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二十八本目:キワミガタリ

 絶句。開いた口が塞がらない。自分にとっての道標が、夢の形が、信じていたものが。


「桜、先生」


 縋る。これは夢だ、悪夢だ。違う違う違う。そんなはずはない。あってはならない。俺の目指した最果てが崩れるなんてそんなことが。


 だけど、俺の泣きつくような目を見た先生が、申し訳なさそうに目を伏せて。


「剣誠君、白旗を上げなさい。面アリ、私の負けです」




 俺の魂に刺さっていた剣が、硝子のように砕け散った。




 ぶるぶる、と震える手で白旗を上げた。


「ヒュー、ハァ、さすが、に、キツ、かった、な」


 ふらり、と覚束ない足取りで開始線まで戻る八咲。

 最強を斬った存在を、俺は震える視界で見ることしかできなかった。


「す、すげぇえ! 黒神先生に勝っちまった!」


 部員たちが八咲を囲い始めた瞬間、香織が全速力で割って入った。


「八咲さん、しっかりして!」


 香織が八咲の体を抱え、同時に頽れる。面を剥がし、すぐに吸入器を咥えさせた。

 空気の抜ける音がして、八咲の様子が少しずつ落ち着いてくる。


「試合中、喘息起きてたでしょ! なんで、そんな」

「それ、が。私の、業、だから、だ」


 ぐい、と八咲が香織を押し退ける。香織はどこか歯がゆそうに口を戦慄かせ、


「で、でも、そんな無茶したら」

「すまない。そう、いう風に、気を使われるのは、一番、嫌いなんだ」

「そんな、言い方」


 八咲は言葉を失った香織から俺に視線を移し、


「分かったか、達桐。『要』に囚われている状態では、私には勝てないんだよ」


 そんな言葉は右から左に通り過ぎていった。俺はふらふらと桜先生に歩み寄る。


「ごめんなさい、あなたの師匠なのに。カッコ悪いところを見せてしまいました」


 跪く先生の面を外し、露わになる素顔に問いかける。


「先生、なんで、負けたんですか」

「それ、は」

「先生は最強なのに、全日本だって、誰にも負けなかった。なのに、なんで」


 敗者に敗因を問うなど酷なことであると分かっているが、聞かずにはいられなかった。


「『極』、ってヤツなんですか。先生は辿り着けていないんですか? 全日本まで制したのに」

「八咲さんは辿り着いている。私は、辿り着けなかった。それだけの話です」


「おかしいでしょ! あなたは日本最強、いや、世界最強なんだ! あなたが辿り着けずして誰が辿り着くって言うんですか! なんなんですか、『極』って!」


 涙を堪えながら問い縋る。未だに現実が正しく認識できない。

 桜先生が負けたなんて、ありえない。


 俺が目指すべき剣は天下無双。最強にして無敵の殺人剣。大事な人たちを守るために、斬り伏せて捻じ伏せて突き進み、辿り着くは孤高の頂。そこにこの人はいた。


 故に誰よりも剣の深奥に触れているはずだ。なのに、どうして。ぐにゃり、と俺の視界が歪んだ瞬間、


「答えが知りたいか、達桐」と意識の遠くから、凛とした声が響いてきた。

「知りたければ、そうだ。賭けは私の勝ちだ。スポドリを奢れ。そしたら話してやろう」





 道場の外。砂埃が舞って土臭い。焼けた空から射し込む夕陽の陰となるベンチ。背中には体育館。グラウンドの掛け声が遠くに聞こえる。


「ほらよ」


 座る八咲に買ったスポドリを渡す。ドヤ顔で受け取る八咲。腹立たしい。今はコイツと二人だけ。

先生も香織もいない。というか、俺が二人だけにしてくれと頼み込んだ。


 桜先生は顧問としての報告を済ませるために席を外している。


 香織はジャージを握り締めながら、顔をくしゃりと歪めて頷いていた。その姿が、どこか脳裏に引っかかっていたが、今は気にしている余裕なんかない。


「さ、いただこうかな。人のお金で飲むスポドリはさぞ美味しいだろう」


 八咲が笑顔で一口飲む。しかし、上手く飲むことができず、僅かに唇の端から零していた。ぎこちない動作でそれを拭う。相当に疲れているのは間違いない。


 よほどギリギリの中で桜先生を倒したのだとどうしても分かってしまう。

 自然と、拳に力が入っていた。


「おまえ、桜先生を倒したな。なんだ、最後の技は」

「釣師範から伝授された技さ。上手く決まってくれてよかった。外れたら確実に負けていたな」


 ぬるりと滑るようにして踏み込む謎の技。桜先生を打ち破った未知の一撃。


「なによりも、あの真剣と対峙するような迫力はさすがに肝が冷えた」

「じゃあなんで勝てたんだよ。おまえ一体何なんだ? どうして桜先生はおまえに負けた? 先生やおまえの言う『極』って何なんだ? 答えろ」


「そんな矢継ぎ早に言われても答えられるワケがなかろう。ちょっと落ち着き給えよ」


 どうどう、と俺を諫めるような手の形を見て我慢の限界がきた。


「落ち着いてられるか! 俺は、俺が最強だと信じていた人が目の前で倒されたんだぞ! しかも倒したいと思っているヤツに! これで冷静でいろ、って方が無理だろうが!」

「なら尚更落ち着け。答えを知りたければな」


 技術とかの話ではないのか。いや、ならばそれこそ先生が負けるとは思えない。体格も似ている。速度は先生の方が上だった。膂力は何とも言えなかったが、初撃を見る限り大差はないと思われる。ますます八咲が先生に勝った理由が分からない。


