お茶を飲みながらわたくしがソファに座っていると、クラリス嬢が戻ってくる。泣いてしまった令嬢についてクラリス嬢はため息をついていた。
「平民の感覚が皆様お分かりにならないのですわ。わたくしは平民らしく振舞ってみせただけなのに」
平民がどのような暮らしをして、どのような喋り方をしているか分からないが、クラリス嬢のは少し違うような気がする。それは世間知らずのわたくしでも分かる。
この調子で学園に入学したら平民のジャンに心を奪われるのだろうか。クラリス嬢の行いを恥ずかしいと思っているお義兄様は今すぐにでも婚約を解消したい様子だった。
「クラリス嬢、あれはやりすぎだったよ。ご令嬢は泣いていたではないか」
「ヴィルヘルム殿下、わたくし、平民になりきったつもりでしたの。平民の感覚が皆様に通じなかっただけですわ」
諫めるヴィルヘルム殿下にもクラリス嬢は言い訳している。これはクラリス嬢は今後お茶会に参加を禁じられるのではないかとわたくしは思っていた。
お茶を飲んでいるとお手洗いに行きたくなってわたくしは席を立つ。
五歳児の膀胱が小さすぎるのが悪い!
どうしてもわたくしはすぐにお手洗いに行きたくなってしまうのだ。
「お義兄様、ヴィルヘルム殿下、ダヴィド殿下、クラリス嬢、少々失礼いたします」
挨拶をしてわたくしが一人で行こうとするとお義兄様が立ち上がりかける。
「アデライド、わたしがついて行こう」
「マクシミリアン様、女性のお手洗いについて行くなんて失礼ですわ。わたくしがついて行きましょうか?」
「結構ですわ。近いですし、わたくし一人で行けます」
さすがに王宮の中で攫われたりはしないだろう。
わたくしが最年少だが小さなお茶会は六歳くらいから十五歳未満の子どものために開かれる。そのためお手洗いと近い部屋でお茶会は開催されていた。
ドレスの裾を持ち上げて速足でお手洗いに行ったわたくしは、用を足して、手を洗って安心して廊下に出た。そこには明るい薄茶色の髪の若い男性が立っていた。
女性用のお手洗いの前に立っているなんて、それだけで不審人物だ。
怯えながら横を通り過ぎようとすると、その男性はわたくしに近付いてくる。
「わたしはアルシェ家のオーギュスト。王宮を歩いていたらこんな可愛い妖精さんに出会えるとは思いませんでした。お嬢さん、少しお話をしてもいいですか?」
妖精さん!?
言っていることが気持ち悪いんですけど。
「え、遠慮いたします。失礼します」
そういえばこの男性アルシェ家と言っていなかっただろうか。つまりはクラリス嬢の兄君ということになる。
「待ってください。その蜂蜜色の長い髪、生まれたときから切っていないのではないですか。芳しい香りがしそうですね」
わたくしの髪の毛をひと房手に取って嗅ぐ男性、オーギュストは非常に気持ち悪い。鳥肌を立てながらわたくしが下がると、オーギュストは壁に手をついてわたくしを腕の中に閉じ込めようとする。
「おやめになってください。大声を上げますよ?」
「大声を上げたところで、わたしが子どもと戯れていただけに思われるでしょう。美しいドレスですね。その下のおみ足はどんなに可愛いあんよなのかな?」
ひぃっ!?
ドレスを捲り上げられて太ももに触られそうになっている。
抵抗しようとするが五歳児の体の何とか弱いことだろう。
こんな小さな体に無体を働かれたら、わたくしは死んでしまうのではないだろうか。
ぞっとして命の危険まで感じてわたくしは必死に助けを呼ぶ。
「助けて、お義兄様! 変態です!」
大声を上げたときに、廊下の向こうからものすごい勢いで走ってくる影があった。
お義兄様だ。
お義兄様は勢いをつけてオーギュストにタックルすると、お義兄様も大人の女性くらいの体格があるのでオーギュストが吹っ飛んだ。
「わたしの妹のスカートに手を突っ込んで何をしようとしていたのですか?」
「このご令嬢が足をくじいたと言ったので見て差し上げていただけですよ」
「そうなのか、アデライド?」
「ち、違います。オーギュスト様がわたくしの足を触ろうとしたのです」
触られたところから怖気がするような恐ろしい感覚に襲われてわたくしはお義兄様にしがみ付く。お義兄様は軽々とわたくしを抱き上げてくださった。
「わたしはマクシミリアン・バルテルミー。あなたは?」
「おや、我が妹の婚約者殿ではないですか。わたしはオーギュスト・アルシェです」
やはりこの男性はクラリス嬢の兄君だった。
クラリス嬢の兄君が
アルシェ家、滅びるがいい!
