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四十一本目:剣、晴れ渡り

 ──桜が散り、力強い若葉が芽吹く朝。俺はいつものように竹刀を担いで朱音の墓の前にいた。オランジーナを置く。手を合わせる。嗅ぎ慣れた線香の匂いが風に運ばれる。


 からりと吹いた薫風は俺だけじゃなくて、隣で手を合わせてくれている香織も包んだ。


「朱音ちゃんは、いっつも笑顔を浮かべている子だったね」

「ああ。丸いでこが可愛くてな。どんな理不尽な目に遭っても、笑顔を絶やさなかった」


 たとえ母に殴られても、決して泣かなかった。頬を紫に染めても、前歯が折れても、今を嘆くんじゃなくて、未来に希望を持っていた。


「朱音は強かった。俺よりもずっと」


 拳を握り、妹の姿を思い描く。俺は朱音を守れなかった。その後悔は一生ついて回るだろう。だけど、今、俺の手の中にある大事なものを、朱音にしてやれなかった分まで守っていく。


 桜先生と、香織と、八咲。

 そのために必要な強さは、すべてを斬り伏せる、排斥的な強さじゃない。


 ありとあらゆる世界とつながって、心を広げて歩み寄る──そんな、理解の強さだった。


「ねぇ、剣誠くん」と声を掛けられた。

「ん?」と返す。


「もしも、もしもだよ? 君がお母さんに会えたとしたら」

「あー、そりゃ、許せない。許せない、けどさ」


 いつか、誰かにも同じ質問をされた気がする。あの時はなんて返したっけな。


「分かんねぇ。でも、感情のまま打ちのめしたところで、朱音は喜んでくれないだろうな」

「……うん、ウチも、そう思うよ」


 全身を包み込むような、生暖かい風が吹いてくる。もう、桜の匂いはしなかった。


「もっと、稽古しなきゃな」

「そうだね。ウチも、やっと道着届いたし」

「ああ、香織は背が高いからよく似合ってたぞ」

「え、ホントに? 嬉しいっ!」


 ぴょん、と跳びはねて分かりやすく喜ぶ香織。


「にしてもさ、まさか東宮部長が先生の朝稽古に来るとは思わなかったな」

「あ、それ思った~。ぶっちゃけ仕返しに来たんじゃないかって怖かったもん」


 あの大会以降、香織と東宮も俺と先生の朝稽古に来るようになった。香織は以前から提案していたが、東宮は曰く俺に負けて悔しかったとのこと。でもやっぱり悪態を吐きながら挑みかかってくる様子は前までの俺のようで。


 東宮は他の三年と一緒に部活に戻ってきた。無論、俺と八咲がいる上に桜先生がいるから横暴な真似などできまい。


 一、二年は酷く怯えた様子だったが、まぁ、東宮もみんなの前でちゃんと謝罪したんだ。時間を掛ければ和解できると思う。剣を通じて歩み寄れば、きっと。


 吹き込んでくる涼しい風を堪能していると、香織がスマホで時間を見て、


「あ、もう時間だね」

「そか。行かなきゃだな」


 日曜日、部活も学校も休み。俺と香織は八咲から釣道場へ呼び出されていた。





「すまなかったな二人とも。こんなところまで来てもらって」

「んにゃ、全然」

「八咲さん、喘息は大丈夫?」

「ああ、今日はとても調子が良い。気遣ってくれてありがとう」


 純白の道着を纏った八咲が、釣道場の門の前で待っていた。この街にあるもう一つの道場。風で壁板から軋む音が聞こえる。青々とした若草の匂いが庭からここまで届いてくる。道場を支える黒い木材の塗装がところどころ剥げていた。


「剣誠、あれからどうだ。例の感覚は掴んだか?」

「全く。ちっとも。まぐれだったのかな」

「まぁ、そんなものだよ。お互いにまだまだ道は長いということだな」


 八咲が南京錠で閉じられた黒い門を開ける。鉄が擦れる音に合わせて中庭が顔を見せた。道の中央に石畳がある。俺たちは八咲と並んで足を踏み入れた。


「黒神 桜が維持しているようなものだったが、鍵は私が管理しているんだ」


 八咲がもう一つの鍵を取り出し、道場の扉を開けた。

 瞬間、鼻を刺す木の香り。畳や障子の匂いと相まって、心地良い感覚が体を包む。履いてきた靴を下駄箱に入れる。軋む床板の音を聞きながら、木製の引き戸の前に立った。


「二人とも」


 八咲が引き戸を見つめながら声を掛けてきた。


「今日来てもらったのはな……私と一緒に、釣師範の前で稽古をして欲しいからだ」

「え、もう亡くなってるんじゃ」

「そうだ。前と言っても遺影の前で、だ。今日は師匠の命日でな。私は毎年必ず、この道場で稽古をすると決めている」

「ウチ防具ないよ?」

「構わないさ霧崎さん。後でいっしょに足捌きや素振りをしよう」


 がらり、と戸を開く。三人揃って道場に一礼する。天井を照らす蛍光灯。高い位置にある窓から陽射しが差し込んでいる。道場自体はさほど大きくはない。ちょうど、剣道の試合場が一つと僅かな控え場所くらいだ。あと一畳くらいの大きさの鏡。外観からの予想を裏切り、床を踏んでも軋む音はしなかった。滑らかな感触が足裏に伝わる。白線かと思いきや、ペンキだ。道場に直接、試合場が描かれている。奥には神棚と木刀が飾られていた。


