達桐が八咲の元を去ってからしばらくした後だった。
「ふぅ……さて、霧崎さん。そこにいるんだろう?」
八咲がベンチでスポーツドリンクを飲み干し、柱の陰に声を掛けると、霧崎が姿を見せた。表情は険しかった。二人だけの空間で、彼女たちは真正面から相対する。
夕風が強く吹いた。雲が流れ、太陽が隙間から顔を覗かせる。八咲の座るベンチは体育館の屋根で日陰となり、霧崎の立つ地面は炎のような色の日差しに包まれた。
「気付いてたの?」
「ああ。気配が乱れまくっていたからな。服の擦(こす)れる音や、足が地面を踏む音、息使い、すぐに分かったよ。剣誠はあの様子だから、気付かなかっただろうがな」
剣誠、という音を聞いた瞬間、何かを堪えるように霧崎がジャージの裾を握り締めた。
「君も言いたいことがあるようだな。それじゃあ少し移動しようか。ちょっとコンビニまで付き合ってくれたまえよ」
八咲がコンビニでみたらし団子を購入し、近くの公園でベンチに座りながら封を開けた。
二人が一口食べ、飲み込んでから、八咲が口火を切った。
「私と剣誠のやり取り、聞いていたんだろう?」
「まぁ、おおよそは」
「出てくればよかったじゃないか。剣道においては大事なことだぞ」
「よく言うよね。空気で入ってくるなって言ってたくせに」
「そんなつもりはなかったがね」
「ウソつき」
八咲は何も返さなかった。ただ困ったように苦笑を浮かべるだけだった。霧崎は彼女の表情を見て、意を決したように息を吸い、
「八咲さんは、ホントに自分勝手だよ」
力強い目で八咲を見ながら、言葉を叩きつける。
「自分は体張って道を説いているつもりかもしれないけど、肝心の自分は喘息を抱えてるんでしょ。そんな身体で無茶するなんて他人を心配させるだけだって、なんで分かんないの?」
「私は別に、無茶などしていないよ」
「してるじゃんか。今日だって、倒れる寸前まで黒神先生と戦って、ウチがフォローしなかったら本当に危なかったんじゃないの?」
ぐ、と顎を引いて目線を下げる八咲。
「『極』っていうのがどんなことを言ってるのか、はっきりとウチには分からない。たとえ理屈で分かったとしても、それはきっと違うんだろうね。だけど、辛い過去を背負ってる八咲さんがそうやって自分を追い込んで、苦しもうとしているのをウチは正しいとは思えない」
「仕方なかろう。私はそういう宿命を背負ってしまっている」
「家族を斬ったから? 喘息だから?」
「ああ、そうさ。こんなこと、普通の人に理解できるはずもない」
「そうやって、自分を特別扱いするなよ」
その一言が、八咲の思考を断ち切った。
「な、に?」
「自分を特別扱いして、ウチと距離取ってるんでしょ?」
前半はともかく、後半の内容に八咲は黙った。その沈黙は霧崎の言を肯定していた。
「剣誠くんもそう。剣道初心者のウチにも優しくしてくれる。すごく嬉しい。昔から剣誠くんは優しかった。本当に感謝してる。けど、肝心な一線は超えさせないようにしてる」
買い出しに行こうとした時、達桐は霧崎に帰れと言った。
八咲が東宮と戦っていると気付いた時、達桐は霧崎に来るなと言った。
そして八咲と『極』についての問答をする際にも、霧崎を遠ざけた。
剣道がスポーツの領域じゃなくなる瞬間、達桐は霧崎を突き放していたのだ。
「剣誠くんも八咲さんと同じようなこと言ってた。君らは一緒だよ。言い方悪いけど同じ穴の狢だよ。なんで二人は揃いもそろって自分を大事にしないの?」
「だから、私たちが歩んでいるのはそういう道なんだよ」
「だからって、自分を労わらっちゃだめなんて道理はないでしょ?」
