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三十六本目:桜の花びらに乗せて

 桜の花びらが散って、力強い青葉が主張し出す今日。熱を帯び始めた空気を吸い、市民体育館の前で荷物を置く。五月最初の日曜日。半年に一度開かれる道場戦の日だ。


 俺が八咲に敗れて、半年が経った。あれからというもの稽古量を増やし、ひたすらアイツを倒すことだけを考えていた。アイツが憎たらしくてしょうがなかったから。


「でも、そうじゃねぇんだよな。それじゃあ、八咲は倒せない」


 アイツはその先にいるから。殺し合いという領域をとっくに超越しているから。


「今の俺なら、手が届くと思う」


 足元にある道路の縁石に、散った桜の花弁が溜まっている。形の整った一枚を拾って、指先で撫でて風に沿わせる。ふわりと浮いた花弁は俺の視線を釘付けにして、


「やぁ剣誠。少し見ない間に、随分といい顔つきになったな」


 風に靡く髪を抑えながら、八咲が視線の先に立っていた。


「おう、八咲。男子三日会わざれば、って言うだろ? ま、三日も経ってねぇけど」


 先生に斬られた頬の傷跡を撫でながら返す。


「ああ、見違えた。どうやら私の期待を裏切ることはなかったようだな。とはいっても所詮は前哨戦、今日、私と当たる前に負けでもしたら承知しないからな」

「わぁーってるよ。テメェこそ途中でコケんじゃねぇぞ」

「無論だ」


 ふふん、と不敵に笑いながら八咲が片目を閉じる。

 すると、地面を踏みしめるような音が後ろから聞こえてきた。


 八咲がハッとしたような表情を見せた。振り返ると、


「や、お二人さん。観に来たよ──ってどしたの剣誠くん、そのほっぺた」


 制服姿の香織が、柔らかい笑顔で小さく手を振っていた。


「おう、香織。まぁ、これはあれだ。髭剃り失敗したんだ」

「なにそれ。髭生えてないじゃん」


 ウソは通用しなかった。苦笑いで誤魔化す。


「二人とも、今日は頑張ってね」

「おうよ。俺はマジで強くなったんだって、八咲倒して証明してやるぜ」


 腕を組んで鼻を鳴らすが、挑発された当の本人はどこか顔を落とし、


「ああ、頑張るともさ」


 香織に視線を向けることなく、そう返した。どこか空気が重たく感じる。


「おい八咲、香織と何かあったのか?」

「なんでもないが」


 耳元で囁くように尋ねるが、早口で即答された。八咲はウソ吐くのが下手だった。しかし、女子同士の話に男が首を突っ込んだところでロクなことにならない。黙るのが正解だろう。


「俺との勝負に支障きたすなよ」


 ああ、と頷いて八咲が体育館へ向かう。選手は受付があるから早めに入場しなければならない。香織も後から入ってくるはずだ。「んじゃ香織、後でな」と一言だけ残して八咲を追う。


「八咲、喘息は大丈夫なのか?」

「黒神 桜と戦った時ほど好調ではないかな。しかし、今日は休むワケにはいかなかったんだ。挑戦を受けるのは王者の義務だからな」


 おまえ、中学の時は決勝を辞退してただろうが、と言いたくなったが、コイツは全日本を優勝した先生を下しているんだった。王者とはそういう意味だろう。だからこそ、


「クッッッソムカつく」


 盛大に舌打ちをする。この切れ味、やっぱり八咲は健在だ。心配して損した。


 二人で会場の入り口に向かっていると、どこかで見たような背中が奥にあった。


「ん? あれって東宮か?」

「なに? あの山猿も出るのか?」


 山猿という言い様に吹き出しそうになった。

 東宮、と俺がデカい背中に話しかけると、厳つい野人がのそりと振り向いた。


「む……? って達桐、それに八咲、なんでテメェらいんだよ」


「俺たち黒神道場と釣道場の出身なんだよ。東宮は今日一人なのか?」

「剣誠、一応先輩だぞ。敬語を使い給え」

「おまえも『一応』ってどうなんだよ」


 ぺし、ぺしとツッコミを入れ合っていると、東宮が頬をヒクつかせ、


「今日は俺だけだよ。しかし、腕試しのつもりだったが予定変更だ。達桐ィ、ここで会ったが百年目だぜ。この三週間、俺はサボってたワケじゃねぇ。テメェをぶっつぶすために修行してたんだよ。その成果を今日の試合で見せてやる」