足を触られたわたくしは心の中でアルシェ家の崩壊を願っていた。
「歩いて帰れないのでしたら、わたしが抱っこして送って差し上げますよ」
「結構です。わたしの妹のことはわたしが守ります」
下心満載で申し出るオーギュスト様にお義兄様は素っ気なく告げて踵を返した。お義兄様の腕の温かさと胸の逞しさにわたくしはやっと安堵する。お姫様抱っこでお茶会の会場に連れ帰られたわたくしにクラリス嬢が微笑んでいる。
「アデライド嬢はまだまだ赤ちゃんの気分が抜けないのですね。マクシミリアン様に抱っこされたりなどして」
それは全部クラリス嬢の兄君のせいなのだが。
呆れるわたくしよりも先にお義兄様が口を開いていた。
「アデライドは怖い思いをしたのです。義兄のわたしが助けるのは当然です」
「どうかなさったのですか?」
「クラリス嬢の兄君のオーギュスト様にお会いしたのです」
それでクラリス嬢には意味が通じるかと思ったのだが、クラリス嬢はわたくしとお義兄様の表情が険しいことに全く気付いていない様子だった。
「オーギュストお兄様は今年で二十歳になりますのよ。とても素敵で格好いいお兄様でしょう?」
それどころか自慢そうに言って来るのが信じられない。
オーギュスト様は家では大人しくしているのだろうか。五歳の幼女であるわたくしの髪を嗅いだり、スカートの中に手を突っ込んだりしてきたのだ。完璧に幼女趣味の変態としか思えなかった。
「わたくしにとっては、お義兄様がこの世で一番素敵で素晴らしい方ですわ」
皮肉を込めてわたくしは返したのだが、クラリス嬢にそれは通じていなかったようだった。
ヴィルヘルム殿下もダヴィド殿下もクラリス嬢の奇行に呆れ返って会話も弾まない。
そのままお茶会はお開きとなった。
帰りの馬車は身分の順に用意される。
王弟であるお義父様のいるバルテルミー家が一番だった。
お見送りに出てくださっているヴィルヘルム殿下とダヴィド殿下の隣りにいるほっそりとして背の高い男性は王太子のクロヴィス殿下だろう。国王陛下と王妃殿下が見送りに出ない代わりに出て来られたのだ。
「本日はとても素晴らしいお茶会でした」
「兄上と義姉上によろしくお伝えください」
「テオドール叔父上、エステル義叔母上、本日はお越しくださってありがとうございました。父と母に変わってお礼申し上げます」
「マックス、またお茶会で会おう」
「マクシミリアンどの、アデライドじょう、またおあいしましょう」
送り出されてわたくしは高い馬車のステップをお義兄様の手を借りながら一生懸命上がる。こういうときはエスコートしてくれるお義兄様が本当にありがたい。
「ヴィルヘルム殿下、またお会いしましょう」
「本日はありがとうございました」
馬車の中からお義兄様とわたくしもご挨拶をしてお屋敷に帰った。
バルテルミー家は王都に別邸を持っていて、お義父様は高位の文官として王宮に勤めていらっしゃる。バルテルミー公爵領も一応はあるのだが、そこは領地に住まう貴族たちに普段の仕事を任せていて、統治に大事な書類だけは王都まで持って来させていた。
お義父様は王弟として国の政治に関わる仕事をしているのだ。
アルシェ公爵家はアルシェ公爵領の統治だけをしているはずだった。
「お父様、可愛いアデリーがお手洗いに行ったときに廊下でアルシェ家のオーギュスト様に絡まれていたのです」
「アデライドが?」
「アルシェ家のオーギュスト殿は二十歳ではなかったですか?」
「二十歳になると聞きました。それなのに、アデリーを壁に押し付けて、スカートの中に手を入れようとしていたのです」
「なんということを!?」
「アデライド、つらかったですね」
思わずわたくしを抱き締めるお義母様にわたくしはしっかりと抱き着く。クラリス嬢の行動も酷かったが、オーギュスト様も酷かった。
「クラリス嬢はお茶会で『平民の振る舞いをする』とか言って、『ドレスが似合ってない』とか、『そばかすは化粧で消せる』とか言って令嬢を泣かせていたし……」
アルシェ家は教育に問題があるのではないか。
苦々しく告げるお義兄様に、お義母様もお義父様も眉を顰めている。
「兄のオーギュスト殿もそのような奇行に走っているとなると、アルシェ公爵家には根深い闇がありそうだな」
「可愛いアデライドを狙っただなんて許されません。マクシミリアン、今度からアデライドのお手洗いにはついて行ってあげてください」
「わたしも最初からついて行こうと思ったのですが、クラリス嬢が女性のお手洗いについて行くのは失礼だと言ったので……。でもすぐ心配になって廊下に出たら、アデリーが壁に押し付けられていて、スカートの中に手を入れようとされていて、血の気が引きました。次回から二度とアデリーから目を離しません」
お義父様とお義母様にわたくしから目を離したことを謝るお義兄様に、両親は優しく「あなたのせいではありません」と言っていたが、お義兄様はクラリス嬢の言葉にすぐに乗ってしまったことに罪悪感を覚えているようだった。
「アデライド、正直に答えてください。何があろうとわたくしもお父様もあなたの味方です。あなたに落ち度があったなどということは絶対に言いません。あなたの口から確認がしたいだけなのです。何があったのですか?」
温かなお義母様の言葉に、わたくしはほっと息を吐く。オーギュスト様に触られた脚はすぐにでも消毒したいくらい気持ち悪かった。
「お手洗いから出てきたら、オーギュスト様がわたくしに声を掛けました。そして、わたくしの髪の毛の匂いを嗅ぎました。それから壁に押し付けられて、スカートの中に手を入れられて、わたくし、膝まで撫でられました。太ももやもっと上まで手が来るのではないかと恐ろしくてお義兄様に助けを求めたら、お義兄様が来てくださって助けてくださいました」
震えながら言葉にすると、ぽろりと涙が一粒零れた。
わたくしは我慢していたが相当怖かったようだ。
涙を流すわたくしをお義母様は「勇気を出してよく話してくれました」と抱き締める。
帰りの馬車の中はわたくしはお義母様に抱き締められていた。