一年生は全体でA~Fの六クラスある。俺は一年A組だった。入学式に自己紹介と定番の流れを終えたところで、担任からいくつかの連絡事項を言い渡されて今日は解散となった。
確か道場は渡り廊下を渡ったところにある運動施設の棟だった。
周囲のクラスメイトたちは各々で連絡先を交換し合ったりしているが、俺にはどうでもいいことだ。
肩には竹刀袋と防具袋。教室内で飛び交う声を無視して廊下に出る。
「あ、いたいた! ちょっと待ってよ剣誠くん!」
背後から元気のいい声がした。振り返る。
挫いた足の方に重心を掛けないように歩いているせいか、少しぎこちない。
「おお、香織。隣のクラスだったのか。ちゃんと歩けてるようで良かったよ」
「うん、おかげさまで。これから部活? やっぱり剣道部?」
「そりゃあな。むしろそれ目的で入学したんだから」
あと、妹の墓が近いから。それは言わなかった。
どこかで八咲を倒す。大会じゃなくてもいい。道場稽古でも問題はない。とにかく強くなってまずは八咲に勝つ。それが今の俺の目標だ。
「そういう香織はなんか部活入るのか?」
「ウチ? うーん、そうだなぁ、中学まで吹奏楽部だったけど、どうしようかなぁ」
腕を組んで唸る香織。今朝あんなことがあったんだ。少なくとも剣道部はないだろう。
香織は香織で楽しい部活を見つけてほしいものだ。そう思いながら背を向けた、瞬間、
俺の横から、あの煌びやかな鉄の音がした。
「──」
心臓が痛みを伴って跳ね上がった。咄嗟に横を向く。そこにいたのは、
「八咲、沙耶」
俺の憎き相手である八咲 沙耶が竹刀を担いで歩いていた。
自分の名を呼ばれたことに気付いたコイツは、足を止めて振り向いた。
「ん? おや、誰かと思えば。君はひょっとしたら、いやひょっとしなくとも、前の大会で戦った達桐 剣誠ではないか? 事実は小説よりも奇なりと言うが、まさしく言い得て妙だな」
変な喋り方だった。どこか詩人めいているというか、芝居じみているような。
「何故覚えているのか、とでも言いたげな顔だな。忘れたくても忘れられないさ。君の剣は今まで対峙したどの相手よりも強烈な覇気に満ちていた。肌が裂けるような緊張感は昨日のように思い出せるとも。ここで会ったのも何かの縁だ。君との再会を嬉しく思うぞ」
笑顔で握手を求めてくる八咲。手には無数のマメがあった。とてもじゃないが女子の手とは思えないほど痛ましい。想像を絶するほどの修練を積んできた証だ。だからこそ腹が立った。
苦い漢方薬を飲んだ気分で八咲を睨む。凛という文字が似合う、清涼剤じみた雰囲気がある。
光の消えた黒い瞳。
瞳とは対照的に肌は雪のように白い。紺のブレザーに包まれた起伏の少ない華奢な体は、叩けば折れてしまいそうだ。
「なんでおまえがここにいるんだよ」
「理由を問われても、家が近くて学費が安いからな。そして剣道部に入るつもりだから、道場に向かおうとしたのだが?」
まぁ、そうだわな畜生。それ以外の理由がねぇよ。
「それとも、私が入部するのに、何か不都合があるのか? ものすごい不満そうだが」
握手に応じない俺を訝しく思ったのだろう、腕を組んで眉間に皺を寄せながら尋ねてくる。
そりゃもちろん──と、そこまで考えて気付いた。これはむしろチャンスではないかと。
違う高校だった場合、
道場の稽古でも不可能ではないが、あの大会以外でコイツを見かけたことがないし、あまり道場に顔を出さない人間なんだろう。
ところが同じ高校だった場合、いくらでも試合をするチャンスはある。入学式の時に配られた部活紹介の冊子で見たが、光陽高校剣道部は女子がいない。
ならば、八咲も男子に混じって稽古するに決まっている。ここで会ったが百年目だ。
「別に不満なんかねぇよ。むしろ大歓迎だ。あの大会以来おまえを見かけなかったからよ、てっきり地元の道場の人間じゃなかったのかと思ってた」
「私は釣師範の道場にいた。師範が亡くなってからは無所属だがな」
なら桜先生の妹弟子にあたるのか。今朝の桜先生からそんな様子は感じ取れなかったけど。
俺が八咲に敗れたあの大会は地元の道場に通っている人間が大半を埋めたから、ほとんどが顔見知りだ。八咲は見たことがなかったので、外部の人間だと思ってた。
地元には桜先生の道場以外にもう一つの道場がある。それが釣 明人師範の道場である。しかし、師範が亡くなっているため現在は閉鎖中だ。
「なんでだよ。黒神 桜っつったら全日本最強だぜ? 通わねぇ道理はねぇだろ」
釣師範が亡くなった後、大半の子どもは黒神道場に流れ込んできた。その中に八咲はいなかった。釣道場で稽古をしていたのなら、桜先生のところに来るだろうに。
「ふん、彼女とは馬が合わん。剣道が根本から違うのだから師事する意味がない」
