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三十五本目:ほろ苦いものなのですね

 先生は俺に背を向けたまま、半分の長さになった刀を見つめていた。


「見事、としか言い様がないですね」


 耳鳴りがするほどの無音の中、先生の声はやけに大きく響いた。


「あなたの勝ちです。よくぞ私の覇気を打倒しました」


 振り返りながら告げる先生の目は、柔和に垂れていた。


「先生は、最初から僕を殺す気なんかなかったんですね」

「途中まではね。最後の勝負は本当に殺す気でした。しかし、あなたはそれを乗り越えた。何度も酷いことを言ってごめんなさい。それでもあなたを本気にさせるには、ああするしかなかったのです。殺されると思わなければ戦えないと思ったから」


 先生は目線を下に落としながらそう言った。


「いえ、だったら僕の方こそ、酷い言葉であなたを傷付けた。ごめんなさい。本当はあんなこと、思ってないです。僕も」


 あなたを嗾けるために。

 しばらく沈黙が続く。道場の外で車の通りすぎる音が三回ほど聞こえてから、


「僕は『極』に辿り着いたんでしょうか」


 そこが最も気になった。辿り着いていたとしても実感が湧かない。ただ、無我夢中で。俺の前を歩き、発破をかけるアイツと、後ろから添える手に応えねばと必死だったから。


「私に『極』を語る資格はありません。ただ、あなたの最後の打突は、釣師範のようでした」


 先生が半分の長さになった刀を持ち上げ、折られた箇所を見つめる。固く結んだ唇は、溢れ出る感情を抑えているように見えた。


「あなたの最後の太刀には不思議な力が宿っていた。あなたは私の打突を読むだけではなく、もっともっと大きな世界とつながろうとしていた。そんな太刀でした」


 桜先生の言葉が、いまいちピンと来ない。

 しかし、あの時に俺は何か、とても大事なことを掴んだ気がする。


「もう、私があなたの師匠を名乗ることはできないですね」


 先生が困ったように微笑んだ。俺はぎょっとして先生を見つめる。


「ど、どうしてですか」

「あなたは釣師範や八咲さんとは違うやり方で辿り着いたのでしょう。ならもう私があなたを導くことはできません。導く資格も、ありません」


 叶うのならば、命を託したかった。そんな送辞の言葉が聞こえた気がした。


「私は『要』に囚われ続けることしかできなかった」


 この人は強すぎて、誰もが憧れはするけども、近付くことはできなかったから。


「ずっと、期待されていたんです。苦戦も許されず、勝つこと以外なくなってしまった」


 それは一体いつからか。少なくとも高校時代から無敵だったこの人は、あまりにも長い時間、勝つことしか許されない呪いを掛けられてしまったのだ。


「剣道の指導も、本音を言うと最初は気が進まなかったんですよ。釣師範のような『極』にいる人間ならまだしも、こんな『要』から解脱できていない人間に、って」


 ではなぜ、俺に対してここまで愛を注いでくれるのか。


「でも、あなたと出会ってから考えが変わりました。私はあなたに自分を重ねました。昔の自分を見ているようで、放っておけなかったんです。絶望して、剣しかなくなったあなたが、周囲の期待に応え続けて、勝利しか見出せなくなった私と似ていたから」


 だから、この人は剣の教鞭を執った。


「あなたが愛おしかった。あなたになら命を捧げても良かった。それで私が至れなかった領域に辿り着いてくれるなら、私が『鬼神』と呼ばれてまで剣を振り続けた意味はあったのだと、そう思えるような気がしたのです」


 今思い返せば、この人はずっと、俺が『極』に至るために助言をくれていた気がする。

 殺されかけた俺を拾い、ここまで育ててくれた。そこには掛け値なしの愛情しかない。


「もうあなたに指導はしません。あなたは、私から巣立つ時が来たのです」


 この人の最大の喜びは、俺に殺されること。


「いや、私があなたから卒業する時が来た、と言う方が正しいでしょうね」


 でも、俺は否定した。否定し、超越した。故に先生は俺から離れようとしている。


「い・や・だ」


 だから俺はズバッと言ってやった。


「へ?」と言いながら先生が小首を傾げた。ちょっと可愛い。


「嫌だって言ったんです。僕はあなたを殺さないし、あなたから離れることもしない。あなたのことを生涯の師として仰ぎますよ」


 息が詰まる先生。震える唇から紡がれた音は四つ。どうして。


「どうしてもこうしてもないんですよ。まだいっぱい教えてほしいことがあるんすから」

「で、でも」

「でもじゃないです! 僕はあなたを殺さない。だから、僕の師匠であり続けてください」


 先生は俺に殺されたがった。それこそが、剣の鼓動が俺に伝えてきた、先生の真実。

 剣には人間が映る。取り繕えない本当の魂が込められる。


 だから、剣の鼓動を理解することは歩み寄ることを示すのだ。俺が今いる領域が『極』なのかどうかは分からないが、少なくとも、先生の魂を感じることはできた。故に、殺さずに済んだ。誰も死なずに殺し合いは終わり、魂を交えたつながりだけが残ったのだ。


「僕を、ずっと見ていてくださいよ、先生」


 俺にとってこの人は、どうなろうと師匠なのだ。どれだけの殺意が込められた真剣だろうが、俺たちの縁を切ることはできない。俺たちの間に血のつながりはなくとも、それより強い絆があると信じてる。


 今度こそ、今度こそ──失ってたまるかよ。


「剣誠、君」


 ほろり、と。一掬の感情が先生の瞳から溢れ出した。


「あ、やだ。どうして」


 必死になって拭おうとしても、次から次へと溢れてくる。

 俺は刀を置き、両手を床につける。先生は咄嗟に背を向けてしまう。手は目元を何度も拭うばかりだ。鼻の啜る音を聞きながら、俺は深々と頭を下げた。


「ありがとうございました」


 これまで育ててくれて。愛してくれて。見守ってくれて。叱ってくれて。

 この人から貰った全ての愛情に感謝して、俺は床に額をつけた。


「師範室へ来て。傷の手当てをしましょう」


 短く返事してふらつく足取りで扉へ向かう。一礼してから道場を去った。

 扉が閉まる瞬間、俺は確かに聞いた。


 それは剣の鼓動ではなく、先生の魂から溢れた透明な気持ちだった。





「ああ、弟子の成長って、ほろ苦いものなのですね、釣先生」





 鼻を啜る音が、扉越しにいつまでも俺の耳朶を撫でていた。



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