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三十三本目:『鬼神』の覇気

 何度でも言う。先生は日本最強。俺は先生の足下にも及ばない。どう考えたって、今生きている方がおかしい。何か、変だ。


 ぎこちない動作で刀を拾う。何度もふらつきながら、蜻蛉に構える。

 その間、先生は斬り込んでこなかった。


「続けましょう」


 言った直後、先生は何度目か分からない攻勢に出る。さらに加速する猛攻。もはや自分がどうなっているのか分からなかった。


「『極』に至りたいのでしょう? ならば刀を振るいなさい!」


 先生の叱責が脳に響く。しかし、どういうことか、今の俺には先生の気勢が癇癪を起こす子どもの叫びにしか聞こえない。痛みに歪んだ表情が目に映る。剣戟の渦の中、隙間から見える先生の目には今にも瓦解しそうな感情が確と浮かんでいた。


 先生の太刀筋が乱れた。俺の魂を焼き尽くす剣線が歪んでいた。それでも神速だった。僅かでも力を緩めたら一気に飲み込まれる。しかし、脅威をひしひしと感じると同時に、刀越しに心、いや、もっと深い箇所。魂というべき箇所だ。そこへ響いてくるものがあった。


 先生の、剣の鼓動。

 この剣は泣いていた。別れを嘆くように、泣いていた。それでも剣を振り続ける先生は、俺の魂を突き放す。さっさと行けと、内心では寂しがりながらも強がるように。


「────、────」


 ああ、ひょっとしたら。桜先生、あなたは。


「逃げてばかりで、『極』に至れるとでも思っているのか!」


 今にも泣きそうな表情で、先生は底無しの覇気を振りかざす。

 だけど、これは違う。絶対なる強者の持つ力ではない。今の俺にはそれが分かった。

 剣が鼓動を伝えてきたから。先生の感情を乗せて、俺に訴えかけてきたから。


「先、生」


 今のは、先生の内側で、もっと奥深くにある、魂そのものだ。





「僕に、殺されようとしてるんですか」





「ッ……」


 刀が止まる。先生の顎から垂れる汗が、道場の床に滴った。


「じゃなきゃ、説明がつかないんですよ。僕がまだ生きているっていうことに」


 全身の傷は数え切れない。しかし、それでも致命傷は一つもない。

 『極』に至るには、『要』同士の殺し合いを潜り抜ける必要がある。


 釣師範は大戦時に沖縄で。八咲は父親との一件で潜り抜けた。

 殺し合いの螺旋。釣師範はそのさなかで積み重ねた屍を見て、これは自分の求めた風景ではないと己が道を否定した。八咲は蹲る父親を見て、一度剣を諦めかけた。


 二人は『要』を斬って『極』に辿り着いた。

 そこで何を感じた? 何を感じて自分の道を否定した?


 すぐに思いついた。俺がこの殺し合いの中で言ったことじゃないか。


 桜先生を殺すことなどできない。つまり、殺すことが生む虚しさだ。それを知ることこそ、『要』から解脱する最大の要因に違いない。ただの一般人が戦争の虚しさを語るより、戦場の地獄を見てきた軍人の方が深く虚しさを理解できる──そういうことだ。


「なんでなんですか?」刀を下ろし、問う。「なんで、そこまでして」

「……、あなたには、謝らなければならない」


 桜先生も刀を下ろし、滔々とうとうと述べた。


「八咲さんに言われたことは、的確でした。私は矛盾の剣士。『極』を求めながらも、その実態は『要』に染まり切っている。私があなたに『要』しか教えられなかったから、あなたは八咲さんに勝てない。私はあなたに、苦しい思いをさせてしまった」


 違う。あなたのせいじゃない。俺は自ら『要』に染まった。俺の意思で『要』を貫いたんだ。先生はそんな俺を見て、俺の在り方を肯定してくれた。それにどれだけ救われたことか。


「だから、あなたが『極』へ踏み出したいと言った時、ついにこの時が来たのかと思いました。巣立つ時が。私の、罪滅ぼしの時が」


 違う。俺は先生の忠告を何度も無視した。勝敗だけにこだわるのは良くないという忠告を、俺はずっと無視し続けた。俺が八咲に負けるのは当然だったんだ。


「だから僕に刀を取れと嗾けたんですね」


 先生は何も言わなかった。その沈黙が何よりも俺の言葉を肯定していた。

 この人は俺に殺されることで、俺を『極』へと押し上げるつもりだったんだ。


「先生、僕はあなたを斬らない」

「え?」


 そうはさせない。あなたを死なせない。もっと教わりたいことがある。恩返しもできていない。まだ剣道で何の結果も出せていない。あなたへの感謝を、何も伝えられていない。


「あなたを斬らずして、僕は『極』へ辿り着く」


 刀を蜻蛉に構え直す。斬るためではない。至るために。

 矛盾を克服するために、俺は刀に魂を装填した。


「できるワケ、ないじゃない」


 されど、桜先生は俺の考えを否定した。当然だ。そんなことを成し遂げた人物などいなかったのだ。あの釣師範でさえも、殺すことでしか『極』に辿り着けなかったのだから。


「あなたは私を殺すしかないのです。それこそが私の贖罪。あなたという存在を『極』に押し上げてようやく、私はこの矛盾した剣を置くことができる」


 『鬼神』の覇気が再び顕現する。私を殺せと咆哮を上げた。

 殺してほしい先生と、殺したくない俺が、一足一刀の間合いで相対する。


「私を斬らないというのであれば、私があなたを本気で殺します。実力差は分かっているでしょう? そうなったら全ておしまいです。それが嫌なら、殺しに来なさい」


 ぎしん、と。鋼の編まれる音がした。俺の前に僅かな空気も逃さない鋼鉄の壁がそびえ立つ。それは八咲に敗れるまで誰一人として突破を許さなかった、最強の壁に他ならない。


 いや、違う。壁のように見えたけれど、これは掌だ。

 先生の背後に宿る鬼神が、俺を握りつぶそうと掌を伸ばしているのだ。


「覇者の殺意というものを、教えてあげましょう」


 心臓が五月蠅うるさい。数秒後の未来を予感して、泣き喚いていた。嫌だ怖いやめて許してごめんなさい。そんな泣き言が百と喉を駆け上る。


 唇を破るほどに噛み締めていなければ、溢れ出る弱音を抑えられそうにない。

 これまでの戦いで先生は全力を出していなかった。


 先生の剣の真骨頂は、他者の魂を屈服させ、心をへし折ることにある。これまでの剣風も並の相手なら戦意を放り出して許しを請うだろうが、先生の神髄はあんなものではない。魂が数秒後の未来で押しつぶされると分かっているから、恐れている。


「それ、でも」


 肚を括った。肝を据えた。覚悟を固めて真鉄にした。厖大な覇気を睨み付ける。


「ここで立ち止まるワケにはいかねぇんだよ」


 この絶望を超えた先にある境地を求め、全てを葬る鬼神の掌へと、飛び込む。




 瞬間、俺にとっての『死』が具現化した。




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