お義兄様とクラリス嬢の婚約が白紙になった。
これでお義兄様がクラリス嬢に婚約を破棄される卒業パーティーでの出来事はなくなったのだ。
しかし、まだ安心はできない。
このことを逆恨みしたアルシェ公爵夫人がお義兄様を暗殺するかもしれないのだ。
「お義父様、お義母様、クラリス嬢のこと……」
わたくしが沈黙を守っていたお義父様とお義母様に顔を向けるとお義父様とお義母様が頷く。
「国王陛下、クラリス嬢のことなのですが、新しい信頼できる婚約者を迎えて、学園を辞めさせてその婚約者の元で教育をし直すというのはどうでしょうか」
「クラリス嬢はまだ十二歳。これまでの教育が悪かっただけで、これから変われる可能性があると思うのです。もちろん、婚約者はクラリス嬢を教育できる落ち着いた大人の方がよろしいかと思われますが」
お義父様とお義母様の言葉に、国王陛下はため息をつく。
「その件に関してはヴィルヘルムからも話があった。あまりにも寛大すぎる処分かもしれないが、クラリスの成長の可能性を信じて、マチス侯爵家の次男、セドリックを婚約者にどうかと考えていたのだ」
「セドリック殿を!?」
わたくしは名前しか聞いたことがないが、セドリック殿はマチス侯爵家の次男で、学園を卒業してすぐに結婚したが奥方を早くに亡くして、今は独身で王宮で文官をされている方ではないだろうか。
お義父様の部下で、ものすごく仕事ができるとお義父様が言っていたのを聞いたことがある。
「セドリックならばアルシェ公爵家を立て直し、クラリスを教育し直して、成人の暁には結婚して婿として立派にやっていけると思っている」
「セドリック殿はどうお考えなのですか?」
「アルシェ公爵家を立て直すとなると大仕事になると張り切っているよ」
お義父様と国王陛下が話しているのを聞きながら、わたくしは小声でお義母様に聞いてみる。
「セドリック殿はお幾つなのですか?」
「確か、三十二歳になられたと思います」
三十二歳の婿か。
それくらい年の差があって落ち着いていないとクラリス嬢の相手はとても無理だろう。
王宮の文官としても非常に優秀なのならば、アルシェ公爵家でもセドリック殿はやりがいを持って執務をこなしていくだろう。
「これが最後のチャンスだ、クラリス。もう二度と社交界に出ることは許さないが、セドリックに従いアルシェ公爵家で再教育を受けて、将来はアルシェ公爵領を二人で治めるのだ」
「わ、わたくし……」
「お前を修道院にやってしまって、アルシェ公爵家を潰すことも、遠縁を連れてきてアルシェ公爵家を継がせることもできた。だが、わたしはそうしなかった。その意味が分かるな? クラリスはまだ更生の余地があると思ってのことだぞ」
「お、恐れ多いことです」
「クラリス、セドリックの元でしっかりと学び直し、アルシェ公爵領を治められるようになるのだ」
これが国王陛下がアルシェ家にかけた最大の恩情だということはクラリス嬢にも伝わっているようだった。
「二十歳も年上の方と、結婚……」
「クラリスが成人した後に結婚となる」
クラリス嬢は愕然としているようだが、セドリック殿は仕事のできる男性のようだし、奥方を亡くしてからは再婚もしなかった一途な性格のようでもある。クラリス嬢も実際に会ってみれば気が変わるかもしれない。
オーギュストとアルシェ公爵夫人とアルシェ公爵は警備兵に連れて行かれ、残ったクラリス嬢の元には灰色の髪に薄い水色の目の細身の男性が迎えに来る。
綺麗な顔立ちのその男性にクラリス嬢は見惚れている様子だった。
「初めまして、クラリス・アルシェ嬢。わたしは今日からあなたの婚約者となり、教育者となるセドリック・マチスです」
「セドリック様……」
「これからアルシェ公爵領に一緒に行って、新しい家庭教師とマナーの先生とピアノの先生と……とにかく、全ての人員を入れ替えて、あなたはわたしと共に暮らすのです」
「は、はい」
差し出された白い手袋を付けた手に、クラリス嬢がそっと手を乗せている。
どこまでも恭しく丁重に連れて行かれるクラリス嬢。
どうかお幸せに。
アルシェ公爵夫人がお義兄様を逆恨みしないで済む程度にクラリス嬢には幸せになってもらわなければ困るのだ。
