◇ ◇ ◇
祐介は、白鷹大付属にはギリギリの点数で不合格になった。
結果を見た母はひどく嘆いたし、塾の他の講師陣も悔しがっていて、それを見て心が痛まないわけではなかったが、自分で決めたことなので飲み込んだ。
併願で合格していた狛杜高校に通うことになったが、大学こそは白鷹大に行けるよう、引き続き塾に通うように言われた。
それすらも、たいして苦痛とは思わない。
──これで、和都を助けられる。
あと三年は、彼をそばで守ってやれる。
三年も経てば、もう大人だ。
あの夜の壁を越えなくても、この街から逃げ出せる。
それまでに彼が『死にたがり』を辞めなかったら、その時は──。
「羽柴先生、俺がわざと落ちようとしてるの、誰にも言わなかったんですね」
卒業してすぐの春休み。
高校でも塾に通うことになり、その手続きのために塾へ行くと、休憩スペースで缶コーヒーを飲んでいる羽柴と会った。
「言うわけないでしょ。子どもの気持ちは尊重すべきだと僕は考えてるからね」
いつものようにどこかヘラヘラした顔で笑いながら、彼は答える。
最初はこの笑顔が胡散臭いと思っていたし、複数人の女性と付き合っているという噂であまり信頼はしづらいと感じていたが、仕事と生徒への対応だけはちゃんとしている人だった。
「先生くらいでした。味方でいてくれた『大人』は」
「敵が多いんだねぇ。君も、例の『彼』も」
「そうですね。今はもう、常に『四面楚歌』だと思うようにしています」
大人を信用していないわけではない。信用できるかもしれないと思っていても、ダメだったことが多いだけで。
「高校に入ってからもここには通うので、また『味方』になってもらえませんか」
子どもの言葉をまともに取り合って、裏切らずにいてくれたのはこの人だけだった。だからこそ、少しだけ期待してそう聞いた。
けれど、そんな祐介の言葉に、羽柴は小さく眉をひそめて息をつく。
「本当はそうしてあげたかったんだけど、来年度から隣の県の教室に行くことになっちゃってね」
「そう、でしたか……」
「いやほら、意外に人気者なんでね、僕」
「まぁ、先生の授業は、分かりやすかったので」
真面目な顔をしていたかと思えば突然ふざけられてしまい、祐介はいつものように無表情でそう返す。しかし、心中では動揺していた。
──また、いなくなるのか。
羽柴は中学生の担当なので、高校生に上がると授業は受けられない。しかし同じ施設内であれば、こうして休憩スペースなどで話をできる機会はあると思っていた。だが、隣の県の塾となれば、今後そう簡単に会うことはないだろう。
「頼れる人は、みんなこの街を出て行ってしまいますね」
少し遠くを見るように言った祐介の頭に、羽柴は優しく大きな手を乗せた。
「『味方』を増やしなさい」
今まで見たことがないくらい真剣で、優しい目をした羽柴がそう言った。
「君もそうだけど、君の守りたい子に必要なのものは、たくさんの『味方』だ。できれば大人の味方がいい。信用できる『大人の味方』を見つけなさい」
そう言うと、羽柴は祐介の頭に乗せていた手を離し、反対の手に持っていた空のコーヒー缶をゴミ箱に捨てる。
「君だって、まだ『子ども』なんだ。彼のためにも『大人の味方』を見つけたら、後はその人に任せてしまいなさい」
「……見つかるんでしょうか、そんな人」
「大丈夫、君なら見つけられるよ。それが君のやるべきことだ。きっとね」
どこか曖昧で根拠のない言葉だったが、不思議とそうなるように思えた。
そしてそれは、彼が『生きる』ために邪魔なもの全て潰すためには、都合がいい。
「わかりました」
「頑張ってね」
祐介の返事を聞いて、羽柴は嬉しそうに笑ってそう言った。
◇ ◇ ◇
四月になってすぐの春休み。
入学式を数日後に控えたその日に、祐介は一人、狛杜高校の本校舎にある、来客用玄関の前に立っていた。
──やっぱり広いな、この学校。
狛杜高校は、桜崎市内でも広くて有名な狛杜公園という自然公園のすぐ近くにある高校で、数少ない公立の男子校だ。文武両道を掲げ、部活動も運動部の一部は強豪と呼ばれるほど強く、学校偏差値もそれなりに高い。体育館が二つあるほか、陸上用グランドやサッカー場などの運動施設が充実している。
それなりに人気の高校だが寮などはない。ただ周辺には狛杜高校生を優先的に受け入れてくれる下宿先などがあるので、遠方からの入学生もそれなりにいるらしい。
祐介は本校舎を見上げた。四階建の大きな建物で、屋上には柵が見える。ここもたしか屋上で、休憩をとれるようになっていたはずだ。ぼんやりとそんなことを考えていると、校舎の中から声をかけられた。
