時は流れて四月。
空が黒から蒼に変わる夜明け前。藍染の道着の上に防具を纏い、竹刀を構えて道場──
日が高く昇れば入学式が待っている。高校生活が始まる。
「メェラァッ!」
紫黒の道着と防具を纏う俺の先生、
「気が急いていますよ剣誠君ッ。肚が据わってないッ!」
しかし、俺の打突は軽く受け流される。
すれ違うように残心を取り、道場の景色を視界に入れながら振り返る。
針葉樹で出来た床板と、試合場を表す白線テープ。
二十五メートルのプールくらいの広さだ。
高い位置に窓があり、その横には神棚が設置されている。
そして、神棚の真下には鍵付きの扉がある。奥に何があるか見たことはない。
再び先生と向き合う。俺より頭二つくらい背が低いのに、滲み出る
俺は眼球を動かさず、先生を含めた道場全体を見つめる、いや、感じ取る。
切っ先の重さが手首に伝わってくる。左手は柄頭を握る。
この時に大事なのは小指と薬指に引っかけるような意識を持つこと。
中指と人差し指、そして親指からほぼ力を抜く。
右手は鍔元。添えるだけ。雑巾を絞るように握る。
右足は前。左足は後ろ。足一つ分の間隔を空け、爪先は真正面に向ける。
体重は両足均等にかける。
「焦ってはダメですよ。腕だけで打ったって一本にはなりません。足腰で打ちなさい」
面、胴、小手、突き。
全部で四種類ある打突の有効判定は、竹刀が当たれば一本という単純な話ではない。
「どれだけ先を取ろうとも、『
一本と認められる要素のまず一つ目、気。
これは気勢が十分に籠っている打突かどうか。
簡潔に言うと、『打突を打とうと思って全力で打っているか』だ。
「おぉッ!」
強烈な手応えが伝わってくる。打ち抜いた姿勢で駆け抜ける。これが残心だ。
打っても油断していない心構えを示している。これも気に含まれる。
「そう! 相手の有効部位を切り落とすつもりで! 骨まで斬りなさい!」
次に、剣。
これは打突がしっかりと相手の有効部位を切り落としているかどうか。
一本を取るには、真剣なら確実に致命傷を与えられる打突を繰り出さなければならない。
「腰ッ! 腰腰腰ッ! 腰が動けば体が出る! 腕ではなく腰を運ぶッ!」
連続で音が炸裂する。空いた右手首と面をめがけて連撃を放つ。
最後の要素、体。
真剣を以ってしても、人体に致命傷を与えるのは難しい。
だから正しい姿勢、正しい体重や力の掛け方をしているかどうかが見られる。
これら三つの要素が揃っていることを『気剣体の一致』と呼ぶが、剣道の試合において一本かどうかを判定しているのはあくまで人間なので、正直言うと曖昧である。
「来なさい」
先生の声を合図に、静寂が訪れる。一歩、
竹刀の切っ先三寸を示す
瞬間、俺は察した。
先生は渾身の打突を放てと言っているんだ。
どんな打突だろうが、全て斬りつぶす。
そんな殺気が先生の背から陽炎のように立ち昇り、鬼の姿を象った。
生唾を飲み込む。肌が脅威を感じてざわついた。
さすが、剣道界の『
百五十センチメートルくらいしかない体格に似合わないからか、本人はこの通り名を嫌っているらしいが。
窓辺に停まった鳥の鳴き声が、微かに響いた瞬間、
「メ……ッ」
「リヤァアッ!」
俺が飛び出すより一瞬先に、先生の体が一気に伸びあがった。
竹刀を振り上げた瞬間の面は無防備だ。相手が面打ちで飛び出す隙を狙って面を打ち抜く、剣道の花形とも言える技、相面。
先を取られた俺は、先生の小さな体からは想像もつかないほど重い打突につぶされた。三十センチメートルくらいの身長差があるのに、軽く覆された。
「がぁっ」
残心すらままならない。衝撃によって、半年前の敗北を思い出した。
あの試合も相面で下された。
先生が繰り出した打突は、その痛みを忘れるなと語っているようだった。
八咲 沙耶。
俺がアイツを倒すのに、あと何回稽古すればいいのだろうか。
次会った時は、必ず、必ず倒してやるからな。