目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

三十二本目:殺す、ということ

「は?」


 理解ができない。何を言ってるんだこの人は。


「取りなさい」と先生は重ねて告げた。そこでようやく、俺は聞こえた五文字を理解した。


「え、いや、いやいやいや、それ真剣ですよね。冗談でしょ? そんなの」

「ええ。殺し合いです。冗談だとでも思ってるんですか?」


 縋ろうとした俺の思いは一瞬で斬り捨てられた。何言ってんだこの人は。俄かには信じられない。真剣を手に取れ? 殺し合い? 頭が現実を正しく認識できなくなる。


「何故躊躇うのですか?」


 刀を取らない俺に対し、先生は姿勢も目線も変えずに言ってくる。


「当たり前でしょ! なんで殺し合いなんか」

「それが『要』から『極』に至るために必要なことなのです」


 しなきゃいけないのか、という訴えは押し殺された。


「釣師範は戦争を潜り抜けた。八咲さんはどういった事情があったのかは知らないけど、相当な地獄を潜り抜けて来たんでしょうね。『要』から『極』に至るには、『要』同士による殺し合いを経る必要があるのですよ。『要』を超えるとはそういうことです」


 喉が渇く。舌が貼り付く。呼吸が浅く激しくなっていくのを感じた。

 真剣。刃物。斬られれば痛い。血が出る。肉が裂け骨を割られ内臓を抉られ──死ぬ。


 死。妹と、俺を襲った、死。


「──」


 視界に砂嵐が吹き荒れた。鼓膜を削る雑音に支配される。

 虫の羽音のような蛍光灯の音も、先生の声もうまく聞き取れない。脳内がぐしゃぐしゃに攪拌されている。心なしか平衡感覚も覚束なくなってきた気がする。


「そもそも、あなたに示現流を教えて来たのは何のためですか? 示現流は人を殺すことに特化した殺人剣ですよ? 今こそ、その成果を見せるべきではないのですか?」


 だからって、だからってこんなのは。


「はぁ、あれほどまでに殺意を剥き出しにして剣道をしてきたクセに、あなたはいざという時は縮こまる臆病者だったんですね。まぁ、仕方ありません。そんなものです。一度殺されかけたからって、誰かを殺すことができるかと言われればそうじゃないですしね」


 先生が俺に刀を押し付ける。反射的に持ってしまった。瞬間、俺の手にのしかかる本物の重さ。確か真剣は一㎏ほどだったか。とてもじゃないが数字通りとは思えないほど重い。人を殺すために生み出され、人を殺すために鍛えられた兵器が、今俺の手に。


「抜きなさい、じゃなきゃ死にますよ」


 殺し合いにならないからか、先生はわざわざそう告げて、

 じゃりん、と躊躇いなく刀を抜いた。


 心臓が凍る。息が止まる。飛びかかってくる先生が、やたらとゆっくりに見えて。


「あ、あぁあッッ!」


 絶叫しながら、刀身を露出させて斬撃を受けた。甲高い音が道場に木霊する。微かに頬が熱い。昔包丁で指を切った感覚と似た熱さだ。目の前で二本の線が垂直に交差している。もしも当たれば皮膚は裂け、振り抜けば肉だけではなくて骨まで切断する。


 重い。これは玉鋼の持つ重さじゃない。

 命だ。先生の命全てが刃に乗せられ、俺の命を断ち切ろうと重量を増していく。


 俺を睨む先生の目に微塵も慈悲はない。機械のように凍てついた瞳が、俺の恐れる心を射抜く。こんな程度かと蔑まれている気分だ。


 先生の圧力が膨れ上がった。矮躯からは想像もつかない膂力で俺を弾き飛ばす。先生が刀を蜻蛉に構えた。疾走と何ら変わらない速度で、俺に迫る。受けるな。示現流の一撃は受けたとしても鍔が顔面にめり込むほどの威力を持つ。軌道は見えている。受け流すために構える。


 だが、先生はあっさりと俺の裏を掻く。蜻蛉から一瞬だけ振り下ろし、すぐさま逆蜻蛉へ切り替えた。受ける体勢を取っていた俺はバランスを崩す。


 無防備になった俺の左小手に、鋼の一閃が炸裂する。

 瞬間、俺の脳裏に映像が浮かぶ。血しぶきと共に吹き飛ぶ左手を眺める映像──。


「うぁあッッ!」


 見栄えもへったくれもない。転ぶようにして床に倒れる。頬に感じる冷たさが、俺の混乱した思考を微かに和らげてくれた。左手が熱い。でも動く。掠った程度で済んだらしい。


 手に握る刀を床に押し付けながら、先生から距離を取る。さっきまで俺がいた場所を先生の一撃が通過した。もしも逃げてなかったら。そう考えてゾッとした。


 荒い呼吸が漏れる。それがまだ自分は生きていることを教えてくれる。 

 俺の立ち上がる姿を眺めながら、先生は「無様ですね」と口を開いた。


「あなたが突き進もうとしている修羅の道、その最果てはつまりこういうことです。誰かを守るための強さを欲するのならば、あなたは私ですら斬らなければならないのです」


 『鬼神』の覇気が角をもたげてくる。先生の目は相変わらず冷徹だった。俺を殺すという意思で塗りつぶされていた。あの夜に見た、あの女の目とそっくりだった。


 俺はまた殺されるのか? 

