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三十四本目:超越

「が、ぁっ」


 息ができない。息ができない。息ができない。あの日の濁流が俺の自由を奪い去る。

 漆黒の水。奈落の底。絶望が容赦なく襲いかかってくる。視界が真っ暗になった。何も見えない。地面を踏んでいる感覚がない。どっちが上でどっちが下か分からなくなる。


 もがいても無駄だった。抵抗を嘲笑うかのように、濁流が俺の体を弄ぶ。血管が膨らむ。内側から破裂しそう。全身をぐしゃりとつぶせるほどの水圧が、俺の心をへし折りに来る。


 空気が漏れる。命をつなぐための酸素が奪われていく。

 『死』が肺を犯し、腹を蹂躙し、細胞を、血を、脳を──命を。踏みにじっていく。


「ぐ、ぎ、ぁ」


 先生の声が頭の中で反響する。私を殺せ。私を殺せ。この罪深き剣に贖罪を。どうか私に私を赦す瞬間を与えてくれ。

 それができないのであれば、ここで死ね。


「く、そ」


 抵抗する気力が消える。無理だ。何も分からない。刀を握っているのか。心臓は動いているのか。生きているのか。生と死の境界が曖昧になる。あの死にかけた日と同じように。


「ぃ、ぎ」


 頼む。どうか頼む。俺はここにいると信じさせる何かをくれ。何も残っていない。濁流に全てが攫われてしまった。息が続かない。意識が、途切れそうで、もう、なに、も ──。


 死ぬ。分かる。次の一瞬で、俺の命は跡形もなくつぶされる。

 薄れていく意識の中、





 しゃらん、という綺麗な音がした。

 同時だった。濁流が、真っ二つに割れた。





「ぁ、はぁ、はぁ、あぁッ」


 唐突に水の檻から解放され、地面に転がる。何度もむせ返り、涎と涙に塗れた。

 喘ぎながら顔を上げる。世界はモーセの十戒の絵を彷彿とさせる光景になっていた。


 一体誰が、と一瞬だけ考えたが、答えなど言うまでもない。

 あの濁流は先生の覇気だ。本気で殺す気になった先生の発する覇気が、俺にとっての『死』となって押し寄せて来たんだ。だから今この状況は、誰かが先生の覇気を切り裂いたことになる。全日本を制覇した、最強の存在が放つ覇気を。


 そんな存在など、今の日本に一人しかいない。


 蹲る俺の脇を、純白の道着を纏った八咲があの綺麗な音と一緒に通り過ぎた。手には一振りの剣。叩き割った濁流の間を通り、八咲は奥へ進んでいく。喘息を持っていようが関係ない。魂が強靭な剣で出来ているから。


