらクラスメイトの中田に声をかけた。机に肘をつきながらいつものように憂鬱にため息を吐いた。中田はそんな俺を見てにやつく。
「なんだよ。恋か?」
「そんなんじゃない」
慌てるわけでもなく、ただ違うと思った。頬に熱がこもるのも、指先が震え怯えてしまうのも。彼女の存在がわからなく、混乱させるからだ。まるで言い訳のように頭の中で繰り返した。それを見て呆れたようにため息をつく中田を見て、少し奴のすねを蹴った。
「……った! たく、めんどくせぇな。まぁ……、あいつ綺麗だもんな」
いつも軽口を叩く中田から見たこともないような暗い表情が浮かんだ。一瞬、驚いで目を丸くした俺に気づき、中田はため息をついてから諦めたように笑う。
「綺麗だけど、俺はあいつが嫌いだよ」
「なんで?」
どろどろに煮詰まった陰鬱な空気。普段の明るい中田からそんな陰鬱さが漏れ出してぎょっとする。
「あいつといると、自分が嫌いになるから」
そうぼやいた中田の口元が、痙攣しているように震えているのが印象的だった。
「……大丈夫。恋とかじゃない」
俺はもう一度、言い聞かせるようにしてまた彼女を見た。
「あいつの泣いたところを、見てみたいだけなんだ」
無意識に彼女と話がしたいと思うようになった。彼女と言葉を交わしたい。彼女の本当を見てみたい、そう願うようになった。
彼女の生きた感情をぶつけられたいと願う一方で、どうしてそうされたいのかの答えが見つからない。それなのに、彼女と言葉を交わすその瞬間は意外にも早く訪れた。