 それも、愛してくれなかったあの女にではなく、愛してくれたはずの先生に。


「いや、だ」


 先生が近付いてくる。俺の心をへし折り、殺すために。自分が『極』に至るために。

 死にたくない。死にたくない、死にたくない死にたくない死にたくない。


 ガチガチと歯が鳴る。死が近付いてくる。俺の首を攫うために、真剣を握った死神が来る。

 壁に体が当たった。これ以上は退がれない。


「う、おえぇ、げぇ、おっ」


 瞬間、内臓が持ち上がる。呼吸ができなくなったと思ったら、口が胃の中にあるもので満たされる。押し戻すこともできず、自分の道着と床を汚した。


「お、がぁ、あ、ハァ、ハァッ」


 何度もえづく。粘性のある液が鼻と口から垂れてきた。視界が滲む。拭う余裕もない。


「剣を抜きなさい」

「でき、ません」


 もはや声になっていなかったと思う。それでも先生は「そう」と呟き、


「本当に、それでいいのですか?」

「え?」

「あなたには、守りたい人がいるのではないのですか?」


 即座に頭に浮かぶは香織の笑顔。

 そうだ。俺は、香織に妹の朱音を重ねて、どんな理不尽からも守ってやりたかった。


 じゃあ、俺がここで殺されたら、これから先の未来、誰が香織を守るのか。目の前に君臨する『鬼神』のような理不尽から、誰が守ってやれるというのか。


「……」


 やるしか、ない。先生を斬り殺す覚悟を固めろ。死にたくなければ殺せ。この先の未来も香織を守りたければ。『極』に辿り着け。原点を失わないために、俺は、俺は──。


「ぐ、うぅううううぁああああああああああああああああああああああああああああッッ!」


 死の恐怖を引き千切る。何故強くなろうとしたか。己の魂に問いかける。


 大切な人を──香織を守る。その至上命題は揺らがない。そのために、邪魔する障害をすべて斬りつぶせ。たとえ相手が、俺の守りたかった愛する恩師であろうとも。


 アンタが俺を殺そうというのなら、俺がアンタを殺す。


 一瞬だけ、自分の半身が裂けるような痛みを感じた。

 瞬間、脳裏に浮かぶは、死んだ妹と、涙に歪んだ香織の顔。


 痛みを無視する。抜刀する。鞘を捨てる。本物の刀。先生の命を奪うために、俺は。


「それでいいのです」


 蜻蛉に構え、飛びかかる。びぐん、と俺の全身が悲鳴を上げるように震えた。


「ようやく舞台は整いました」


 凍っていた先生の目が、歪んだ。


「「ハァアアアッッ!」」


 飛び散る火花。炸裂する玉鋼。剣戟が苛烈な楽曲となって耳朶に響く。

 先生の刃は俺の急所を容赦なく狙ってくる。一撃でも受け損なえば致命傷となる。


 瞬きをする暇もない。もはや勘と運だけを頼りに、際の際で直撃を避けている状態だ。薄氷の上を歩いている気分。僅かでも判断が遅れれば、切っ先の振りをしくじれば、死ぬ。


 先生の剣戟は狂飆きょうひょうだった。上だと思ったら下。右だと思ったら左。突き付けられる実力差。どうして今自分が生きているのか不思議だった。


 受け損ねた衝撃が俺の動きを束縛する。そんな綻びを逃す先生ではない。僅かに生じた亀裂を容赦なく押し広げてくる。


 どうにかして彼女の隙を突こうと、感覚を極限まで研ぎ澄ますが、見えない。綻びが。微塵も。

 当たり前だ。この人は俺の憧れた目標で、俺の完全なる上位互換なのだから。


「で、もッ!」


 関係ない。どれほどの実力差があろうとも、もうそんな言い訳は通じないのだから。


 皮膚が裂ける。血が舞う。全身が痛みに焼かれていく。鎌鼬の乱舞を捌きながら、歯を唇に減り込ませて食らい付く。心臓が弾けそうだ。酸素を求めて喘ぐことすらも許してくれない。視界に砂嵐が吹き荒れる。床を踏む脚が宙に浮き、自分の体重が世界から消失する。がくりと膝が折れる。しまった、という思考を最後に頭の中が空白につぶされた。


