「剣誠くん、おはよう」
剣道具を転がしながら高校への通学路を歩いていると、背後から聴く者を温かい気持ちにさせる優しい声がした。振り返ると、そこには頭に思い描いた人物がいた。
「おう、香織。おはよう」
「今日から高校生だね。緊張してる?」
「んー、ちょっと。でも楽しみだよ。俺は高校でもっと強くなる。そうすれば」
「はいはい、ウチや黒神先生も守ってあげられる、でしょ?」
「言葉盗るなよ」
「だって何度も聞いたんだもん」
クセの付いたショートの黒髪。猫みたいな目に丸眼鏡とそばかす。
普通、そばかすってコンプレックスになるヤツ多いと思うんだけど、香織はむしろ堂々としてて似合ってる。そして、似合ってると言えば、
「ん? どしたの剣誠くん、じっと見て」
「いや、なんでもねぇ」
白いセーラーと紺のスカートが、背の高いコイツによく似合ってるな、なんて思ってない。
咄嗟に目を逸らす。横目でちらりと窺うと、何故か香織はニマァ、と口を歪め、
「ん~? どしたのかな剣誠く~ん? たまには素直になるのも大事だぞ~?」
「うるせぇ。黙れ。先行くぞ」
大股で早歩きを繰り出す。俺の速度についてこれない香織は「ああ、ごめんって! 待ってよ~」と泣きついてくる。
「からかってごめんってば」
「別に謝ることじゃねぇけどよ」
バツが悪くなって唇を噛んでいると、香織が察してくれたのか話題を変えてくれた。
「今日も朱音ちゃんのお墓参り行ってきたの?」
「ああ。元気そうだったよ」
「今度、ウチもお参りに行っていい?」
「お、もちろん。朱音も喜んでくれるさ」
嬉しい。朱音も香織にはよく懐いていた。
朱音が死んだと聞いた時、香織は俺より泣いてくれた。
葬式にも来てくれた。俺が辛い時、香織はいつも傍にいてくれた。今もこうやって、剣道バカな俺と歩幅を合わせてくれている。
恥ずかしくて言葉になんかできないけれど、本当に、感謝している。
だから、俺は、おまえも、
「……もっと強くなって、絶対、守ってやるから」
聞こえないように小さく呟き、歩を進める。フェンスを越える高さの桜からなる薄桃色のトンネルを潜ると、視線の先に俺と香織の進学先、県立
壁には全国大会や関東大会の出場を祝う垂れ幕がいくつもあった。その中には比較的小さかったが剣道部の県ベスト8の垂れ幕もあった。噂で聞いていた通り強いらしい。
しかし、運動部の実績がいいところというのは治安が悪かったりする。
中学の時、小耳に挟んだことがあるのだ。学校は部活に真面目で熱心な生徒が大半を占めているが、中には横暴な先輩もいて、いじめや嫌がらせも横行していると。
「ん……? なんだ、あれ……」
錆まみれの校門が見えて来たところで異変に気付く。人が校門のところで詰まっていた。
より正確に言うのなら、新入生に対する上級生たちの部活勧誘の勢いが凄まじすぎるせいで、新入生たちが足止めを食らってしまってなかなか進めない、といった感じだ。
「ええええ、ナニコレ」
香織が隣で唖然としている。完全に同意である。
スーツやジャージを着た大人たちが必死になって集団に叫んでいた。
「おまえらもう毎年毎年こんなバカ騒ぎすんじゃない! 新入生が入ってこれないだろ!」
「センセー! 俺たちはこの栄えある光陽高校がとーっても楽しいところだっていうのを教えてあげたいんです! 楽しい先輩がいれば楽しい高校生活は間違いなしだぜぇ!」
「これが光陽高校名物! 『超・歓迎会』ってやつだァ! この上級生の手荒い歓迎を潜り抜けて校舎まで辿り着けるか新入生ぇ!」
手荒いということは、殴られるのだろうか。
「いや、まぁそんなことねぇだろ、多分」
行こう、と言って香織の手を握る。「ええっ!」と香織が反抗の意思を示したが無視。