クラリス嬢も退場してから、裁判官たちも部屋を出て、国王陛下が椅子から立ち上がる。
「大変な一日だったね。アデライドは小さいのによく証言してくれた」
「わたくしにできることでしたら、何でも致します」
それが恐ろしい体験をしてもそれを訴えることすらできない気の毒な令嬢たちのためになるのならば。
わたくしが頭を下げると、国王陛下は厳めしかった顔をやっと和ませた。
「せっかく王宮まで来たのだから、お茶をしていかないか。テオドールともゆっくり話したい」
「わたしも兄上にお話ししたいことがあります」
わたくしたちは部屋を移って、ヴィルヘルム殿下とダヴィド殿下と王妃殿下も一緒にお茶をすることになった。国王陛下はお義父様の実の兄君なのだ。私的な場所ではお義父様も国王陛下のことを「兄上」と呼んでいる。
お茶の準備が整って、紅茶のカップがわたくしたちの前に置かれると、香りのいい紅茶がカップに注がれる。甘いサクランボの香りが部屋中に漂っていた。
サクランボの紅茶にミルクを入れて一口飲むと、わたくしは喉がカラカラだったのに気付く。それだけ緊張していたのだ。
「クラリス嬢の婚約者にセドリック殿を連れて来るとは思いませんでした」
「セドリックならばアルシェ公爵領を治めるだけの度量があると思ったんだ。それにセドリックは前の奥方が亡くなってから十年以上経つのに再婚もしていなかった」
「確かにセドリック殿は有能ですからね。わたしの部下を兄上はアルシェ公爵家に上げてしまった」
「文句はいくらでも聞こう。それだけセドリックが優秀だったということだ」
笑い合っている国王陛下とお義父様はまさに兄弟という雰囲気である。
気安い様子にわたくしも安心して焼き菓子に手が伸びる。
「それで、マクシミリアンの婚約はどうするつもりなのだ? 婚約が白紙に戻ってすぐに婚約者を決めろとは言わないが」
「マクシミリアンの婚約者は決めてあります」
「それが誰か教えてくれないのか?」
「バルテルミー家は王家の血を引いていて、ただでさえ力を持った家です。これ以上権力を持てば貴族の中でバランスを崩してしまう。ですので、マクシミリアンの婚約者は、バルテルミー家から出したいと思っています」
「それは、アデライドとマクシミリアンを婚約させるということか」
「そう考えていただいてよろしいかと」
けれど今ではない、とお義父様は続けた。
「マクシミリアンも婚約を白紙に戻したばかりですぐに婚約をさせるというのもあまりよろしくないでしょう。ですので、アデライドが十二歳になって学園に入学したら婚約を公にしたいと思っております」
それまではこの話は内密に。
お義父様に言われて、国王陛下は笑顔で頷いた。
「テオドールがそこまで考えていたとは。わたしは考えが及ばなかった。マクシミリアンがアデライドと婚約するときには、盛大に祝おう」
「ありがとうございます」
お義父様が礼を言うのに、国王陛下はお義父様のことを愛情深い目で見つめていた。幾つになっても国王陛下にとってはお義父様は可愛い弟なのかもしれない。
「やっぱりマックスがアデライド嬢と婚約するのか」
「おめでたいのですが、まだそのお話はしてはいけないのですよね」
「この話はこの場だけのこととして、まだ内密にお願いします」
ヴィルヘルム殿下とダヴィド殿下はなんとなく面白くなさそうな顔をしているが、祝ってくれる気はあるようだ。お義兄様がお義父様のように内密にと釘を刺していた。
「アデライド嬢、今日の証言、本当に勇気が必要だったと思う。そんな小さな体で証言台に立ったアデライド嬢を尊敬する」
「アデライド嬢はそんなに素晴らしかったのですね。オーギュスト殿の前で証言するのは怖かったと思いますが、本当にお疲れさまでした」
「わたくしにできるのはそれくらいでしたので」
もっとつらい思いをした幼女がどれだけいたか分からない。
それを思うとわたくしの胸が痛む。
「セドリック殿ならば、被害者の令嬢や平民の少女にも、アルシェ家からの償いをしてくれるでしょうね」
お義母様の言葉を聞いて、わたくしは少しでも救われる少女がいるようにと願わずにいられなかった。