腕を組みながら顎を上げる八咲にイラッと来た。
「随分エラそうに言うじゃねぇか。おまえ桜先生より強いのかよ」
「強さでしか人を測れないのか君は」
そこで、俺と八咲のやり取りを見ていた香織が口を挟んだ。
「え、二人は知り合い、なの?」
「ムカつく相手」
「そのムカつく相手に前の大会で負けているが、どんな気分だ?」
どやぁ、と胸を張る八咲。女じゃなきゃ殴ってる。
「あ、あぁ~、なるほど」
香織がどこか納得したように手を叩き、すすす、と数歩退がる。
「こんな可愛いコが知り合い……聞いてない……」
唇を尖らせてなにやらブツブツと言っているが、上手く聞き取れない。スカートの裾を握り締めていることから何かを我慢しているようだが、一旦置いておく。目下の問題は八咲だ。
「テメェ、一回俺に勝ったからって調子乗んなよ、このぺったんこが」
「ふん、貧相な語彙力だな。国語は大丈夫か?」
「生憎、国語は得意なんだよ。入試の点数、開示してもらったら九十七点だったんだぞ」
他が壊滅的だったのは内緒である。
「そうか。私は百点だ。ちなみに国語だけではなく、全ての科目で満点だったが?」
カウンターを食らった。可愛げのない女だ。そんな俺らの一触即発の空気が伝わったのか、
「ちょちょちょ、落ち着いて剣誠くん! 今朝とは事情違うって! こんな喧嘩だめ!」
ぐい、と香織が俺の肩を掴んで引き寄せる。邪魔されたことに少し苛立ったが、香織に怒ってもしょうがない。
「まぁいいや。おまえも剣道部なんだろ八咲。入ってからは毎日、おまえを倒すまでずっと勝負挑んでやるからな。逃げんなよ」
「え?」と疑問符を浮かべるのは香織だ。
「ふん、いいだろう。そうやって勝ち負けにしか拘れず、どっちが上かでしか語れないような男に私が負けるはずがない。君とは立っている領域が違うからな」
「ええ?」と再び驚く香織。
「や、八咲、さん? も、剣道部なの?」
「うむ、そうだとも。不本意ながらこんな下賤な男と同じ部になるようだがな」
「俺としてはラッキーだ。他の学校だったらおまえに勝負挑みにくいからな」
俺と八咲の間で火花が飛び散りそうなほど睨み合っていると、
「う、うぅぅ」と何故か香織がものすごく葛藤するように目を閉じて唇を噛んでいた。
よく分からないが、死ぬほど悩んでいることは感じられた。
「う、ウチも」
俺と八咲が見守る中、香織が目をつむって拳を握り、
「ウチも、剣道部に入るッ!」
なんて宣言をしてきた。
「ええ? 昔は運動神経ないからいい、って断ってたじゃねぇか」
「む、昔は昔! 今は違うもん! 剣道部に入りたい理由ができた、っていうか……」
「今朝、剣道部の先輩にあんな目に遭わされたのにか?」
「……どーせ、君が守ってくれるんでしょ」
頬を膨らませて、俺の背後に回って袖を摘まむ。一体どういうことか、香織は八咲に対して唸っているようだった。一体どうしたというのか。
「それに、あの部長さんは悪い人じゃないと思ったよ」
そうかもしれない。しかし、俺の中であの部長に対する違和感が拭いきれていない。
「で、でもよ、剣道って防具臭ぇぞ? 夏は暑いし冬は寒いしで、華の女子高生が新しく始めるものとしてはあんまおススメできねぇんだけど」
親切心で言うが、香織は眼鏡を飛ばすくらいの勢いで首を振って、
「いいの! いいからやってみたいの!」
力強い発言と必死な形相に思わず圧倒されてしまう。
「お、おぉ、そうか。物好きだなおまえ」
やりたい気持ちを止める権利なんて俺にはない。それに正直なところ、照れが勝って言いづらいが。剣道に興味を持ってくれるのはちょっと嬉しくもあった。
誤魔化すために頭をかいていると、隣の八咲は餌を見つけた猫のように目を見開き、
「ほう! 君は剣道に興味があるのか。それはそれは素晴らしいことだ。私としても女子が入ってくれるのは非常に嬉しい。一緒に頑張ろうではないか!」
一瞬で俺の脇にいる香織の懐に入り込み、手を取った。
「え、あ、あの、ウチ、初心者、だけど」
「大丈夫だとも! 剣道は何歳から始めても問題ない! 生涯続けることのできる数少ない武道だ! ぜひとも一緒に剣道を楽しもう! じっくりと教えてやるぞ!」
太陽のように眩しい顔で鼻息荒く香織に詰め寄る八咲。
「は、はわわわ、最強に顔が良い……」
香織は香織で口を開けたり閉じたりしながら、八咲の熱烈な目線を受け止めていた。
なんか、俺がいたら邪魔な雰囲気だな。
抜き足差し足忍び足。こっそりとこの場を去るとしよう。
「む、待ちたまえよ達桐。君の辞書には協調性という言葉はないのかね」
「あ、待ってよ剣誠くん!」
呼び止められるが無視。サッサと逃げるように目的の剣道場へ向かった。