「お! 次の新入生が来たぞ!」
その声を皮切りに、一気に上級生の手が部活勧誘のビラと一緒に伸びてくる。
「入学おめでとう!」「男ならサッカー! モテるぜ!」「バスケ部に入れば一人一人に専属のマネージャーが」「うるせぇぞナンパバスケ部が! それより熱い柔道をしよう一年!」
人の圧力に負けそうになるが、踏ん張る。鍛えてきた成果をここで発揮する。
「ぬぐぐ、ぬ、抜け──」
しかし、それでも根性を発揮しないと進めない。「大丈夫か」と香織に声を掛けると「なんとか~」と苦しそうな声が返ってきた。
やっとの思いで、俺の体がこの地獄もとい『超・歓迎会』を突破する。香織の腕を引っ張る。「いたたたた」と言いながらも香織の体がコルクのように人ごみから抜ける。
勢いあまって俺が受け止める形になり、数歩よろめく。
すると、背中の荷物に感触が。誰かにぶつかってしまった。
「あ、すんません」と謝って香織を気遣いながら横を抜けようとしたら、
「おい、待てや一年坊主」
肩を掴まれ、肉に指が食い込んだ。無理やり振り向かされる。坊主頭に片眉をつり上げた厳つい顔が目の前に出現する。ちらりと下を見ると剣道着だった。勧誘に来ていたみたいだ。
「三年にぶつかっといてタダで済むと思ってんのか」
「ちゃんと謝ったじゃないすか」
「ああ? なんだその言い方は。『ごめんなさい、失礼しました』だろうが!」
坊主先輩は俺の言い分に納得できないようで、瞼をヒクつかせて睨んでくる。
瞬間、俺の頭の中に噂の一文が思い浮かんだ。
なるほど、と納得した。横暴な先輩はやはりいるらしい。
長いため息を吐いていると、坊主頭の三年のこめかみに青筋が浮かべた。
「あ、あの! 剣誠くんはウチを受け止めたせいでバランスを崩しちゃったんです! ウチが悪いんです、ごめんなさい!」
香織が俺の前に立って頭を下げる。
「おい、おまえが謝る必要ねぇって」
香織の肩に手を置こうとした時だった。
「チッ、一年坊主が生意気にも彼女連れかぁ? 調子乗ってんじゃねぇぞ! どけ!」
目の前から香織が消えた。いや、正確には、坊主頭の先輩によって押し退けられたのだ。「きゃあっ!」という悲鳴と共に地面に倒れる香織。
「おい、香織ッ!」
すぐに駆け寄る。香織は痛そうな表情で右足首を抑えていた。
靴下で隠れていても分かるくらい腫れている。周囲がザワつくのを感じた。
「おまえ、足ぐねってるじゃねーか」
「で、でも、ウチが悪いし」
しかし、香織の右手は何かを堪えるようにスカートの裾を握り締めていた。
そんな香織の姿が、どこか、痛みに泣く妹の姿と重なって見えて。
ああ、朱音、おまえは。理不尽に殺されたんだったな。
もう二度と、あんな目には、
ぶちん、と頭の中の何かがキレた。
「おい」
立ち上がる。歯が軋む。魂の底に溶岩が流れ込んだ。血が沸騰する。
「斬られてぇのか、テメェ」
あ? と坊主頭が眉間の皺を深くして一歩近付いてくる。
「ちょ、剣誠くん、いいよ! ややこしくしないでいいって!」
香織が声だけで制止を掛けてくるが、俺は聞く耳を持たない。
「クソダセェな。素人にケガ負わせてんのに謝罪の一つも言えねぇのか」
「なぁにィ? もういっぺん言ってみろや」
遠巻きから怖いもの見たさか分からないが、眺めてひそひそ言うヤツらや、「喧嘩か?」「やれやれぇ!」と囃し立てるヤツもいる。
「ああ、何度でも言ってやるよ。テメェ、ダサすぎだろ。剣士の風上にも置けねぇな」
ビキ、と下種野郎の額にさらに一筋の血管が浮き出た。
「そこまで言うからには、テメェ相当デキるんだろうなぁ?」
「確かめてみるか? 抜けよ劣等。童貞じゃ俺には勝てねぇよ」
それがトドメになったらしい。コイツの目が血走った。
「構えろクソガキ。ぶち殺してやる」