今まで見せたことない霧崎の剣幕に、八咲が怯んだ。
「特に八咲さん、あなたは最悪。喘息で倒れてるのに、そういう気遣いが一番嫌い? あれ、すっっっごく傷付いた。酷すぎるよ。心配するに決まってるじゃん。当然でしょ?」
友達だと思ってるから、霧崎はそう続けた。
「剣道する女子が増えて嬉しい、って言ったのはウソだったの?」
「ウソじゃない。でも、私や剣誠のいる領域は君のいる世界とは違うんだ。私たちは血で汚れ、死に犯され、憎悪と殺意が渦巻く過去を背負ってここにいる。そんな惨たらしい世界に、君のような純粋な子を巻き込むワケにはいかない」
「それを自分で決めるなって言ってるんだよ! ウチから見たら、八咲さんも剣誠くんも普通の高校生。いじめられてたら助けてくれて、足を挫いたら手当てしてくれて、理不尽なことされたら怒るような、普通の高校生だよ」
どんな過去を背負うと、どんな世界に住んでいようと、霧崎は。
「だから、仲間外れに、しないでよ」
達桐と八咲という異次元の存在に、歩み寄りたいと強く願った。
「ウチね、八咲さん。剣誠くんのことが、好き」
「ッ」
八咲の瞳に、明確な揺らぎが生じた。
「小学生の頃、ウチは同級生の男子にいじめられてた。見た目も暗くて、運動神経も悪かったから格好の的だったんだろうね。そんなところを剣誠くんが助けてくれた」
本人は助けたつもりはないって言ってたけど、と付け加える。
「気になり始めたのは、それからだと思う。そんな最中(さなか)だった。母親の事件を聞いたのは。今振り返れば、ウチは何もしてあげてなかった」
「小学生……そうだったのか。君たちは、昔から」
「そう。ずっと一緒にいるだけで、ウチは何もしてなかった。歩み寄ろうと、してなかった」
霧崎が、痛みを堪えるように自分の胸を掴んだ。
「そんな事件があっても、剣誠くんの心はずっと変わらなかった。妹想いで、優しくて、剣道が強くてカッコよくて、ちょっとアホなところとかも、ずっと」
そうか、と返す八咲の頬は引き攣っていた。受け答えに余裕が無くなっている。
「剣誠くんって、いつも強がってるの。だからわざと傷付く方へ飛び込む。だけどなまじ強くてどうにかしちゃうから、自分が傷まみれになっとることに気付いてないの。近くで見てたから、ウチにはよく分かる」
殺意に身を委ねて、襲い掛かる恐怖を振り払う。そんなやり方でしか、彼は。
「怖くて悲しくて叫びたいのに、剣誠くんは我慢して、一人であろうとしてる」
常に彼は、自らに呪いを掛けていて。
「剣誠くん、あの事件からしばらく誰とも口を利かなくなった。周りが全部敵だとでも言いたげな顔して。そんな剣誠くんに、ウチは何もしてあげられなかった」
ぐっ、と霧崎が唇を噛み締め、ジャージの裾を握り締めた。
「ウチはあなたに嫉妬してる」
喘ぐように、霧崎が本心を吐露した。
「八咲さんは剣誠くんと同じ世界を見れるだけじゃなくて、それ以上のレベルで剣誠くんと関われる。剣誠くんから見たらどっちが魅力的に映るか、それが分かっちゃうから怖かった」
赤裸々に、告白する。
「剣誠くんを取られると思った。だから、入学式のあの日、剣道部に入るって言った」
不純な動機だとは彼女も理解していた。それでも、
「でも、東宮さんとの戦いの後、剣誠くんと三日間会えない間で考えた。殺伐とした道へ行こうとしている剣誠くんに、今度こそ何かしてあげられないかって」
あの殺し合いじみた戦いを見たからこそ、彼女は。