 立派な道場だ。かなり古いが、歴史の重厚さと荘厳さが滲み出ている。


「先生、お久しぶりです」


 八咲が見つめる方向を追うと、神棚の隣に黒縁の写真があった。


 釣 明人師範。かつて軍人であり、何人もの敵兵を斬って『要』から解脱した男。後に全日本選手権三連覇という偉業を成し遂げた。坊主頭に立派な白髭。険しい目元にはいくつも皺が刻まれていたが、それ以上に目を惹くのは戦争を生々しく物語る傷だ。


 八咲が足音を立てずに遺影の下まで歩み、静かに着座した。ポン、と横のスペースを叩く。ここに来いという意味だろう。だけど俺はその前に、荷物の中からある物を取り出す。


「八咲、釣師範のところに、これを置いてもいいか」

「ん? ああ、構わないぞ。師範も喜ぶだろう」


 コト、と神棚に妹の位牌を置く。俺が剣道するところをよく見てくれたアイツなら、きっとこの道場も気に入ってくれると思う。俺と香織が着座したのを確認して、八咲が口を開いた。


「まずは霧崎さん。私はあなたに謝らなければならない」

「え? なんで?」

「以前、無礼を働いたからだ。君の気持ちも考えず、私はエゴを貫いた。叱責されて当然だ。私が間違っていた。だから、謝りたい」


 す、と八咲がほとんど姿勢を変えずに香織の方に向き、土下座をした。


「ちょちょちょ! いいよいいよそんなの! ウチも言い過ぎたな、って反省したし、ホントに気に病まないでお願いだから! ああああウチは推しになんてことを……」


 わたわたと手を振って目を回す香織。なんのこっちゃと思ったが、ここは突っ込んではいけないところなんだろうな。俺の勘がそう言っている。


「そして、剣誠は君とのつながりを作ったからこそ、私を打倒した。本当の『極』に辿り着いたんだ。君という存在が、大いなる進化に繋がったんだ。そのことに感謝もしたい」


 ぴたり、と香織が動きを止めた。静寂が流れること数秒。


「……じゃあ、ウチと友達になってくれる?」


 指をつんつんと突き合わせながら、香織が目線だけ八咲に向けてそう言った。


「もちろんだとも。ぜひとも私と友達になってくれ」

「はぅあっ」と額に手の甲を当ててくらりとよろける香織。危ない。


 しかし、そうだな。いい機会かもしれない。


「あー、それなら俺も香織に礼を言いたいな」

「ふえぇっ! 剣誠くんまで! なんなのこれ、どういう状況!?」


 頬を両手で挟んでムンクの叫びみたいな顔をする香織。俺は内心でくっくと笑いながら、


「この前の決勝戦、おまえのおかげで大事なことに気付けたんだ。ありがとな」

「いや知らないし! ウチなにもしてないし! もうワケ分かんないよぉ」


 分からなくていい。今は。

 さて、と気を取り直した八咲が元の場所に戻り、姿勢を正す。


「紹介します、釣師範。彼が達桐 剣誠。私の探していた剣です」


 直球な紹介に心臓が跳ねる。香織も現実に戻ってきたのか、正座を取り直した。


「あなたが言っていた言葉の意味を、ようやく理解できました。諦めずに歩み続ければ、私を理解できる剣が現れる……ええ、その通りでした」


 八咲の独白、いや、独白じゃない。もはや目の前にいる人物へ報告しているようだった。コイツには視えているんだ、釣師範の姿が。死してなお、魂はここにあると信じて。


「彼という剣が、私を理解してくれたのです。その喜びを、伝えに来ました」


 シン、と道場が静まり返る。当たり前だ。喋っていた八咲が黙れば、そこに返事などありはしない。何故なら、釣師範は亡くなっているのだから。




 だけどその時、

 確かに感じた。

 一陣の柔らかい風が、

 俺たちを優しく包み込むのを。




「今、風が」


 香織も感じたようだ。偶然か? いや、それにしてはあまりにも。


「剣誠、私は君にも礼を言わねばならない」


 八咲が呟いた。何故、と問えば、コイツは本当に泣きそうな顔で微笑んで。


「君が過去の傷のせいで剣道を辞めなかったからさ。本当に、ありがとう。それすら、魂すら失っていたら、君はその瞬間に死んでいた。剣は折れていた。だから、禍々しい覇気を纏いながらも、剣を握り続けたことに感謝しているんだ」