「ああ、あ」


 魂が奮えた。目を限界まで見開いた。指が地面を抉り取った。拳が勝手に握られていた。息を吸った。心臓が全身に血を送った。脳天から爪先まで意識が蘇る。


 アイツが立ち止まる。髪を靡かせて振り返る。剣の切っ先を俺に向けて。





 そこで終わりか、剣誠。





 その言葉を最後に、八咲は再び歩き出す。もう振り返ることはなかった。


「ざけんじゃねぇぞ、ばかおんな」


 黒神 桜。あなたの魂は伝わった。自分の命を愛情で包み、指導という紐で飾って差し出してくれるのか。でも、受け取るワケにはいかない。俺をずっと見ていてほしいから。


「こんなところで、」


 漂白されたはずの魂に、確然と熱が宿る。一歩、足を踏み出し、


「終わるワケ、ねぇだろうがッ!」


 じゃきん、という重厚で荒々しい音の代わりに、

 がしゃん、というどこまでも洗練された音がした。


 気炎爆轟。全身を剣に変え、割れた濁流の間を疾走する。

 しかし、再び世界が俺にとっての『死』で満たされた。


「ぐ、あ、があぁッ!」


 息が詰まる。水が手を象り、背後から俺の首を絞めていた。

 覚えている。忘れるワケがない。この手は、あの日俺を絶望に叩き落とした手。


「あ、ああッッ!」


 それでも藻掻く。足掻く。みっともなくても構わない。先へ。ただ先へ。この絶望を超えて遥かなる彼方へ。八咲のいる高みへ……。


「、あ」


 ダメだ。魂に火をべても、全身を剣に代えても、俺は八咲の元へは辿り着けない。

 空気が零れる。意識に暗幕が下りる。指先から力が抜けていく。


 その時だった。俺の背に、何か暖かい力が添えられた。

 なんだ。誰だ。振り返る余裕はない。だが、消滅していく視界の中でも、その熱が俺に存在の意義を与えてくれた。踏ん張れる。踏み出せる。声が──届く。





 ──大丈夫だよ剣誠くん。君を独りにはさせないから。





 たとえ斬られても俺の近くにいたい、そう告げた少女が、背に手を添えていた。


「ホント、物好きな女だよ、おまえは」


 ずっと、俺と関わり続けた。剣道の酷な一面から遠ざけても、近付いて世界を交えにきた。世界は前だけではない。後ろにも、横にも広がっていると教えてくれた。


 どこかで聞いた言葉だった。しかし、思い出すよりも早く、背中を押す力は際限なく強くなっていく。燃える魂。奮える体。一人じゃ発揮できない厖大な力が俺の全身に漲る。


「俺は、前に進む! 邪魔、すんなァッ!」


 首を絞める水の手を、引き千切った。いつの間にか、俺の手には一振りの剣が握られていた。八咲と、俺と、もう一人、大事な存在の魂で鍛えられた剣だ。斬れぬものなどない。


 魂が吼えるままに、濁流を斬り裂いた。再び割れた世界の先で、八咲の背をめがけて疾走する。息が整っていない。心臓がうるさい。それでも走る。走る。走るッ!


 手を伸ばせば届く。八咲が微かに笑った気がした。隣に並ぶ。だけど、まだだ。脚を止めるな。遥か彼方へ駆け抜けろ。そのまま俺は、小さな背を追い抜いた。


 涙があふれる。俺の魂を構成するすべての想いが、俺を『極』へと導いてくれる。

 瞬間、お兄ちゃん、と。朱音が、遥か先で俺を呼んでいる気がした。


 朱音、朱音。俺の原点。守ってやれなくてすまなかった。

 しかし、どれだけ後悔しても、失ったものは戻ってこない。


 だから俺は、朱音の分も守らなきゃいけない。香織を、先生を──八咲を。

 そのために俺は、新たなる領域へと踏み出すんだ。





 眼前に、無窮の空が広がった。

 どぐん、と俺の内側から、空を震わせるほどの剣の鼓動が鳴り響いた。

 剣の鼓動よ、どうか願う。無窮の空に鳴り響け。遥か彼方に届くまで。





「なッ」


 『鬼神』の覇気を振り撒く先生が、目を見開いた。濁流は消滅した。『死』を乗り越えた。距離にして三歩。一足一刀の間合い。一秒すらかからず、剣は衝突するだろう。


 ──故に。一秒後、この戦いは決着する。


 視界は鮮明になっている。意識を取り戻した思考は冴えている。構えは蜻蛉。俺の持っている武器はこの一太刀のみ。完全に先生の下位互換でしかない。だが、そんなことは百も承知だ。カードの強さで負けてるのなら、勝てる場面で勝てる手札を切るしかない。


 だが、肝に命じろ。これが最後の勝負だ。負けるようなら、俺はもう──。


 把握するのは先生の太刀筋だけでいい。剣の鼓動を感じ取れ。先生の真実を暴き、先生の魂が歩む軌道を掌握しろ。『要』の具現を超越し、先の領域へ手を伸ばす。


「そうです、来なさい。私を殺せッ!」


 黒神 桜が咆哮する。殺意が刀に収束していく。溢れる想いは師の愛。俺が枯れ果てないように、優しく、優しく注いでくれた。本当に感謝している。だからこそ、俺は。


 踏み込んだ。収束した先生の殺意が臨界に達する。同時に、『鬼神』となった先生の表情が視界に映る。俺を川に突き落とすあの女の貌よりも、悍ましかった。


 『鬼神』。人智を超越した化物が全力を振るう。


「絶対に、超えるんだ」


 目を逸らさない。瞬きすらしない。先生の覇気を網膜に焼き付ける。





 瞬間、全てが、透明になった。





「──、あ」


 見える。先生の剣の軌道が、暴かれる。筋肉の伸縮、血流の速度、細胞の連動に至るまで一瞬先の未来が透けて見える。それだけではない。床の軋み、空気の音、刀の声。この空間に存在する全ての脈動。心臓の鼓動をもっと強くしたような音が、俺の体の奥に響く。


 先生の魂が、剣の鼓動として伝わってくる。

 無窮の空を飛んでいるような感覚。八咲から聞いていた話とは少し違う気もするが、これが『心眼』、なのか? ならば、俺が今立っているこの領域は。


「行くぞ」


 未知なる世界に心臓が高鳴る。息を止めて、肚に力を装填した。

 見切った。眼光が鎬を削る。あなたを死なせはしない。殺すことで生まれる虚しさは痛いほど思い知った。今の俺ならばできるはずだ。誰も殺さずして、理想の高みへと辿り着くことが。


「おぉおおッッ!」


 音速を超える先生の刀に狙いを定める。先生の打突を透き通るまで見切る。それはもはや、先生の魂を理解することに等しかった。剣の鼓動が聞こえる。脈動を感じる。故に把握できる弱所。命は狙わない。俺が斬るべきは、『要』に囚われた殺意だから。


 交錯する。音が消えた。互いに振り抜いた体勢で、時が停まる。


 先生の折れた刀身が、遠くの床に突き刺さった。




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