あの光はまだ、ずっと遠くで
三年生になって、和都は約束通り『死にたい』と言ったり、ふらっと突然外へ出ていくことをしなくなった。もちろん、それまでちょっとした癖のようになっていた希死念慮が簡単に消えるわけではない。ただ、それまでに比べたら、随分と減ったように思う。
でも、突然の発作で倒れることは減らなかったし、男女問わず追いかけ回されることもなくならなかった。
夏休みの登校日、一緒に帰ろうと思っていた和都が見当たらず、探し回っていた祐介が見つけた時には、学校の裏山の崖から落ちていくところだった。
急いで駆けつけたが全く間に合わず、崖下に砂と傷にまみれた和都が横たわっていた。
「大丈夫か?!」
「……ん、なんとか」
助け起こすと、意識はちゃんとあったので、祐介は安堵する。
腕と足の右側の傷が酷い。そのまま真っ直ぐ落ちると死ぬ可能性が高いので、身体の右側を崖の壁面に押しつけるようにして滑り落ちたようだった。
「何があった?」
「……変なのに追いかけられて、仕方なく落ちた」
「不審者か?」
崖の上の方を見上げると、きちんと金属製の柵が設けられている。平気で木登りをするような奴なので、あれくらいなら簡単に越えられるんだろう。
今見る限り、妙な人影は見当たらない。
「まぁ、たぶん? 落ちる時に逃げてったから、よく分かんないけど」
「そうか」
不服そうに和都が説明するのを聞きながら、祐介は怪我の度合いをチェックする。幸い、広範囲に酷い擦り傷は出来ているものの、骨が折れたり捻挫をしたりしている様子はなかった。ただ、着ていた制服はこのまま廃棄だろう。
「ほら、後ろに」
そう言って和都を背中に捕まらせ、そのままおんぶした状態で立ち上がると、祐介は来た道を戻り、そこから比較的近い和都の家の方へ足を向ける。
一番近いのは学校だったが、先日、養護教諭が和都に対して暴言を吐いたり、ベッドで休んでいる時に暴力を働いていたことが発覚し、辞めていた。なので今の保健室には、常駐の人が誰もいない。それに下校時刻を過ぎているので、利用ができるかどうかの判断がつかなかった。
「……おれ、やっぱりさっさと死ぬべきじゃないかと思うんだけど」
背中で押し黙っていた和都が口を開いた。
──ああ、まだダメか。
祐介は内心落胆する。けれど、だからと言ってそれを口にすることはない。
「ふざけんな。俺の目が黒いうちは勝手に死なせねーからな」
仕方なく落ちたと言っていたので、今回は自殺未遂ではないだろう。
けれど、まだ彼の中では、自分の存在がいなくなればいいのでは、と思う気持ちは消えていない。
もちろん、ただの約束一つで簡単に消えるものでないことは知っている。
何をどうしたら、消えるのか、消してやれるのか、分からない。
また暫く大人しくなったと思うと、思ってもいない言葉が和都の口から出てきた。
「……ユースケって、もしかしておれのこと好きなの?」
「嫌い」
考えることもなく、即答した。
そんな、周りの気持ちなんて考えず、死にたいとばかり願う『死にたがり』なんか、嫌いだ。
「即答かよ」
「嫌いだから、嫌がらせしてる」
「なるほどね?」
和都が呆れたように頷いた。
我ながら良い理由だな、と祐介は笑う。
死にたいヤツを無理矢理生きろと助け、生かしているのだ。これは嫌がらせ以外の何物でもない。
「……高校も、同じとこ行くからな」
密かに考えていたことを、祐介はいつもの調子で、ついに言ってやった。
「はぁ?! お前とおれじゃ偏差値違いすぎるでしょ」
「どーとでもなるし、する」
「……嫌がらせのレベルえっぐい。おばさんにおれが睨まれるじゃん」
和都が不貞腐れた声で言う。無理もない。
ずっと
それを全部ふいにしようとしているのだ。
これは、川に落ちたのを助け出し、家出未遂まで手伝ったものとは比べものにならない、この上ない『嫌がらせ』だ。
「じゃあとっととその死にたがる癖を治せ」
「……大学までついてこないよね?」
「高校で治らなかったら続けるぞ」
「あーもー、わかったよ。……完敗だよ」
声が沈んで、鼻をすする音が聞こえる。
母は怒るだろうが、学歴なんて、最終的に母が自慢できる仕事に就きさえすればいいのだから、あまり関係ない。
そんな途中経過の華美より、今は背中で小さく泣いている命を、助けるべきだ。