「そうか。アップどうすんだ? 一緒にやるか?」


「誰がテメェらと仲良しこよしアップするかよ! ほっときやがれ!」


 唾を飛ばす勢いでがなる東宮。取りつく島もなく、ズカズカと先に行ってしまった。


 そんな姿にどこか既視感があると思ったら、少し前までの俺みたいだ。


 ああ、傍から見たらこんな感じだったのか。顔が熱くなってきた。





 試合場に入ってトーナメント表を見る。女子が希望すれば男子のトーナメントにも出られるのは中学の時と同じだ。


 八咲は唯一の女子だった。位置は逆サイドのシード。順当にいけば決勝で当たることになる。


 俺と八咲の二人でアップを終える。やはり八咲は調子を崩しているワケではなさそうだった。であるならば、さっきの香織との空気がよく分からないが。


 ふぅ、と一度外の空気を吸うために会場を出た俺は、手に持っているスポドリを飲み干した。もっと欲しいなと思っていると、後ろから、


「はい、これでしょ」


 俺の顔の横に、一本のスポドリが差し出された。びっくりして振り返る。


「風が気持ちいいですね、剣誠君」


 桜先生が道着姿で微笑んでいた。


「ありがとうございます。来てたんですね、先生、こんにちは」

「こんにちは。そりゃそうです。これは私と釣先生の生徒のOBやOGが中心になってやっている大会ですから。いわば主催者です。顔を出して当然です」


 先生が逆の手に持っていた珈琲を飲みながら、肩を竦めて返す。


「調子はどうですか?」

「イイ感じです。でも、あの八咲に勝てるかどうか」

「あら、珍しい。あなたが弱音を吐くなんて」

「そりゃあ。アイツの強さは底知れない。どんなレベルに達しようが、どれだけ稽古しようが、アイツに勝てるとは言い切れないです」


 香織には強がって言ったが、桜先生すら一蹴した八咲はあまりにも高い壁だ。


 空のボトルを握り締める。蓋が気圧でみしりと音を立てた。


「僕は、アイツに勝てるんでしょうか」


 『極』には至った、と思われる。


 しかし、それだけで八咲に勝てるのか。

 アイツを理解、できるのか。魂をつなげられるのか。


 考えないようにしていた不安が、じわりじわりと染み出てくる。思わず項垂れてしまう俺を見て、先生がほんの小さくため息を吐いた。


「なに情けないこと言ってるんですか」

「あでぇッッ!」


 ぱぁんっ! と曲がった背に張り手を入れられた。目から火花が出るかと思った。


「私に正面から喧嘩を売ってきた気概はどうしたのですか? あなたはクヨクヨするタイプじゃないでしょ。猪突猛進、って感じで全力を出すしか知らないじゃないですか」


「で、でも」


「どーしても怖気づくなら、この事実を思い出しなさい」


 ずい、と俺の鼻を抑えるように先生が人差し指を伸ばす。


「あなたは私の一番弟子で、私を超えた自慢の弟です。だから──大丈夫」


 あなたは強いんだから。そう言って先生は胸を張る。そんなどこか母性を感じさせる姿に、俺はふと思い至った。家族って、こんな感じの人を指すのかもしれない、と。


 不思議と、不安は消え去っていた。


「ありがとうございます、先生。──行ってきます」

「ええ、行ってらっしゃい」





 先生に見送ってもらってから館内に戻ると、視線の先で眼鏡を掛けた小さなお婆さんが、杖を突きながらゆっくりと歩いているのが見えた。あれは、


「津村武道具店の、ばあちゃん」


 間違いない。あの背の丸まった感じと、置物のような雰囲気は覚えがある。


 そう言えば、さっき桜先生が言っていたけど、この大会は釣師範の道場の関係者も運営に携わってるんだっけ。


 釣師範の奥さんなんだから来ても不自然ではない。今にも倒れてしまいそうな、覚束ない足取りがちょっと怖いな。ここまで来るのも大変だったろう。


「あの、津村武道具店のばあちゃんっすよね? こんにちは」

「おや、あなたはあの時の。こんにちは」


 声を掛けるとばあちゃんはゆっくりと振り向き、皺だらけの顔で笑った。


「来てたんですね。よかったら席まで」


 案内しましょうか、と俺が言おうとした瞬間だった。


「お、奥様! お越しになられてたんですか!」


 俺に遅れて館内に戻った桜先生が、驚いた声を上げながらすり足でやってくる。


「こんにちは、桜ちゃん。お久しぶりね。元気かしら?」

「はい。こんにちは。奥様こそ、体調は大丈夫ですか?」


「ええ。ただ、ここまで来るのに疲れちゃってね。お茶をもらってもいいかしら?」

「分かりました。すぐにご用意しますので、どうぞ来賓の席へ」


 しかし、本部へ促そうとした桜先生の手を、ばあちゃんは止めた。


「彼と話がしたいの。お茶だけもらえる?」

「は、はい」


 それじゃあ剣誠君、お願いね。桜先生はそう言い残して足音も立てずに事務室へ向かっていった。ばあちゃんは開いているんだか閉じているんだか分からない目で俺を見つめてきて、


「うん、見違えたねぇ、坊や」


 武道具店で会った時と何が変わったのだろうか。自分では分からない。しかし、ばあちゃんはそれが分かるようで何度も「よく乗り越えたねぇ」と言いながらうんうんと頷いている。


 そこで気付いた。ばあちゃんは俺の顔──に刻まれた傷を見ている。


 桜先生との殺し合いで負った、刀傷だった。

 俺が修羅場を潜り抜けてこの場にいることを、ばあちゃんは見抜いたんだ。


「だけど、もう二度とするんじゃないよ。剣は、殺し合うためだけのものじゃあ、ないんだから。魂で抱き締め合う、そのために、あるんだから」

「……はい。ありがとう、ございます」


 俺の返事を聞いたばあちゃんは、最後に頷いてゆっくりと歩き出した。


 向かう先は大会の本部だ。奥から桜先生がお茶を持ってやってくる。


「ばあちゃんは、『極』を知っていたんだな」


 剣は魂で抱き締め合うためにある。今の俺なら、その意味を理解できるような気がする。




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