「君、どうしたの? 何か用事?」
校舎内から玄関を開けて声をかけてきたのは、黒い学ランを着た男子生徒だった。制服の胸元には水色のネームプレートが付いていて『玉木』と書かれている。
──水色はたしか、二つ上の学年だから、新三年生か。
狛杜高校は学年ごとにカラーが決まっていて、ネームプレートやジャージなどもそれに合わせたものになっている。祐介たち新一年生のカラーは白だ。
「すみません、新入生代表挨拶の件で呼ばれてきたのですが」
「ああ、新一年生か」
「はい」
「へー、君が代表挨拶なんだ。すごいね。職員室こっちだよ」
その玉木という生徒は、そう言って笑うと、職員室へ案内をしてくれた。
春休み期間だが、何かの手伝いで来ているのだろうか。そんなことを考えていたが、案内を終えると玉木は「それじゃ」とそのまま去っていった。
自分と変わらないくらいの身長で、人当たりの良さそうな柔らかい印象のある人物。しかしどこか、妙な影を感じる。
学年が違うので、入学してから会う機会は少ないだろうと思いつつ、祐介は少し心に留めておくことにした。
◇
四月某日。
よく晴れた日だった。
和都の家まで迎えに行くと、少し大きめの黒い学ランに身を包み、詰襟まできっちり留めた彼が出てきたので、そのまま一緒に狛杜高校へと向かう。
「ほーんとに同じ高校とか、馬鹿じゃないの」
「うるせぇ。同じ学校じゃないと助けられないだろ」
新品の同じデザインの制服で、横に並んで歩く。
胸元には白いプレートが付いていて、それぞれ黒字で『春日』『相模』と書かれていた。
「ユースケの親は入学式来ないの?」
「支度に時間かかってたから先にきた。時間までには来るだろ。そっちは?」
「来るわけないでしょ」
「……それもそうか」
狛杜高校の入学式は、保護者の参列が任意だった。そのため和都のように保護者が来ない生徒も多い。しかし、参列が必須だったとしても和都の両親が来ることはないだろう。
「まったく、クラスも同じだし。まさか仕組んでないよね?」
「そこは仕組んでない」
「あっそ」
入学式前に通達されたクラス分けには一年四組に二人とも名前があり、中学からこれで四年間、同じクラスということになる。
「……高校は、大人しくするよ」
不意に和都が口を開いた。
「卒業するまではちゃんと生きる。死なないように頑張る。それは、約束する」
「何企んでんの」
「企んでないよ」
「嘘つけ」
祐介の言葉に、和都がムッとした顔で隣を歩く背の高い友人を横目に睨む。
「……お前に大学までついてこられたくないだけ。高校卒業すれば、あの家からも出ていけるしね」
和都の家がある通りをまっすぐ進むと、駅から高校へと繋がっている、大きい道路へ出た。そこを曲がって、駅と反対方向に道なりに進めば高校へ着く。
道路には同じように真新しい制服に身を包んだ高校生たちが、高校のある方へ向かって歩いていた。この中の何人かはクラスメイトかもしれない。
周囲の学生たちを観察しながら、祐介が言う。
「少しはまともな思考をするようになったか」
「まあね。『
久々に聞いた単語に、祐介の頬が緩む。
三年前にうっかり言ってしまった言葉を、和都は覚えていたらしい。
あれを言ったのは、今日みたいに晴れてはいなかったけれど、たしか春だった。
「身長は、あんま伸びなかったけどな」
「うるさいなっ。ここから伸びるんだよ」
和都の拳が祐介の腕に当たる。祐介の元々大きかった身長は中学で五センチ近く伸び、一七〇を超えてしまったが、和都の身長は十センチほど伸びたものの、一六〇には及ばなかった。
「……まぁ、お前にこれ以上、無理なことさせたくないよ」
「それは多分、気のせいだ」
「わりと無茶してるの、知ってるからな?」
こちらを見上げて言う顔は、だいぶ不機嫌そうに眉間にシワを寄せている。
けれど、大きな瞳は以前より黒くて深いわりに、どこかキラキラしていて、それがなんだか嬉しかった。
──ちゃんと『生きている』目だ。
作りものだと思えた時とは違う、綺麗な光が宿っている。
「『
「おれとお前、どっちが『
「知らね」
祐介の言葉に、和都は呆れたような顔をしてみせた。
怪物に手を差し伸べた、あの少年になりたかった。
でもぼくらは子どもで、逃げ出すことはできなかった。
まだずっと、あの夜を二人きりで彷徨っている。
あの壁を、乗り越えるための朝が来るまで、ずっと。
寒雷はまだ、遠い。
〈了〉