彼女と廊下ですれ違った時、ふわりと香った匂いに息をするのを忘れた。
憂いに染まるその瞳の陰鬱な光が何故だかひどく懐かしく、それでいて彼女の香る孤独の匂いに心を奪われた。
暗闇の中に唯一輝く月のように、一瞬にして誰もが彼女を見つめる。まるで聖域のような神聖さと鋭く尖るような雰囲気に、誰も近づけも触れられもしないくせに彼女はとても人を惹きつける。
まるで神様みたいだった。
全ての美しいものは彼女の前では、息をひそめる。
水に溶ける絵の具のように、夜の闇に溶かされる海のように。全てに見放された人間が最期に見せるような空虚で覇気のない表情、陰りのある瞳はどこまでも闇深く、それでいて何処までも悲しい光をたたえていた。
彼女はその存在自体が美術品のようだった。きっと神様は、彼女から人間らしい感情を奪う代わりに、美しさを瞬間的に凍らせて彼女の時を止めてしまったとさえ思った。
いつも静止画のように表情を変えない。どれだけの時間を見つめてどれだけの時間を彼女に費やしても、ついに彼女の生きた表情を見ることはできなかった。
緑の黒髪、光を吸い込んで閉じ込めたようなまばゆい白い肌、茶色がかった瞳の中で何を思い、何を嘆き、何に苦しんで彼女はその表情を凍らせてしまったのだろう。
背景の見えない彼女の生い立ちを、彼女の思考の一部を、どうしても知りたいと思った。
それがどれだけの苦しみを産んだとしても、俺は彼女を知りたいと思った。
人生はギャンブルだ。
産まれてくる環境は選べない。もし少し何かが違っていたら、変わっていたかもしれないと何度も過去を振り返る。けれど頭の中で何度やり直したとしても、結局その時の自分が取れる選択肢なんて限られるのが現実。
脳内で何度もやり直した人生は、結局同じ結末を辿り、どうしようもないこともあるんだと諦めるしかなかった。
母はアルコール中毒の父に逆らえなかった。
父の憂さ晴らしに殴られると、母は決まってごめんなさいと笑う。それは泣くと余計殴られるからで、心からの笑いではない。
「いつもへらへら笑って幸せそうでいいなぁ」
父はそういって母を風呂場の水の張った湯舟に連れていき、沈めるのだ。毎度のルーティーン。だから母は言う。
幼い俺に「部屋の奥に行ってなさい」と。
あとは恐怖に震えて朝を待つのだ。母が泣きながら「やめて」と懇願する声が響く。耳障りな叫び声が恐怖心に火をつける。自分は関係ない、自分には父の悪意が向かない。そう言い聞かせて、耳を塞いで時間が過ぎるのを待つ。
一秒一秒を、どれだけありがたいと思っただろう。
過去の一秒が過ぎる度、その一秒の間に自分じゃなく、父の怒りが母に向いていることに感謝した。自分に対する強すぎる愛と、母に対する感謝だけがそこにあった。
それが俺の日常で、その当たり前が自分の中ですくすくと異端の種を育てていることに気づけなかった。
家庭という小さな社会で、誰かを傷つけることが当たり前だと勝手に悟った。他の母親も同じように殴られている。父親は母親を殴るものだと、ぼんやりとそんな歪んだ認識があった。そしてそれを当たり前の現実として信じることに救われていた。
きっと今、俺と笑っている友達だって、家では俺と同じように父親に殴られることに怯え、布団をかぶって朝が来ることを祈っていると思い込んでいた。
きっとそうでなければ、俺は壊れていたと思う。
常識や普通という枠の中に、そう思い込むことでなんとかしがみついていた。
本当は内心わかっていたと思う。絵に描いたような幸せな家族は確かに実在して、ドラマのように母を大事にする父が当たり前にいるということを。
心の中の歯車は、事実と虚構が混ざることでかみ合わなくなっていく。だから、仕方がなかったんだと思う。嘘で固めた認識の歪みが、俺を普通からはじき出したのは。
最初は、小学生の他愛のないじゃれ合いだった。
俺は少し調子に乗ってしまっただけなんだ。
