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三十一本目:『要』の壁

「私と、勝負がしたい? 稽古じゃなくてですか?」


 時刻は夜八時。学校を離れ、俺は道着一式を試合用に替えて黒神道場を訪れていた。


 道場の応接室にて、ソファに座りながら先生と相対する。人の目に優しい、落ち着いた印象を抱かせる色彩の空間だ。


 しかし、今は落ち着くどころかただならぬ緊張感に包まれていた。心臓の鼓動がうるさい。先生の言葉の端々から滲む覇気に肝が冷える。


 それもそのはず。この人は世界最強にして、俺が今まで跪いてきた人なのだから。他者の心をへし折ることに特化した覇気が『鬼神』の掌を象って俺に向いている。


「僕が八咲に勝ちたいのは知っているでしょう。明後日がその舞台である道場戦……もうなりふり構ってられないんです。なら、最強であるあなたと勝負して鍛えたい」

「別に勝負はいいのですが、その心は?」


 少々、言葉に棘を感じる。俺の思考に勘付いているらしい。さすが俺を長年見てきた師匠というべきか、付き合いの長さはどうあっても誤魔化しきれない。


「『要』を超えて、『極』に辿り着くためです。『要』を極めたあなたでさえも八咲に勝てないのなら、さらに先に行くしかない。その方法は──」


「自分にとっての『要』に打ち克つこと、でしょう?」


 言葉を盗られた。知っていたのか。ならば何故、この人は『極』に踏み込めていないのか。


「私が『極』に至れないのは二つ。まず一つ目は、私自身の思想と剣が矛盾していること。これは当然ですね。要は魂が入っていないの。心がブレている以上、辿り着けやしない」


 信念か。自分の信じた道を迷わず突き進む、そういった強さが求められるのだろう。


「二つ目は、私には乗り越えるべき『要』が存在しなかったこと。言ってしまえば、私を脅かす存在がいなかったのです」


 つまり本当の意味で無敵だったから、本気で相手するヤツがいなかったってことか。


「釣師範や、八咲は?」

「あの二人は、私と出会った時から既に『要』から解脱(げだつ)していました。乗り越えるべきはあくまで『要』にいる、自分にとっての脅威なんです」

「じゃあ、僕なら」

「それじゃあ本末転倒じゃないですか。私を至らせてどうするのです?」


 クスクス、と呆れたように笑う先生。


「それに、あなたじゃまだ、足りません」


 おまえじゃ私の脅威足り得ない、そう宣告された。自然と、膝の上の拳を握っていた。


「焦る気持ちは分かりますが、『極』には簡単に辿り着けません。無茶な真似は止めなさい」

「そうやって、いつも保護者みたいな面しますよね」


「え?」と先生がぎょっ、とした目で俺を見る。拳を握る力は弱くなりそうにないから。




「僕とあなたは血、繋がってないでしょ」




 一番言ってはいけない言葉だ。ごめんなさいと心の中で謝りながら投げつけた。これまで積み重ねてきたありとあらゆる心を台無しにする言葉を聞いて、先生の目が細くなる。


「……ああ、それを、言ってしまうのね」


 先生の背後が黒く染まっていく。覇気は徐々に規模を広げ、広間全てを塗りつぶす。


「いつかこんな日が訪れるとは、思っていたけれど、こんなに早いなんてね。この贖罪の日を喜ぶべきか、嘆くべきか」


 先生が席から立ち上がり、歩きながら俺に背を向けて独り言を漏らす。その意味は分からなかった。しばらく歩いたと思ったら、一瞬立ち止まり、俺の方を向いた。


 背筋が凍るほど、冷たい表情をしていた。


「剣誠君。あなたは私の弟子ですが、同時に放っておけない弟のように思っています。せっかく拾った命、幸せになってほしいと、そう願って剣を教えてきました。ですが」


 嵐の前の静けさが訪れる。一度、先生の背後からきれいさっぱりと覇気が消えて。

 馬鹿なことを言った弟子を、先生は片目から涙を流しながら、


「それを言ったからには、覚悟できてるんでしょうね?」


 『鬼神』の掌を振り翳した。全開の覇気が俺という命を蹂躙する。冷や汗が一気に噴き出る。握った拳の爪が皮膚を抉りそうだった。


「道場に来なさい。その覚悟が本物かどうか、確かめてあげます」


 ぽたり、と頬を伝った汗が顎先から拳に垂れる。心臓が激しく痙攣して止みそうにない。

 でも、ここで退くワケにはいかない。八咲が待っている。高みで俺の到達を待っている。

 倒すんだ。俺にとっての憧れを、目標を──師匠を。





 道場に入った俺は、防具を着けようと荷物を壁際に置く。手が震える。防具袋のチャックを開ける手に上手く力が入らない。


 情けない。先生の覇気に怯えている。試合用の道着が汗を吸って重く感じる。


「……無理もないか」


 これまでの稽古で桜先生から一本を取ったことはないのだ。あの女に殺されかけて以降、俺の人生の指針になってくれた先生は、俺にとって絶対の存在なんだ。その人と本気で勝負をする。今まで味わったことのない恐怖が待っている。


「防具は着けなくて構いません。私も着けませんので」


 俺の思考を押し退けて、先生が言葉を放った。


「え、どういうことですか?」


 先生は答えず、無言のまま道場を横断する。

 向かう先は神棚──の下。そこには鍵付きの扉があり、奥を見たことはない。




 その扉を、先生が開けた。




 びゅおう、と怖気を誘う風が吹いた気がした。真っ暗だった。しかし、ただ暗いだけじゃない。底知れぬ悍ましさを感じる。


 霊安室のような空気が漂うその部屋は、人間である俺が踏み込んでいい領域ではないのかもしれない。入れば最後、俺は人としてあるべき姿を失う気がする。


 しかし、先生は躊躇なく足を踏み入れた。まるで自分は人間から逸脱しているとでも言うように。なら、俺も進まざるを得ない。


「ここ、こんな部屋だったんですね」


 奥には、二本の黒鞘の刀が飾られていた。直感で分かった。鞘からこちらの心臓を握りつぶさんばかりの重厚感が滲み出ている。


 あれは模造刀じゃない。真剣だ。この部屋には真剣が納められていたのか。

 先生も剣道一家の人間だ。真剣があっても不思議ではない。


 問題は、どうして先生がこの部屋に足を踏み入れたか。


 先生は二本の刀のうち一本を手に取り、僅かに刀身を抜いた。道場から注ぎ込んでいる蛍光灯を反射させ、鈍く輝いている。刀身に映る自分の表情を眺め、先生は僅かに目を細めた。


 そして、目を閉じて、意を決するようにかちりと納めた。


 何故だか分からないけど、その動作がやたらと不吉に見えた。先生がもう一本を手に取って、眺めることしかできない俺に歩み寄ってくる。


 先生が一歩を踏み出す。床が軋む。音が近づく。それに合わせて、俺の心臓の鼓動も加速する。不吉な予感。俺の肌がざわついた。


「先生?」と尋ねても先生は答えない。ただ、光の消えた目で、俺に刀を差し出して。




「取りなさい」




 低い声で、短く、告げた。


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