「まず、君の剣についてだ。東宮との戦いでよく分かった。触れるもの全てが敵で仇だと言わんばかりに殺意を振り撒く、血と臓物に塗れた修羅道の剣。それが君だろう」


 そうだ。それが俺だ。あの時にコイツが言っていた、他者を理解し、歩み寄るなんて考えは持ち合わせていない。何故なら剣は傷付ける物であり、殺す物だと信じているから。


「黒神 桜を彷彿とさせる剣だ。なるほど、彼女の弟子らしいなと納得したよ」

「そりゃあな。あの人の剣を見て育ったんだから、当然だろ」


 言うや否や、八咲がこれ見よがしにため息を吐いた。


「あの矛盾した存在こそが、君にとって最大の壁なんだよ」

「はぁ?」


 スポドリを飲む八咲の喉の音がやけに大きく聞こえる。

 グラウンドで行われている部活の掛け声も、頬を叩く夕風の音も耳に入ってこない。


「とある軍人の話をしよう。年は二十半ば。第二次世界大戦も末期の時代だ。戦場は沖縄。敵兵と遭遇した軍人は、弾薬の切れた銃火器を放り捨て、腰に差していた刀を抜いた」


 何の話だろうか。意図が読めず首を傾げるが、口は挟まずに先を促す。


「軍人は剣の達人だった。訓練でも無敗だった。誰よりも最強になると息巻いていた。彼は気勢の声を上げて吶喊し、二発の銃弾を受ける代わりに、四人の敵兵を屠った」


 作り話にしては、いやにスラスラと出てきやがる。ということは、これは。


「恐れを為した敵兵は撤退を始めたが、彼は背中を追い──殺した」


 殺した、という単語に心臓が強く鼓動を立てた。


「次々と、次々と。気付いた時には辺り一面が屍山血河しざんけつがだったそうだ」


 息を飲む。本物の戦場で、銃を持つ敵兵を討ち果たすとは。命のやり取り。一秒後には死が訪れる血煙の中、刀を握って猛進する鬼のような軍人の姿が目に浮かぶ。


 体が震えた。それは恐怖か。武者震いか。


 そうだ。そんな逆境を覆すほどの力量を以って無双する。それが俺の夢見る景色。


「だが、彼は気付いた。死と血で染まった世界。周囲には火の手が広がっている。足元には臓物と首が転がる死骸の山。こんな景色が、自分の求めていたものなのか、と」

「な、に?」


 しかし、俺の理想とも言える存在は、辿り着いた夢の果てを否定した。


「血に塗れた姿から悪鬼羅刹と恐れられた彼の名は、釣 明人。後に全日本選手権を三連覇する、伝説の剣士だよ」


 釣 明人。桜先生の師匠にして、未だ破られない伝説の記録を持つ剣士。

 今の話は、釣師範の若かりし頃の武勇伝か。


「そこから彼は、剣の意味を疑うようになった。殺し殺され、殺し合いの螺旋をさまよう剣に一体何を生み出すことができようか、と。生まれるのは死と恐怖。そして復讐の連鎖だ。そんなものが剣の真実であるはずがないと、彼は己の剣を否定した」


 自分の歩んできた道を否定する。そんな愚行とも言えることが、俺にできるだろうか。


 あの女に殺されかけ、俺には剣しかなくなった。剣しか宿せなくなった魂がボロボロになりながらも歩んできた軌跡を、否と断言することが、できるのか。


「そうして彼は一つの答えに辿り着いた。剣を抜いて人を殺すことは剣の『要』だ。生まれた意味、中心的な意味だ。剣が剣をやめられない以上、消すことのできない呪いだ」


 分かる。それは痛いほど分かる。殺すことが剣の役目。殺す技術が剣技なのだ。剣道はそれが安全化したものに過ぎない。殺意を風化させ、偽りの皮を被っているに過ぎない。


「だから、『要』という逃れられない宿命を上書きする道を見出した。それが『極』だ」


 剣を抜かないために、剣を抜いて稽古するという矛盾。桜先生はその答えを、征圧と定義した。覇気で心を折ることと意味づけた。でも、八咲には、勝てなかった。


「『極』、ってのは、結局、何なんだ?」

「まぁ、そう結論を急ぐな」


 八咲が一息つくようにスポドリを再び飲み、「次の話だ」と切り出した。



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