はしゃいでいるこの時間が永遠に続くことを祈っていた。家に帰りたくないなんて、そんなことを考えて父親の顔が脳裏をよぎる。反射的に沸き立ったのは、憎悪。目の前に幻覚として浮かんだ父を消したくて、友達の鼻の穴に鉛筆を刺した。深く力いっぱい差し込んで俺は屈託もなく笑って、脳の端で今の自分の行動を顧みた。
冷たい汗が額を伝う。
友達は痛みで声が出せないのか、滴る血をみて痛みの走る鼻を抑えながら、俺を見た。
俺は未だに友達のその時の目が忘れられない。
汚物を見る目。蔑みと恐怖と驚きと、苦いような味が口に広がる。気が付いたら耐え切れなくなった俺は口の中を噛んでいた。苦く感じたのは自分の血。
友達は身を裂くような冷たく痛い視線を向けて俺を睨んだ。
しっかりと回らない頭の中で、わかっていたはずの疑問ばかりが浮かんでいた。でもそれ以上に向けられたその目には、友情が一瞬にしてゴミになる、そんな汚い感情が映っていた。空の青色と滲んだ赤色が混ざり合う夕焼けの不安な色。
友達の次の言葉に怯える。
高鳴る心臓が「言わないでくれ」を拒否するように胸の内側を叩く。グラグラと視界が揺れ、浮遊するような気持ち悪さと、吐き気に似た感情が混ざった瞬間、そいつが放ったたった一言に俺は固定された。
「異常者」
心に突き刺さるような怯えと汚物を見つめるその視線は、紛れもなく俺に向けられていて、その声が耳の中で残響する。
強い力で弾かれたのだ、俺は。
人間という枠から急に弾き出されて、怯えるのと同時にもう自分は自分にしかなれないことを悟った。偽っても無駄だ。そっと触れる自分の顔は、確かに笑っていたんだ。
自分を成す土台が腐っていれば、あとは転がり落ちていくのは簡単だった。
誰かを傷つけることにためらいをなくし、俺は自分と自分以外を大きく差別するようになった。
隠れて煙草を吸い、気に入らないやつを片っ端から殴った。
思春期特有のどうしようもない衝動、破壊と暴力だけが自分を癒していた。突き動かされるままに誰かをいたぶるのが好きになった。
誰かの苦痛で歪む顔を、父と重ねていた。
父を殴っているつもりで、気に入らない誰かをとことん痛めつけた。八つ当たりのようで、こんなのは八つ当たりにもならない。ただ父と同じ暴力でしかなかった。
母がマンションから飛び降り自殺した日のことが、フラッシュバックして何度も吐いた。あんなに苦しんで生きた母の選択肢が、これほどまでにあっけなく、それでいて残酷に終わってしまうことが何よりも苦しい。死を思うたび、湧き上がるのは自分と父への憎悪だった。
本当は知っていた。
俺が本気で殴りたいのは、自分自身だと。
そんな荒れた学生時代を送った俺を嫌悪する奴も確かにいた。それでも仲のいい友達は多かった。いろんな経験をし、冷めた目で人を見つめるうちに、いつの間にか人の真意が見えるようになっていた。
人格に癖づいた嗜好や、言動から読み取れる欲しい言葉が手に取るように分かった。……たぶん、俺は人に嘘をつくことが得意になっていたのだ。
嘘で繕い、誰かを操った気になっていた。本当の自分なんか誰かに知ってほしいとすら思わない。斜に構えて世界を見て、つまらないと嘆くまま自分を嫌って死んでいくと思っていた。
似通った人生を似通った人が同じように生きて死んでいく。
このまま誰の事も大して好きになることはなく、誰の事も自分の事でさえ嫌いなまま、なんとなく母のように死を迎えると思っていた。
周りの人間はつまらないほどに従順で、まるで機械のようだ。誰もが意思のない操り人形のようで、それが何よりも孤独で苦痛だった。
クラスに上下関係が出来上がった頃に、俺はスクールカースト上位にいた。クラスのリーダー的な立ち位置で、みんな俺に従ってくれるようになった。
何事も順調だと思っていた。自分のつまらない人生はつまらないまま、レールにそって行動のまま正しく進んでいく。
だからだろうか? いつも一人でいる彼女の不器用な生きざまが鼻についたのは。
クラスに一人はいる誰とも話したがらない暗い奴。彼女は心に闇でも抱えていそうな女で、腕にはリストカットの痕が魚の鱗のように無数に広がっている。固そうなかさぶたが、唯一の彼女の盾のように感じた。
