やっぱり父様はいない。
父様どころか、看護師さんも、お医者様もいない。
この間、母様が買ってきてくれたお花も、無い。
ここは病院じゃあないの?
壁も床も、シーツもお布団も、病院と同じで真っ白なのに。
そういえば、わたし、どれぐらい眠ってたの?
長い眠りから覚めた少女は半身を起こし、僅かに感じる肌寒さに首をすくめる。
それから改めて周囲を見回すと、窓一つ無い部屋にいることがわかった。
もちろんそこが病室では無いことも。
ゆっくりと彼女はベッドから降り立った。
心なしか、身体が軽い。
そのまま扉に向かい、歩み寄る。
堅く閉ざされていたそれは、彼女が僅かに触れると、音もなく開いた。
彼女は純白の世界に吸い込まれるように、足を踏み出した。
※
「……いなくなった?」
惑連技術士官ジャック・ハモンドは、医療部からの緊急報告に絶句し、次にくせ毛の短髪をかき回した。
『移植手術』完了からの時間を考えると、もう気が付いてもおかしくはない頃合いだ。
深々とため息をついてから、『患者』の親権者が出張で席を外していることを、不謹慎ながら彼は神に感謝した。
「……迷子、か。仕方ない。全館に非常線をはってくれ。一刻も早く見付けないと」
言いながら、ジャックは苦笑いを浮かべるしかなかった。
※
どんなに歩いても真っ白。
ここはどこなんだろう。
それに、今日は何月何日なの?
窓が無い建物の中では、今が昼なのか夜なのかも解らない。
どれだけの時間歩いたのかも、定かでは無い。
いい加減歩き疲れた少女は戻ろうとして、はたと気が付いた。
真っ白な空間の中で、完全に方向感覚を失っている。
帰りたくても、どこから来たのかすら解らない。
途方にくれ、泣きそうになった彼女は、ふと突き当たりの扉が少し開いていることに気が付いた。
誰かいるかもしれない。
わずかな希望を抱いて、彼女は扉に手をかけた。
薄暗い室内には、一台の端末が置かれ、そこからは途切れることなくキーボードを叩く音がする。
ディスプレイは仄明るい光を放ち、その前に座っている人影を浮かび上がらせていた。
「……どなたですか? 」
彼女が何かを口にする前に、室内から声がした。だが、肝心の声の主は、彼女を見ようとはしない。
「ここがどこか……解らなくて……」
「……どなたですか? 」
まるで機械のように、先ほどの問いかけが繰り返される。
少女は、震える声で答えた。
「わたし、クレア。クレア・テルミン……です」
不意に、キーボードを叩く音がやんだ。
「テルミン博士のお嬢様ですね?」
言いながらようやく『その人』は振り向いた。
一見穏やかだが、感情の無い硝子色の瞳が、こちらを見つめている。
「あなた……は?」
「私はシリアルID〇一二・〇・〇〇五。通称No.5。ですが、ハモンド博士とテルミン博士は、私をエドと呼んでいます」
静かな声に、クレアはおずおずと歩み寄り、作業を再開する『その人』に話しかける。
「じゃあ、ここは父様のお仕事場?」
そう言いながら、クレアはディスプレイと『その人』の顔を交互にのぞきこむ。
「そういうことになります。今ハモンド博士に連絡を取ります。すぐに迎えがくるでしょう」
平板な声がそれに応じる。だが、クレアの返事はない。
「どうか、しましたか?」
再び『その人』は手を止める。
モニターを見つめるクレアの目には、わずかに涙がたまっていた。
「でも……父様は、来ないんでしょう?」
大粒の涙が、頬を伝う。
緊張が解けたのか、泣きじゃくるクレアの頭を、『その人』は優しく撫でていた。
「大丈夫。ここにいる私たちが、貴女をお守りしますから……」
※
ようやく駆け付けたジャックは、目の前の状況に唖然とした。
「おい……エド、こいつは一体……」
呆れたように言うジャックに、エド……No.5はいつもと変わらぬ感情の無い声で答えた。
「現在、彼女は熟睡状態にありますので、搬送には細心の……」
「それはそうだが……」
No.5の膝の上には、ちょこんとクレアが収まっている。微笑みさえ浮かべて眠っているクレアを左手で支えつつも、だがNo.5は残る右手で作業を続けていた。
「先ほどシステム上にバグを発見しました。修復をしたいのですが……」
「それは後でいいよ。無骨な軍人さんに頼むより、君が運んだ方が早そうだ」
分析不能、とでも言うように首をかしげるNo.5に、ジャックはうなずいた。
では、とNo.5はクレアを抱えたまま立ち上がり、扉の外へと消えていった。
その二人の姿を見送りながら、ジャックは何とも言えない感情にとらわれた。
厳密に言えば、『二人』とも生物学上の『ヒト』ではない。
一人はすでにその生を全うし、もう一人は……。
言い知れない恐怖感を感じて、ジャックはその考えを頭から振り落とした。
真っ白な空間が、目の前に広がっていた。