「剣誠くんを取られるんじゃないかって怖さより、危うい強さを持つ剣誠くんの心を支えたくて、もっと彼のことを知りたくて、同じ世界を見たくて、本当の意味で剣道を始めようと思った。東宮さんとの試合を見ても、剣道部に入ろう思ったのはそれが理由」
不純な動機ではなく、好きな人を支えるためにはどうすればいいかを考えたから。
「ウチは、八咲さんをライバルだと思ってるけど、尊敬もしてる。綺麗で可愛くて、決して曲げない信念があって、剣道も強い八咲さんはカッコいい。ウチが男子なら告白してるかも」
何度もつっかえながら、霧崎は思いの丈をぶつけ続ける。
「だから、ウチは八咲さんとも友達になりたい。本気でそう思ってる。矛盾してるでしょ?」
八咲は黙って自分の団子を見つめている。彼女の目に、琥珀色に染まる自分の顔が映った。その表情は動揺していた。彼女は強張った自分の顔を眺めることしかできなかった。
「ウチは、二人がウチの踏み込めない世界で遠くに行こうとしてるのが怖いの。置いて行かれそうになるのが、怖いんだよ」
霧崎の声が震える。八咲が力なく首を振った。
「言っとくけど、強さの話じゃないから。二人がウチを置いて強くなるのが怖いってことじゃない。そんなワガママはさすがに言わない。そうじゃなくて、心の話。友達の二人の心が、遠くに行こうとしてるのが怖いの」
達桐と八咲は後ろめたい過去があるからこそ、自分たちの世界に近付けないように彼女と距離を取ろうとしていた。剣道に興味を持ってくれることは嬉しい。
されど、深奥にまでは踏み込ませない──二人はその葛藤をどうにかしようとしたが、失敗した。いくら突っぱねても遠慮なく踏み込んでくる。そんな強さを持つ霧崎の魂を拒絶しきれなかった。
「だから、ウチの心を置いて行かないでよ。ウチ、足遅いんだから。嬉しい、って言って歓迎したくせに、なんで突き放すような真似するの。酷いよ」
「嬉しいと言ったのは本心だ。剣道に興味を持たない人の方が多い世の中、たとえ剣道に興味を持っても、実際にやる人はさらに限られてくる。だから初心者は宝なんだ」
でも、と八咲が一つ呼吸を置いて、
「剣道を突き詰め、極めようとすると幾重の壁が出てくる。超えなければならない峠がいくつもある。私もまだまだ道の途中なんだ。そうして探すうちに、苦しいことにも、試練にも直面するだろう。剣誠にとっては今がそうだ」
さぁ、と公園の砂が吹き込んだ風で微かに舞い上がる。
「そしてこれはずっと続く。道を歩み続ける限り死ぬまで。特に私たちはそうだ。家族に殺されかけたという傷がある限り、この傷と一生向き合って生きていかなければならない」
鼻を啜りながら、霧崎は話を聞いていた。
「剣道を好んで、剣道に触れようとしてくれること自体は嬉しい。でも、私や剣誠のように、それでしか生きられない生物になったら、住む世界が変わってしまうんだ」
「だから、友達にはなれない、って?」
「よしておいた方がいい、ということさ。きっと心が
ギッ、といつまでも平行線な会話に、霧崎が歯を軋ませた。
「余計なお世話。そんなのはウチ次第じゃんか! ウチは、ウチは、絶対二人と友達って言い続けるから! 絶対心を離さないから! 明後日の大会だって見に行くから!」
捨て台詞を吐いて、泣きべそをかきながら走り去る霧崎。残された団子が切なそうに琥珀色のタレを溢していた。ベンチに頭を預け、八咲が遠い夕暮れの空を見上げる。
「やれやれ。なんでああも私たちのような異常者に近付こうとするかね。あのような姿は、見たことがない。理解しかねるな……」
この時、八咲は気付いていなかった。自分が、致命的な乖離を生んでしまったことに。