柔らかな白く美しい皮膚を鱗のようなかさぶたが守っている。柔い皮膚を隠すように幾度も重なるかさぶたは、彼女の弱さを露呈している。
彼女から強烈に漏れ出す孤独な匂いと共に、可哀想なほど繊細で臆病で、そして相手を傷つけられない人の匂いがしたのだ。
無表情で何も傷ついてないような顔をしながら、彼女は気丈にふるまってはいても、本心はきっとたまらない寂しさ抱えている。
それは母に酷似して、向けられた悪意を上手く処理できず、悪意を向けられて押し付けられ捨てられていく。人の形をしたゴミ箱だった。
始めは興味。隠されると暴きたくなる、そんな好奇心からだった。
「早坂、おはよう」
興味を持ちだしてから凝視するように彼女を観察し、声をかけるようになった。
彼女と言葉をかわせば、あるいは彼女の反応を見れば、何か理解できるかもしれないと思った。早坂はその美しい無表情を崩しはしないで頭だけ少し下げて、何事もないように去っていく。
観察を重ねれば、彼女が母とは明確に違うことが分かった。彼女はどこか破滅的で、望んで人の悪意のはけ口になっている。
悪意に押しつぶされそうというよりも、悪意をかき集めて、自分の中の罪悪感をごまかそうとしているように見えた。
そして、彼女は十六年、生きてきて他に類を見ないほどに美しく、触るのも躊躇うほどに独特な雰囲気をまとう。
近づくだけでその色香にめまいを起こし、背筋から這い上がるような神聖さに言葉を奪われる。神様みたいに恐ろしく、絵画のように普遍的でひどく見ていて心が痛い。
彼女の表情は、いじめられていても殴られていても変わることはなかった。
それどころか、彼女はその場を支配してしまう圧倒的な存在感があった。かけられた滴る泥水さえも、彼女の髪を濡らしただけで、いとも簡単に視線を奪う装飾品に変えてしまう。
絶対的な正しさと暴力的な美しさで彼女は、人に簡単に罪悪感を与え、遠ざけてしまう。
彼女の陰鬱でわずかな光を宿している瞳に魅入られる。痛みさえ感じるほどにビリビリと痺れるような感覚で脳の端が白む。
彼女は次第に嫌煙され、遠巻きに見られるようになっていった。
一人きりになった夕焼けの教室で彼女を見た。焦げ付くような影と光をまといながら、長く伸びるまつ毛が影を落とす。そこだけが凛とした緊張感をもたらして、静かにうろたえる自分がいる。
自分とは違う生き物だ。俺とは違う、神獣のような気高さが疎ましい。
「早坂ってさ」
彼女を眺めながらクラスメイトの中田に声をかけた。机に肘をつきながらいつものように憂鬱にため息を吐いた。中田はそんな俺を見てにやつく。
「なんだよ。恋か?」
「そんなんじゃない」
慌てるわけでもなく、ただ違うと思った。頬に熱がこもるのも、指先が震え怯えてしまうのも。彼女の存在がわからなく、混乱させるからだ。まるで言い訳のように頭の中で繰り返した。それを見て呆れたようにため息をつく中田を見て、少し奴のすねを蹴った。
「……った! たく、めんどくせぇな。まぁ……、あいつ綺麗だもんな」
いつも軽口を叩く中田から見たこともないような暗い表情が浮かんだ。一瞬、驚いで目を丸くした俺に気づき、中田はため息をついてから諦めたように笑う。
「綺麗だけど、俺はあいつが嫌いだよ」
「なんで?」
どろどろに煮詰まった陰鬱な空気。普段の明るい中田からそんな陰鬱さが漏れ出してぎょっとする。
「あいつといると、自分が嫌いになるから」
そうぼやいた中田の口元が、痙攣しているように震えているのが印象的だった。
「……大丈夫。恋とかじゃない」
俺はもう一度、言い聞かせるようにしてまた彼女を見た。
「あいつの泣いたところを、見てみたいだけなんだ」
無意識に彼女と話がしたいと思うようになった。彼女と言葉を交わしたい。彼女の本当を見てみたい、そう願うようになった。
彼女の生きた感情をぶつけられたいと願う一方で、どうしてそうされたいのかの答えが見つからない。それなのに、彼女と言葉を交わすその瞬間は意外にも早く訪れた。