 しかし、それは先生からしたら予想外の動きだったらしい。「むっ」と先生が声を漏らす。先生の斬撃は俺の頭から逸れ、髪を掠めていくだけだった。


 少しでも抵抗を。自分を喝破して崩れた体勢から刀を振るう。

 闇雲な太刀は、先生の道着の袖を切り裂いた。


 先生が微かに目を見開いた。抵抗を見せた俺に驚いたのか。


「へぇ、存外、粘りますね」


 ここでようやく実感した。してしまった。俺が握っているのは、本当に刀なのだ。


 人を殺すための、兵器なのだ。

 涙が、こみ上げてきた。





 ──ほら、君は強がってるだけだよ。

 学校の屋上で言われた香織の一言を思い出した。





「う、うぅ、ぅ」


 殺したら先生は死ぬ。当たり前だ。殺す。殺人。犯罪。怖い、怖い、怖い。人を殺してはいけない。一度殺されかけたとしても、殺すことはどうあってもいけないことだ。俺の手にある物は? 人を殺すための物だ。俺は何を振っている? 先生は何を振っている? どうしてこうなった? それは、俺が『極』へ辿り着くために。『極』に辿り着くには、『要』同士の殺し合いをしなければいけなくて。


 本当に、殺すしかないのか。俺は『極』へ至るために、先生を殺すしかないのか。

 ここまで育ててくれた恩人を、親の代わりになってくれたこの人を、俺は。


「いや、だ」


 先生、先生。あの日から俺に一番近い人として、未熟な俺をいつも気にかけてくれていた。いくらなんでも分かる。愛されていた。先生を殺すということは、先生と永遠に会えなくなるということだ。剣道も教えてもらえない。説教されることも、ない。


 知らなかった。殺すこととは、ここまで恐ろしいことだったのか。


「いやだ。俺、先生を斬りたくねぇよ」


 殺さなければ殺されるとしても、俺は先生を斬ることなどできない。

 視界が滲む。先生の輪郭を正しく認識できなくなる。今斬り込まれたらどうしようもないだろう。でも、先生は斬り込んでこなかった。


「そう。殺すことは怖いこと。当たり前のことです。当たり前のことなんですよ、剣誠君」


 だけど、俺は殺意を振り撒くことしか考えてなくて。

 静寂に包まれる道場に、俺の嗚咽だけが響く。

 そんな中でも先生は、音を立てることなく刀を構え、


「それでもね、『極』を望むなら、その当たり前を壊さなければならないのです」


 『鬼神』の覇気を見せつけてくる。


「あなたの前には選択肢があります。このまま殺すことを拒み、『極』を諦め、私に殺されるか。それとも、私を殺し、『極』に至るか。死にたくないでしょう? 誰だってそうです。だからあなたは私に挑むしかないのです」


 『極』。八咲がいる領域。八咲が望むは対等の理解者。それは己を明かし、相手に理解してもらいたいと望むことを指す。しかし、八咲は父に殺されかけ、父を斬ったという血みどろの過去を持つ。そんなアイツの魂を理解できる人間なんていない──俺を除いて。


 俺は母親に殺されかけ、妹は殺された。だからもう二度と死の恐怖に負けないよう強くなって、大切な人たちを守るために剣を磨いてきた。殺意が内側で渦巻いている俺の魂なら、同じように殺意に溺れかけた八咲を理解できる。


 剣を交わして魂をつなげる、そんな領域へ行かなきゃいけない。


「そのためには、先生を殺すしか、ない」


 つまり、俺が採るべき選択肢はやはり後者なのか?


「違う」


 嫌だ。絶対に嫌だ。俺は先生を殺したくなどない。

 じゃあどうすればいい。俺はこの矛盾を克服しなければならない。


「絶対に、違う」


 自分にとっての『要』を殺すことでしか『極』に辿り着けないという定説を、覆せ。

 先生を殺さずして、『極』の領域へ踏み入れてみせろ。八咲に「やってやったぜ」と報告するのならば、それくらいしなければ話にならない──。


「う、あぁああッッ!」


 刀を握り締める。先生の提示する選択肢を否定するために。


「ああ、愚かな子」


 地獄の始まりだった。日本最強の剣士が振るう太刀を捌きながら、活路を見出しにかかる。無論、天地ほどの実力差があるのだから、そんな芸当がいつまでも続くはずがなかった。俺の腕に稲妻が落ちた。刀を叩き落とされる。先生の斬撃は、俺の全力の太刀よりも速い。


 眼前で、切っ先が煌めいた。瞬間、床に着いた血で、俺の足が滑った。

 視界が揺らぐ。俺の喉めがけて繰り出された先生の突きが、逸れていく。


 斬、という音。


「あ、づぅうッ」


 死んだ、と思った直後、右の頬と耳に炙られたような痛みが迸る。生きている。たまらず転んだ。粘り気のある音が鼓膜に響く。自分の血だと気付くのに時間がかかった。


「ううぅ、ぁ、あぁあああ、ああ」


 闇が迫る。足元からじわじわと、奈落の沼が這い寄ってくる。俺を飲み込もうと大口を広げる。一縷いちるの希望も押しつぶす理不尽の極み。これが黒神 桜。『鬼神』と呼ばれた最強の剣士。俺の上位互換にして、俺が憧れた剣の極致。


 朦朧とする視界の中で、先生が俺を見下ろしてくる。

 その目は禍々しい星のようだった。絶望と恐怖で満たされた月が宿っている。

 容赦なく心をへし折り、殺すという意思が俺の魂を切り刻むのと同時に、





 気付いた。どうして先生は、俺に止めを刺さない?





この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?