「すいません、保健の先生っていますか?」
足の爪先で扉を引っ掛けて開ける。行儀悪いとか今は知ったことではない。
学校特有のシン、とした空気。保健室なだけあって薬品の匂いも微かに感じる。ベッドが二つと体重計、そして診察のための椅子。病気の予防を呼びかけるポスターも貼られていた。
「なんだ、誰もいねぇや。勝手に使わせてもらうか」
「ウチ、もうお嫁に行けないよぉ」
回転する椅子に香織を座らせようと近付いたところで、下から声が聞こえた。
見たら香織が眼鏡の奥の顔を真っ赤にして、俺の学ランの襟を掴んでいた。
「なんだよ、お姫様抱っこぐらいで大袈裟だな。あそこで放置される方が嫌だろ」
「そうだけどっ! せめて一言ぐらい許可取ってくれないかなぁ!」
「うるせぇなぁ。別にいいだろ。減るもんじゃあるまいし」
「心の準備が必要なの! 思春期の女子のデリケートな心をなんだと思ってんのさ!」
無視する。ぶーぶー文句を言う香織を回転する椅子に座らせ、足首の具合を見る。
「腫れてるな。断裂まではしてないと思うけど」
「分かるの?」
「専門家ってワケじゃないけど、それなりにな」
剣道でも捻挫はあり得る話だ。衝突して転んだ拍子とか。俺は応急処置の手段を桜先生からある程度伝授されている。もちろん、専門家ほど詳しくはないが。
「ちょっと足持ち上げるぞ。痛かったら言ってくれ」
うん、と香織はスカートを押さえながら返事をした、
足首を四方向にゆっくりと伸ばしていく。どれも痛そうな表情を見せるが、痛いとは言わなかった。スカートの裾を握り締めていることから我慢してるのは分かるけど。
「あ、いたっ」
そんなコイツが明確に痛いと言ったのは、外側を伸ばすように曲げた時だった。
「典型的な
「え、あ、うん。お願い、します」
保健室の棚を探すと、それらしいキットを発見した。中には鎮痛効果のある湿布と伸びるタイプの包帯があった。早めに見つかってよかった。
「また、守ってもらっちゃったね、ありがとう」
包帯を伸ばしていると、香織が口を開いた。
「ん? ああ、さっきのか。別にいいって」
「前も、そうやって気にするなって言ってくれたよね。小学校で、ウチがいじめられてた時」
「あー、そんなこともあったな。あの時も守った、ってつもりなかったけど」
確か集団でいじめみたいなことをしてる連中が気に入らなくて、ボコボコにしたとかだった気がする。そしたらたまたまいじめの輪の中心で蹲ってる香織がいたような。
そこからだった。香織との付き合いは。
「ホンット、変わらないなぁ、君は」
何も返さずに作業をする。
「噂で少し聞いてたけど、乱暴な人って本当にいるんだね」
「さっきの剣道部の先輩か。武道で天狗になるとああいう風になりがちだからなぁ」
弱い者いじめみたいな構図。反吐が出る。武道は何であれ、使い方を間違えたら容易に人を傷付ける。特に俺はそこの分別をキッチリしておかなければならないだろう。
湿布を患部に貼り、外側に固定する力を掛けたいので足の内側から包帯を巻いていく。患部を中心に足首と土踏まずあたりで8の字を描くように固定する。
「後で絶対に医者に行けよ。所詮は素人の応急手当でしかないからな」
「うん、ありがとう。でも素人って言う割に手際よくない? 医者志望だっけ?」
「いや、剣道とかでたまにこういうケガもあるし」
「そっか。ずっとやってるもんね」
「おまえは剣道やろうぜ、って言っても運動神経がないから、って断ってたもんな」
「だ、だって~」
昔、一回だけ剣道やらないかって香織を誘ったことがあった。確か虐めてくる連中全員ぶっ飛ばすためにとかそんな理由だった気がする。
「でも、さっきの剣誠くん、ホントにすごかった。竹刀の動きが見えなかったもん。剣誠くんの剣道してるところ、最近あまり見てなかったからびっくりしちゃった。はぁ~、一つのスポーツに特化できるってカッコいいなぁ」
スポーツ、か。その単語が引っかかる。確かに、素人から見たら剣道はスポーツだ。
だけど、俺はそうは思わない。
剣技でもなく、剣術でもなく、剣道──剣の道。
それはつまり死ぬまで歩み続けるライフワークだ。俺はその道を、誰かを守るために剣を磨き続ける修羅の道と考えている。だから俺にとって剣道は人生そのものだ。
「終わったぞ。歩けるか?」
香織がおそるおそるといった体で床に足を着け、椅子から腰を浮かせる。
「ウソ、ホントに痛くない、歩ける」
「オーケー。さっきも言ったけど、後で医者行けよ。今日は走ったりすんな」
「うん、ありがとね、剣誠くん!」
向日葵のような笑顔を見届け、勝手に拝借した医療具を元の場所に直す。
「おうよ。ちなみにだが、剣道はスポーツじゃねぇぞ。生涯、己の剣の道を往く武道だ。他の剣道人にそれ言ったらいい顔されないから気を付けろよな。あと、おまえちょっと重かったぞ。ダイエットした方がいいんじゃねぇか?」
言いながら、剣道具を担いで保健室の扉をがらりと開ける。
「あ、そ、そうなの。間違えてごめん……って、今すっごい失礼なこと言ったな! ホントに女子をなんだと──ってちょっと待てこらぁ!」
声を遮るようにぴしゃりと閉じた。