 感謝。コイツは俺の話を知って、感謝という言葉を口にした。


 どれほどの傷を背負っても、今剣を振ってここにいることに感謝している。


 その姿がどこまでも美しく見えてしまって、思わず自分の胸を押さえた。


「君も話したらどうだ? 先生は君との対話を望んでいるよ」


 八咲の表情は柔和だった。さも当然と言わんばかりに。


「え、あの、たぶん、あまり稽古つけてもらったことはないと思うんですけど、達桐 剣誠です。あなたの弟子である、黒神 桜先生にご指導いただき、えと、その」


 戸惑いながらも遺影に向かって話しかける。不思議だ。本当に目の前に釣師範がいるみたいだ。何を緊張している、と苦笑いする八咲を見て、腹を決めるように息を吸い、





「八咲 沙耶は俺の鞘です。あなたの代わりに──一生大事にします」





 苦笑いから一転、呆気に取られた様子で固まる八咲。


 一秒後、ボン、とコイツの中で何かが爆発した。顔が真っ赤になった。


「き、きき君は、なな何を突拍子もないことをッ」

「ホントだよ! 何言ってんの剣誠くん! それ最早プロポ──」 


 さらには香織まで便乗してきた。


「あ? ナニ慌ててんだおまえら。これからも良い稽古相手としてよろしくな、って」


 言った瞬間、二人の表情が無になった。


「……良い、稽古相手、なの」

「おう。そうだろ? 一人じゃ稽古できないしよ」

「そうか。ああそうだな、その通りだよ」


 その通りなら、なんでコイツらは声に少しずつドスを利かせているのだろうか?


「剣誠、ところで君はあの試合で私を名前で呼んでくれたな。覚えているぞ。なのにそれ以降、名前を呼んでくれないのはどういうことだ? 説明しろ。納得するまで問い詰める」


「なんで今それ聞く? 関係なくねぇか?」


「関係大アリだ。私は名前で呼んで、君は名字で呼ぶ。こんな関係を対等と言えるか? いや、言えまい。黒神 桜のことは名前で呼んでいるのに私は呼ばれないのは悔しい。負けた気がする。私を鞘と言うのなら、ほら、同じ音なんだから素直に呼び給えよほらほら」


「う、うぜぇ。前言撤回しようかな」


 ぐいぐいと正座しながら袖を引っ張る八咲にドン引く俺。

 そんな俺の態度を見てさらに八咲が頬を引き攣らせて、


「お? 男には二言はない、というのが通説ではないのか? 君はそんな軟弱者なのか?」


「剣誠くん、ダサいよ。男ならここでカッコつけずにどこでつけるの? ねぇねぇねぇ」


 なんか香織まで便乗してきた。


「うるせぇよ。絶対におまえだけは下の名前で呼ばねー」

「なんでだ? 理由を説明しろ。納得がいかないんだよ私は」


「説明しなよほら、はやくはやく」

「おまえらはホイホイ言えても俺はそうじゃねぇんだよ。こちとら思春期男子だぞ察しろ」


「? 尚更分からんな。霧崎さん、分かるか?」

「う~ん、分かんない」


「そうだ。ならばこうしよう。稽古で私が勝ったら白状しろ」

「俺が勝ってもなんのメリットもねぇじゃねぇかッ!」


「私を下の名前で呼ぶ権利をやる」

「いらねぇよッ!」


 ぎゃーぎゃー揉めながら防具を着ける。そもそも釣師範の前で稽古をする、という話だったはずだ。そこで変な賭けを吹っかけるコイツはどうなんだよ。


「俺が勝ったらもう黙れよ」

「いいだろう。あの決勝の雪辱を晴らしてくれる。例の感覚を掴んでいない君になど負ける気がしないな。一度私に勝ったからって調子に乗るなよ」


「いずれは戦績追い越してやるよ」

「やって見給えよこの意気地なしが」


「上等だこのばかおんなァ!」

「ウチは素振りとか足捌きしとくね~」


 鏡へ歩いていく香織に「おう、後で行くわ!」と返事をし、互いに抜刀して蹲踞をする。


 目の前の八咲に、妹の姿が重なった。


 ──なぁ、朱音。俺はもう大丈夫だよ。


 俺と八咲は剣と鞘。傷だらけの業物。二心同体にしてつがいの存在。


 だけどそれだけじゃ足りない。香織という剣道を知らない存在が、俺たちという剣と鞘の帰る場所として存在してくれた。二人だけではなくもっと広い世界とつながれるのだと教えてくれた。立つ領域の違いなんて関係ない。


「行くぞ八咲ッ!」


 全力をぶつけ合う相手に感謝を述べる。


「来い、剣誠ッ!」


 裸の魂を竹刀に込めて、燃焼する想いを見せつける。


「二人とも、頑張って!」


 そして、剣の鼓動をより広い世界へと羽ばたかせる。大事な人たちとの間に生まれたつながりを、これからも守っていきたい。


 そのために必要なのは、他者を排斥する強さじゃない。他者を理解する強さだった。


 自分の世界の外側にある魂とつながることによって得られるしなやかな強さこそが、俺の求めた──みんなを守るために必要な強さだった。





 それが、俺の辿り着いた『極』の答えだ。





 さぁ、存分に語り合おう。

 心臓の高鳴る方へ剣を振りかざす。抱き締め合うように面打ちを放った。


 見守る釣師範と朱音が微笑んだ……そんな気がした。





≪第一部 完≫


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