「困ってることは、全部助けてやる。全部俺に言え。全部、なんとかするから」
「うん」
「だから、自分から死にに行くな」
「……うん」
背中から聞こえる、ぐすぐすとしたすすり泣きをそのままに、祐介は和都の家へ急いだ。
◇ ◇ ◇
「羽柴先生には、事前に伝えておこうと思って」
九月に入り、受験も本格的になってきた。
模試の後の個人面談で、祐介に真剣な顔でそう言われ、羽柴は揶揄うように答える。
「え、なぁに? もしかして愛の告白?」
「違います」
無表情な顔を少し、呆れたように眉をひそめて切り捨てられた。
はぁ、と息をついてから、祐介が口を開く。
「『
「え、白鷹大付属じゃなく?」
「はい」
「……えーと。あー、ちょっと待ってね」
予想していなかった言葉に、羽柴は動揺しつつそう答えて立ち上がると、学校案内資料の棚から『狛杜高校』の資料を取り出して持ってくる。
「えーと、狛杜高校、公立の男子校、か」
資料を見た限り、偏差値は極めて高いというわけでもないが、平均よりやや高めの高校だ。
「あ、狛杜ってあれか、杜山のすぐ近くの狛杜公園のところの学校か」
「はい。自宅から徒歩圏内にあります」
「あぁ、そう……」
一年の頃から決めていた進路を、成績など加味して変更することは多分にある。しかし、祐介は元々過剰なまでに実力があり、白鷹大付属も難しくはないだろうという成績。狛杜など、対策を練らずともきっと余裕だ。
「付属の受験もやめちゃうの?」
「いえ、併願で。試験は受けないと、母が納得しないでしょうし」
「あーそっか」
きっと試験は受けても、受からない方法を取るつもりなのだろう。
彼の母親は、彼に暴力的なまでの期待を寄せていたのは、これまでの話を聞いた限りで知っている。遠方で有名な高校への受験は、そこから離れるための手段だと思っていたので、羽柴は少し心配になった。
「理由は? 聞いても良い?」
「……友達が、そっちに行くので」
「ふーん? 一緒の高校に行きたいから、ってことか」
羽柴の言葉に、祐介の視線が下を向く。
彼が自分のことよりも、優先させたい相手に、羽柴はすぐに見当がついた。
「もしかして、例の『死にたがり』くん?」
「……はい」
祐介は俯いたまま、申し訳なさそうな声で言う。
「すみません。一年の時から先生にはお世話になっているのに。塾の経歴にも、傷をつけることになります」
「僕はいいんだけど、親御さんや周りの人に、色んなことを言われると思うよ」
学歴を最重視する保護者や生徒はたくさん見て来た。受験でいい結果を残せずに、家族仲が悲惨になったパターンだってある。彼の行動は、そんな針のむしろに自分から座りに行くようなものだ。
「はい、分かってます」
「それでも、狛杜へいくの?」
「自分で、決めたので」
顔を上げてそう答える祐介の表情が、なんとなく清々しく見えた。
夏休みの自習室で、どこか諦めたような顔で黙々と課題をこなしていた時とはなんだか違うような気がする。
「……その子のこと、好きなの?」
羽柴の言葉に、祐介はうーん、と困ったように悩む顔をした。
彼は普段からそんなに悩む様子を見せないので、少しだけ珍しい。
「よく、分かりません。でもアイツには助ける人が、味方が、必要なので」
「無償の献身は素晴らしいけど、いつか見返りが欲しくなった時、その子が自分に何も返してくれなかった時、苦しむのは君だよ?」
「その時はその時で、苦しもうと思ってます」
友情か恋情か、それとも単なる正義感か。
どれとも言えないそれは、端的に言ってしまえば執着でしかない。
──そんな感情を向けられる『彼』は、どんな気持ちでいるんだろうね。
羽柴はつい、そんなことを思ってしまった。
「半分くらいは、意地なのかもしれません。でも、アイツがこの街を出ていけるまでは、守ってやりたいんです」
自分の立場を考えたら、ここでこれまでにない優秀な頭脳を持つ彼の、あまりに馬鹿馬鹿しい決断を諫めるのが仕事だろう。けれど羽柴は、そうするべきではないな、と思った。
全てのことを飲み込んで、受け入れて、突き進む覚悟をした人間には、どんな言葉も届きはしない。
「……そっか。まぁ、君の中で大事な信念があってやることなら、僕は咎める気はないよ」
そう言って、羽柴は相談用に広げていたファイルを閉じた。
狛杜に行く意思が固いのなら、白鷹大付属の話はノイズでしかない。
「がんばってね」